9

 夕子がすっかり部屋を出ていってから、翔は気にするなと翠の頭に手をやって髪をがしがしとかき混ぜた。

「あんなの、ただのことわざだ」

「……ここの人たちは、それを信じて生きているんですよね」

「何を信じるか信じないかは、その人次第だぜ。無理に受け止めることはねえよ」

 翠がこくんと頷き、ありがとうと呟いた。

 それから夕刻まで、部屋から景色を眺めたり、外を軽く散歩して過ごした。幸也に呼ばれ早めに食堂で食事を摂ったが、いつの間にか興味津々の会員が集まってきていた。

 彼らは夕子の言った通り、何かしらの事件の被害者や遺族ばかりだった。だが、意気消沈するようなエピソードとは裏腹に、一様に穏やかな顔つきをしている。彼らは彼らの信じるものを信じ、励まし合って辛い出来事を乗り越えようとしている。その強さには、翔も素直に感心した。

「ほら、えび天まだあるぞ。ご飯もおかわりしたっていいからな。育ちざかりは、いくら食っても食い足りないだろ」

 親切心でおかわりを促す人や、テーブルでトランプに興じる人、雑談に花を咲かせる人など、どう見ても彼らは一般人だ。安心すると共に、必死に四杯目のおかわりを断った。育ち盛りといえど、これ以上は物理的に無理だ。

 部屋に引っ込み、大浴場ではなく備え付けのシャワーを使った。翠の目の事情を知られていても、その背の傷について深堀りされたくはない。夜七時になっても、七月の町にはまだ陽の名残がある。畳に寝転がり、翔はようやく胃を落ち着けた。翠がポットで沸かした湯で急須の緑茶を注ぎ、部屋の中央に移動させた座卓に湯のみを置いてくれる。

 翔が起き上がると、部屋の引き戸が軽くノックされた。鍵はかけていない。返事をすると、引き戸を引いて幸也が顔をのぞかせた。

「下で宴会してるけど、どう?」

 翔の渋い顔を見て苦笑いしながら、そうだよなと彼は言った。「約束通り、また来たよ」

 お茶を淹れると翠が言って、ちょっとだけと幸也はスリッパを脱いで部屋に上がった。階下から微かに聞こえてきた笑い声が、引き戸に隔てられて聞こえなくなった。

「少しは気晴らしになってるかな」

「うん、まあ」

 翔が振り向くと、翠は向かいの幸也に湯のみを手渡して頷いた。

「初めて、こういう所に来ました」

「古いけど、昔はけっこう敷居の高い旅館だったらしいよ。今はもう古いけど」

 同じ言葉を繰り返し、幸也は茶をすする。風呂上がりの浴衣姿が実にさまになっている。写真を一枚撮れば、雑誌に載れるんじゃなかろうか。

「風が、気持ちいいです」

 群青に染まる窓の外から、涼やかな風が吹いてくる。三人はしばらく黙って、夜に沈む町を眺めていた。

「そういえば、幸也さんはどうして会に入ったんすか」

「俺?」

 座卓に頬杖をついて外を眺めていた幸也が、なるほどという顔をした。

「そうだよ。俺も、大事な人を亡くした」

「あ、すいません、そういう意味じゃ……」

 腹いっぱいで頭に血が通っていなかった。入会の意味を問うことは、幸也の古傷を抉る行為になってしまう。

「いいよ、気にしないで」

 慌てる翔を見て右膝を立てたまま笑い、それを崩してあぐらをかいた。

「十八の高校生の時に、付き合っていた彼女が亡くなったんだ。俺にとって、世界一大事な人だった」

 当時を懐かしむように、彼は頬を緩める。その様子から、彼女に対して今も変わらぬ愛情を抱いているのが察せられる。

「未来って書いて、未来みくって読む。一緒に同じ大学に進学して、将来は結婚しようとまで約束してたんだ」

「それはすごい……」

 高校生の恋愛は結婚という二文字を意識するには早すぎる、と思うのは自分が幼稚なのだろうか。だが周囲のカップルたちも、今をただ楽しんでいるだけで、同じ将来を見据えているようには思えない。彼女はきっと幸也のように、聡明な女性だったのだろう。

「けれど、未来は十八で亡くなった。それも、自ら命を絶って」

「自ら?」

 翔と翠の声が被る。幸也は「そう」と頷く。

「俺たちの家の、ちょうど中間地点に大きな公園があってね。早朝の雑木林で、木の枝にロープをかけて首を吊っているのを発見された。前日の夕方もいつも通りに公園のベンチで長話をして、俺が彼女を家に送って別れたんだ。俺は何も感じなかった。何一つ気付けなかった」

 話が進むごとに、幸也の瞳が鋭敏さを帯びていく。彼の目に映るのは座卓の木目ではなく、また明日と手を振る彼女の姿と、苦しみ息絶えた無残な姿。その合間に立って、今も彼は辛苦を噛み締めている。

「その、未来さんはどうして……」

 おずおずと翠が幸也を見上げた。その様子に怯えを感じ取り、彼は大きく息を吐いて、どこか疲れた表情でかぶりを振った。

「結局、分からなかった。ほんの些細なことが原因だったかもしれないし、俺の知らない大事件があったのかもしれない。彼女が自殺をする理由は、親にも友人にも誰にも見つけられなかった」

 後悔ばかりだよ、と彼は呟く。

「俺がもっと意識していれば、彼女の心の軋みに気付けていたはずなんだ。誇張じゃなく、俺は誰よりも彼女の傍にいた。だから、気付くべきは俺だった。なのに俺は、その責任を知らないうちに放棄して、未来を死なせてしまった。俺が殺したのと同じことだ」

「幸也さんは悪くないです。絶対。絶対、悪くない」

「ありがとう」

 真剣な調子で繰り返す翠に微笑み、幸也は身を乗り出して彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 幸也の心には今も彼女がいる。しかし、彼と千沙がくっつく可能性がゼロに等しいことを知っても、翔の心は曇ったままだった。俺が望んだのはそういうことじゃないんだ。

 それに幸也が自らを責め苛む姿など、亡くなった彼女は望んでいないだろう。そして賢明な彼は、その願いに本当は気付いている。気付きながら、やるせない想いを少しでも和らげ分かち合うために、ここにいるのだ。

「翠くんは、こんな大人になっちゃ駄目だよ。こんなに後ろ向きじゃ、幸せだって逃げていく」

「でも、幸也さんは」

「俺はいいんだ。俺が望んでこうしてるんだから。翠くんは優しい良い子だから、これからうんと幸せにならないといけないよ」

 翠が口を噤み、視線をそっと翔に送る。それを受けて翔も言葉に詰まる。異変を察した幸也が、不思議そうに二人を順番に見た。

「……翠は、このままだと死んでしまうんです」

「死ぬって、翠くんが? どうして」

「呪いが解けなければ、八月六日の明け方に、心臓が止まって」

 躊躇いながらも、翔は翠の呪いについて語った。加えて、あと四人の人間を死なせるか、形代を身代わりにするしか呪いを解く方法はないということ。解けなければ、ひと月足らずで彼の命は潰えてしまうこと。

 幸也は口を挟まずじっと翔の話を聞いていた。彼になら全てを話してもいいだろう。二人ともそれほどには、幸也に対する信頼の気持ちがあった。

「そうだったのか……。無神経なこと言ってごめんな」

 謝る彼に、翠が髪を揺らして首を左右に振る。知らなかったのだから、彼が謝る道理などない。

「形代はすぐに届くよ、必ず。翠くんみたいな良い子が、こんなところで死ぬはずがない」

 真っ直ぐに翠を見つめて言い切るのに、何だかそれは確実な未来であるような気がした。幸也の言う通り、形代は間に合い、呪いを移して、翠は無事に十四歳の朝を越える。

「大丈夫だ。大丈夫だけど、一日でも早く手に入るよう願ってるよ」

 幸也がそう言って翠に笑いかけ、翠もようやく笑顔を見せた。今日初めて彼が見せる、自然な笑顔だった。

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