14
「翔くんは、よくハンバーグ食べるんですか」
「そういや、俺も随分食ってなかったな。クラスのやつと出かけた時に、たまーに食うぐらいだな」
ハンバーグなんて、最後に食べたのはいつだったか。確か自分は焼き立てのハンバーグが大好きで、においがしただけで、まだかまだかとキッチンで騒いでいたというのに。
「母さんが、よく作ってくれてたんだよ。あれはもっと旨かったけどな」
「もっと?」
翠の素っ頓狂な声に頷いてみせる。さっき食べたハンバーグはもちろん旨い。しかし、いまや記憶となった母親のハンバーグの味には届かない。そこには何があっても超えられない壁がある。
翠が何か言いたげに、口を小さく開いて閉じた。彼が言おうとしてやめた何かを、翔は察した。
「そういや、俺の母さんのこと、知らないんだっけ?」
翠は二度三度と首を縦に振る。
ウェイトレスが皿を下げ、翔のアイスティーと翠のオレンジジュースを置いていった。グラスにポーションのミルクを垂らして混ぜ、父親が余計なことを話すはずがないのだと思い至った。死んだ妻の話題など、孝雄にとっては余計なことに違いない。
「事故で死んだんだよ。俺が小六の時」
「何の事故ですか」
「交通事故。乗ってたタクシーが追突されたんだ」
ぴんと背筋を伸ばす翠に、飲むように促す。彼はストローの袋を丁寧に破り、オレンジジュースにそっと口をつけた。白く細い喉が上下に動く。
翔も自分のアイスティーを喉へ流す。美味くも不味くもないそれが、食事による身体の熱が気持ちよく冷えていく。
「意識が戻らないまま、事故から一日経って亡くなったらしい」
「……らしいっていうのは」
「俺も、事故のとき隣りにいたんだ」
驚く翠の目は、開いていれば真ん丸になっていただろう。
家庭を一切顧みない孝雄の傍若無人さに疲れ果てた母は、息子を連れて家からの逃亡を企てたのだ。新しいところで、二人で生活しよう。疲弊した母親の顔を見るのに辛さを感じていた翔は、その言葉をすぐに受け入れた。同時に、母に生活を立て直す気力がまだ残っていることが嬉しかった。
だが、道中でタクシーは事故に遭い、母親の命は潰えた。彼女の財布から動物園の優待チケットが出てきたことと方角から、二人は母子で遊びに出かけたのだと誰もが疑わなかったし、翔はそれに話を合わせた。本当のことを話して、これ以上父親の罵詈雑言を聞くのは、例えその対象である母が亡くなっていても嫌だった。孝雄は事実を察しているに違いないが、下手に喋れば母の名を余計に傷つけるだけだと翔も理解している。
「医者が言うには、俺は生き返ったんだって」
「生き返ったって、どういう」
「一度は、心肺停止だったらしい。つまり、心臓も呼吸も止まってたんだ。だけど俺は、そっから生き返った」
話によく聞く三途の川や、花が咲き乱れる草原の記憶はない。目を覚ませば病院で、母はとうに息を引き取った後だった。
「すげえだろ」
「うん、すごい。さすが翔くん」
翠の心の底から感動したといわんばかりの様子には、少し照れくさくなる。だけど全て、本当のことだ。
「その時、川とかありましたか」
「ないよ。俺は三途の川は見なかった」
「お母さんは、翔くんを呼ばなかったんですね。生きててほしいから」
翠の言葉に驚き、そんな考えもあるのかと呟く。既にあの世にいた母親は、自分を呼ばなかった。呼ばれていれば、自分はあっという間に川を飛び越えて、そちらに向かったに違いない。
「本当によかったです。翔くんが生き返って」
翠が繰り返すのに、不思議な心地がする。同じ屋根の下で過ごしているとはいえ、自分たちは出会ってまだ二ヶ月も経っていない。それでも翠は、翔の無事に心から安堵している様子だ。
どう見ても、ただの子どもにしか思えない。それも下手な人間より人間らしい。彼も目隠しなどなしに普通に生きることが出来れば、と考えてしまう。
「翠の呪いって、解けないもんなのか」
「とける……?」
ふいの言葉に、彼は単語を漢字に変換できない様子で、同じ言葉を繰り返した。
「だから、呪いを解いて、普通に暮らすってことだよ」
「ぼくの、この呪い?」
自分の目を覆う布に触れて、彼は不思議そうに首を振った。
「考えたこと、なかった」
「翠だって、今みたいなのは嫌だろ。……その」眉を寄せて言い淀んだが、意を決して続ける。「親父みたいなやつらの言い成りになるのは」
「……考えたこと、なくって」
彼は覆われた目線を伏せる。生まれた時からの当たり前を揺るがされ、当惑している。
「だって、昨日からすげえ落ち込んでたじゃん」
言ってから少し後悔した。この放課後で、翠の心は多少なりとも晴れただろうし、それが目的だったのだ。再び落胆させてどうするんだ。
けれど今なら、この空間なら、翠の返事を受け止められる気がする。
「やっぱり嫌だろ。呪いの力ってやつ」
「……悪い人だって、聞いてます」
彼は両手でそっと自分の目を覆い、囁くような声を零す。
「ぼくが死なせる相手は、悪い人だから。法律で裁かれないだけで、悪い人間だから、死なせてもいいんだって。その方がいいんだって。みんな、そう言って……」
「みんなっていうのは」
「今までの、旦那さまとご家族。みんな。このままだともっと悪いことをするからって」
そこには間違いなく七宮孝雄が含まれている。彼にとっていけ好かない邪魔な人間は、死なせてもよい「悪い」人間なのだ。
「でも翠だって、嫌なんだろ」
彼は目から手を離し、細い首で懸命に頭を左右に振る。
「ぼくの力は役に立ってるから、だから」
「そうじゃない。翠自身は、どう思ってるんだよ」
本心から他人の役に立てて喜ばしいのなら、昨日の落ち込んだ様子など見られないはずだ。
「法律だとか、親父たちの意見とか抜きにして、おまえ自身はどうなんだ」
ぼくは、という声が掠れる。一生懸命に考えている。これまで考えることを放棄してきた、自分の本心を探っている。あまりに深いところに落ち込んでいるのか、必死な顔が見ていて辛い。
彼を責めているような気まずい感覚に、翔はアイスティーのストローを吸った。それを見て、翠もオレンジジュースを一口含む。舌を湿らせようやく決心した面持ちで、声を微かに震わせながらも彼は口を開いた。
「もう、誰も死なせたくないです。すごく……すごく嫌だ」
唾を飲み込む喉の動きが見える。
「やっと色のついた世界で、いつも知らない人が死んでいく。綺麗な景色の中で、ぼくは死んでいく人だけを見る。ぼくのせいで人が死ぬ。こんな呪い、もう嫌だ」
手元のオレンジジュースも、立てかけたメニュー表も、そこにある色鮮やかさを翠は認識できない。白と黒の世界に生き、ようやく色が付いたと思えば、目の前には常に誰かの死にゆく姿。
彼が嫌だというのに、翔はほっとした。そんな思いがまだ残ってくれていて本当によかったと思う。
「だよな。そりゃ誰だって嫌だ」
緊張した面持ちの翠は、翔の言葉にようやく肩の力を抜いた。自分の意見を受け入れてもらえた安堵がうかがわれる。
「呪いなら、きっと解ける方法があると思うぜ」
「解けるかな……」
「探してみて損はねえよ。二百年も経ってんだ、そろそろ解けたっていいだろ」
翠に人を殺させたくない思いと共に、彼の瞳を見てみたいと翔は純粋に思う。自分の生還を喜んでくれる彼の素顔をこの目で見たい。その為には、呪いを解くことが不可欠だ。
翠ははにかんで笑った。モノクロの世界を生きる彼が、微かな希望を持っている姿だった。
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