2章 天ケ瀬の呪い
1
翠は、
この話を聞くと、俄然千沙も行きたがった。彼女も翠の呪いを解くことに大賛成し、翔は千沙も共に出かけられるのは幸運だと思った。
「食堂のゼリー、サービスするからさ。交通費お願い」
「いや、千沙の食堂じゃないじゃん……」
しかし手を合わせられて、断れるはずがない。金とはこういう時に使うものだ。共に村までの経路を調べ、土曜日の早朝には駅に集合した。
私服姿の千沙を、翔は始めて見た。夏らしい水色のワンピースを纏い、手首には同系色のシュシュをつけている。「これね、知り合いのお古なんだけど」と彼女は言うが、そんなこと気になるはずがない。
「千沙ちゃん、可愛いですね」
同意を求めるように、翠が翔を見上げる。
「え、うん。まあ」
彼の素直さが自分にあればどれだけいいだろう。「ありがとー」とハグの真似事をされる翠が心の底から羨ましい。
初めて向かう方角に特急電車を乗り継ぎ、次第に窓の外の風景は緑色を濃くしていく。翔の隣り、窓際の席で、翠はじっと景色の移り変わりを眺めている。彼の正面に座る千沙も、まるで遠足に出る小学生のように目を輝かせている。気を抜けば千沙にばかり視線を向けてしまう翔は、敢えて外の景色に集中したり、翠に話しかけたりする。
村は更にバスでしばらく揺られた先にあった。時刻表で確かめると、村から駅までは一日に五往復の便しかない。既に陽は高く昇っているが、遅くとも十五時台の便には間に合わせようと相談して決めた。
明昂村は、山の間に埋もれるようにして存在していた。どの方角を見ても緑の山に囲まれている。早めに羽化した蝉の鳴き声が響き、青々とした田畑の中にぽつぽつと人家が存在している。居住空間の中に緑があるのではなく、自然の中に人が住まわせてもらっている表現がしっくりくる村だ。
舗装されていない道を行き、ひとまず三人は役所に向かうことにした。小さい村ながらも役所のホームページは存在し、そこに村の大まかな地図も載っていた。バス停から道なりに歩き、神社が見えたら左に曲がる。五百メートルも行けば、役所に出るはずだ。
「これぞ田舎って感じだね」
千沙の顔に木漏れ日が零れている。右手に迫る山から木々がせり出し、その枝葉の合間を縫った白い光が点々と地面に降り注ぐ。
「全然人がいないな」
「そういえば。さすがに役所に行けば誰かいるよね」
バスを降りてから一度も人とすれ違っていない。遠目に畑仕事をする人の姿はあったが、それだけだ。外に出れば必ず他人が目に入る街中とは、あまりに様相が違い過ぎる。
「なんか思い出したか」
うっすらかいた汗を手の甲で拭いつつ問いかけると、翠は済まなさそうに首を振った。
「翠くん、いくつまでこの村にいたんだっけ?」
「三つって聞いています」
「そっかあ。そりゃあ覚えてないよねえ。私だって、最初の記憶は幼稚園入った頃だもん」
励ます千沙が、右手に現れた石段に目をやった。二十段ほど登った先に、くすんではいるが、確かに赤い鳥居の姿が見える。
「確か地図にあった神社だよね。折角だし、お参りしてこうよ。この旅行が上手くいきますようにって」
「旅行って。……まあ、いいけど」
ふと考え込んでしまう旅路で、千沙の明るさはまるで陽射しのようだった。彼女の笑顔には随分と助けられている。それに村に入ったのだから、神様に挨拶をするのは当然のようにも思えた。
石段はそのまま山の傾斜だった。上りきった先はきちんと整備されて、石畳が奥の本殿に通じている。周囲には鬱蒼と木が生い茂り、やたらめったら蝉が喚いて夏を主張している。
風が吹いて木々がざわめいた。歩いて熱を持った身体を、涼しい風がひんやりと冷やしてくれる。手水舎の水で手を洗い、その冷たさに驚いた。
本殿で柏手を打ち、三人並んでその手を合わせる。無事に翠の呪いが解けますように。うっかり千沙との進展を望む自分の欲を押さえつけ、翔は心中で唱えた。
「あれ、何だろ」
さて戻ろうと振り返ると、千沙が本堂の脇を指さした。
「おみくじ結ぶやつじゃないか」
「でも、ここにおみくじないでしょ?」
確かに人もいなければおみくじを授与する場所もない。
地面から生えた二本の棒が、木の箱を支えている。傾斜のついた三角屋根で雨をしのぎ、透明なプラスチックの扉で風をしのいでいるようだ。
「……人形?」
箱の中を覗き込み、翠が不思議そうに呟いた。中は上下二段に分かれており、上段に白い布で作られた簡素な人形らしきものが三つ並んでいる。大人の片手に収まるほどの小ささで、丸い頭に細い胴、四本の短い手足が生えている。頭にはそれぞれ顔のパーツが刺繍され、どれも口角を上げて笑っているように見えた。
「守り人形、だって」
傍には、褪せて随分と読み辛い説明書きの看板が立っていた。明昂村では、子どもが生まれるとこの神社に人形をあずけ、健康と幸福を祈る。子どもが無事に五歳を迎えると、礼と共に人形を手元に戻し、お守りとしてその子に与えるのだという。つまり、この村には今、五歳に満たない子どもが三人いて、それぞれの親が健やかな成長を願っているということだ。
「そっか。昔は、子どもが育つのは難しかったっていうからな」
「なんか素敵だね。こういう風習が残ってるのって」
宗教的というよりも、子の健康を祈る親の真っ直ぐな祈りが感じられる。寂れた神社で、ここだけは随分綺麗に保たれているから、村にとって今でも重要な風習なのだろう。
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