8
千沙は、悪いけど今回はと気まずそうに断った。基本的に、彼女は会に対して良い感情を持っていない。もし施設に行ったことが母に知れて、興味を持ち出したのだと誤解されては堪らない。翔もその通りだと思った。
次の一週間も終わりを迎える土曜日、三人はバスの後部座席で揺られていた。窓際から、翠、翔、そして幸也が並ぶ。郊外を行くバスはゆっくりと進み、地元民がちらほらと乗り降りする程度だ。片側四車線の道路の両脇には、広い敷地を持つファミレスやガソリンスタンドが並んでいる。普段バスを利用する機会のない翔には多少の新鮮味もあったが、それもすぐに薄れてしまった。翠だけは飽きずに窓の外を眺めている。
「郊外だけど、意外と街の中にあるんですね」
「こういうのって、辺鄙な山奥にあるイメージだよな。俺もそうだったよ」
都会とも田舎とも評しきれない中途半端なバス停で三人は降りた。翔は自分たちの着替えだけが入ったボストンバッグを一つ、肩にかける。中身は軽いが、翠の細い身体では頼りない気がしたので、彼の申し出を断り自分の背に負う。
コンビニや大きなスーパーが並ぶ幹線道路を逸れると、緩やかに蛇行する川が現れた。橋を渡り、川沿いを上流へ歩く。住宅やチェーンの喫茶店や学習塾などが肩を並べ、住民の生活のにおいが強く漂う道だった。
十五分ほど歩くうちに、少しずつ店や家が姿を消し、角を曲がると二階建ての古風な建物がどんと姿を現した。元旅館は随分と古そうだが、きちんと掃除が行き届いており、蜘蛛の巣などは見当たらない。
「ここで、十人くらいかな。集団生活をしているんだ」
引き戸は左右に開かれていた。幸也に続き、二人はおっかなびっくり敷居をまたぐ。上がり框の靴箱には、数人分の靴やスリッパが収まっていた。幸也がスリッパを並べてくれるのに、礼を言って履き替える。左右に長いカウンターに出迎えられ、旅館の名残を感じる。
いくら手入れをしても、床は軋んでしまうらしい。遠くから微かに床板の軋む音が聞こえ、やがて一人の女性がひょこりと顔を出した。
「あら、幸也くん。さすが時間通りね」
「こんにちは、
挨拶を交わした幸也に紹介され、二人はぺこりと頭を下げた。
「佐久間さんから話は聞いてるよ。お部屋用意してるから、そっちに行きましょう」
夕子に案内され、三人は部屋の奥へ進む。廊下は入り組み、客室らしい引き戸が左右に並ぶ。「食堂」と「湯」の暖簾がかかった部屋の前を通り過ぎ、「談話室」とある一室からは笑い声が聞こえてきた。ぎしぎしと軋む階段を上がって左手側の引き戸を、彼女が引いた。
中は十畳ほどの和室で、押し入れと掛け軸のかかった板間があり、大きな座卓が壁際に寄せてある。殺風景な部屋は如何にも地方の旅館という色を濃くし、開け放たれた窓の外には、先ほど遡上してきた川が見えた。川の向こうにも町が広がり、更に先にはお椀を伏せたような緑の山がある。
「二階の方が、景色がいいと思ってね。この部屋、好きに使っていいよ」
ありがとうございますと揃って礼を口にし、翔はバッグを下ろして隅に置いた。七月中旬のさっぱりした風が吹き抜けて涼しい。
「あれ、どっか行くの」
踵を返して部屋を出て行こうとする幸也の背に、翔は自分でも驚くほど焦った声をかけていた。
「ちょっと挨拶がてら。……そんな不安?」
てっきり彼が四六時中ついていてくれるものと思っていた。だが、そんなに怪訝な顔をされては、不安で一緒にいてほしいなど言えるはずがない。
「いや、ちょっと聞いただけ」
「後で、来てくれますか」
強がった翔の横で、翠が心細さを隠そうともしないまま問いかける。彼はちょっと笑って、もちろんと答えた。翠がほっとした様子を見せ、翔も内心で安堵する。
「そんな、取って食べるような真似しないのに」
幸也が引き戸を閉めて出ていくと、夕子は座布団に腰を下ろしてくすくすと笑った。いつの間にか、彼女は押し入れから座布団を三枚出して並べてくれていた。促され、二人も彼女の向かいに並んで座する。
翔には女性、それも二十歳を過ぎた異性の年齢など見当もつかないが、恐らく夕子は三十には届いていないだろう。二十代後半ぐらいか。低い位置でゆるく髪を一つに束ね、ベージュのサマーセーターと水色のロングスカートを身に纏っている。少し垂れ気味の目を細めると、薄いピンクのアイラインが緩く動いた。
「やっぱり、どことなく
その瞳には、正座の背をぴんと伸ばした翠が映っている。
「輪郭が、お母さんにそっくり」
微笑む彼女に、翠は小さく唇を開き、苦しそうに声を発した。
「桜というのが、ぼくのお母さんの名前ですか」
「そう。私より少し年上でね、子どもの頃からよく遊んでもらってたの。まさか桜ちゃんの子どもに会えるなんて、思ってもみなかった」
友人の忘れ形見を見る彼女の目は、心なしか潤んでいる。翠の母親である桜とは、随分懇意にしていたらしい。
「桜さんは……お母さんは、どんな人でしたか」
翠は腿に乗せた両手を強く握りしめている。
「とっても優しい人だったよ。賢くて、笑顔が可愛い人だった。誕生日には、毎年私とプレゼントを贈りあってね。あの時もらったぬいぐるみは、今も大事にしてる。暑い夏の日には、一緒に商店でアイスを買って食べたり、冬には雪だるまを作ったりした」
懐かしそうに目を細めて、夕子は桜との思い出を語る。それは何でもない日常の切れ端で、記憶の彼方に消え去っていてもおかしくない些細な日々の出来事だ。それでも彼女は、桜と過ごした時間を今も鮮明に覚えている。
「夕子さんは、ぼくのお父さんについては、知りませんか……」
翠の台詞に、夕子は微かに眉根を寄せ、難しい表情を見せた。
「ごめんなさい。私は桜ちゃんのことしかよく知らないの。彼はもう少し年上で接点なんてなかったし、それに……」
天ヶ瀬は、村八分にはされなかったと萩野は言った。それは、村八分の手前まではいったということだ。呪われた家に寄り付く理由など、夕子にはなかったのだろう。
彼女の言いたいことを理解し、翠が頷いた。
「桜ちゃんがお嫁にいくって聞いて、びっくりしたの。いつお見合いをしたのか……それもお見合いだったのか、馴れ初めも私は知らないの。拗ねる私に、桜ちゃんはごめんねって謝った。私が離れてしまうのが怖かったんだって」
「お母さんは……結婚するのを、嫌がってましたか」
「ううん、幸せそうに見えたし、実際幸せだったんだと思う。すぐに懐妊して、まだ膨らんでないお腹を撫でながら、この子の名前はどうしようかなって笑ってたよ」
翠が耐えるように唇を噛んだ。翔が出血を心配するほどに、力が籠っているのが見て取れた。翠の願い通り、桜という女性は産まれてくる我が子を愛していたのだ。
涙を零したのは翠でなく夕子だった。スカートのポケットから出したハンカチで目元を抑える。
「桜ちゃんの出産の前に、私は引っ越すことになってて、村を出たの。訃報は風の噂で知って……」
明昂村で育った彼女は、桜の死の状況も知ることになった。あれほど楽しみにしていた我が子の誕生により、桜は命を失った。どれほど無念だったことだろう。
「旦那さんも亡くなって、子どもの行方について知ることは出来なかった。……翠くん、今まで本当に寂しかったね」
彼女は両腕を伸ばし、翠をそっと抱き寄せた。まるで母親のように優しく抱きしめ、頭を撫でる。さらさらの髪が、彼女の指に絡んで滑る。翠は抱き返さないまま、しかし拒否することもなく、されるがままにじっとしている。
「桜ちゃんは……お母さんは、翠くんを愛していたよ。お腹のきみを撫でる幸せな笑顔が、ずっと私の中にある。こうすることを、誰より望んでいたと思う」
しばらく翠を抱きしめて、彼女は静かに腕を解いた。前髪を直される彼は、呆然としている風だった。他人から抱きしめられることなど、物心ついてから一度もなかったのかもしれない。
ただ話を聞いていた翔は、翠が話し出さないのを見て口を開く。
「夕子さんは、村に戻ったことはあるんですか」
しかし彼女はかぶりを振った。
「ううん。……恥ずかしいんだけど、私、引越し先から更に駆け落ちしたの」
「駆け落ち?」
「知り合った男の人とね、結婚を考えてたんだけど、家族の了承が得られなくて。それで駆け落ちしたんだから、村にも戻れないよね」
「じゃあ今は、その人と」
駆け落ちまでしたのだから結婚したのだと思ったが、旦那と共に芽佑会に入ったのだろうか。二人で暮らすのでなく、会の面々と共同生活を送ることを選ぶものなのか。
「死んだわ」
彼女が纏う空気の温度が一気に冷えた気がした。彼女自身に宿った強い感情が氷点下のマイナスを孕んでいるようで、翔はぎくりとする。
「職場で、強盗にナイフで刺されて死んだ。犯人は捕まったけど、人を一人殺したぐらいじゃ死刑になんてならないのね。あと数年も経てば出所するわ」
翔の固い表情を見て、彼女は苦笑する。
「復讐なんて考えてないわよ。ただ、納得ができないだけ。その痛みを分かち合うために、私はこの会に入ったんだから」
「じゃあ、芽佑会って……そうした人たちの集まりなんですか」
「あれ、知らなかったの?」
居心地悪い思いで頷くしかなかった。千沙に会について詳細を尋ねるのは気が引けたし、子どもたちのいる食堂で訊くのも憚られる。気にしてはいたが、答えを得る機会がなかったのだ。
「ここにいる人たちはね、ほとんどが何らかの事件の被害者や遺族なの。天網恢恢疎にして漏らさずを信条にして」
「てんもうかい……?」
翠が首を傾げた。翔も初めて聞く言葉だった。
「
翠の身体が強張った。夕子は気付いてないようだが、司法の目をかいくぐって他人を死なせてきた彼には、恐ろしい言葉に違いなかった。確かに事件の被害者たちにとっては頼もしい言葉だが、ただのことわざだ。彼にそう言ってやりたいのを、翔はぐっと堪える。
「話がそれちゃったね。そうだ、翠くんにお守り作ってあげる」
両手を合わせ、夕子が何とか雰囲気を盛り上げようとする。
「これから翠くんに、たくさんの幸せがきますようにって。私の母親にも、桜ちゃんの話、もっと聞いておくわ。今は多少和解してるから」
ありがとうございますと、翠が丁寧に頭を下げた。その両手を夕子は自分の手で包む。
「あなたは桜ちゃんの宝ものよ。いつまでも、それだけは覚えておいてね」
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