11

 亜香里は、夕食を用意する必要がなくなれば、手間が減ったと喜ぶに違いない。実際、友だちと外食するとだけ言っておけば、一切追及されることはなかった。当然の如く、孝雄は知る由もない。

 翠の希望通り、日曜日は再び千沙と食堂で夕食を摂った。あっという間に二週間が過ぎ、七月を迎えれば、次第に初夏の空気が満ちてくる。学校の生徒たちはとうに衣替えし、期末試験を控えながらも、夏の訪れの予感に皆浮足立っている。

「翠、そろそろ行こうぜ」

 食堂に出かける日は、十七時に家を出る流れが自然と出来上がっていた。二十分ほどで食堂に着き、千沙たちと食事を摂った後に片付けを手伝って帰路に着く。五回目の今日となれば、既にルーチンは出来上がっていた。

 二階から下りて声をかけたが、翠の足音は聞こえない。廊下はしんと静まり返り、足元でにゃあと鳴くモモの声すらよく響く。

「おーい、もう五時だぞ」

 音を立てて廊下を歩き、角を曲がってすぐの部屋をノックする。途端、ドアが開いて翠が顔を出した。空ぶった手が彼の頭に当たりかける。

「どうした、行かないのか」

「行く。行きます」

 一呼吸の間をおいて、彼はそう返事をする。妙に具合が悪そうなのを不審に思うと、それを察した翠が頬を上げて笑顔を作った。

「ごめんなさい。お昼寝しちゃってて……」

「昼寝って、おまえさっき、俺が帰った時には起きてたじゃん」

「うっかりしてました」

 こんな時に、目が隠れているのは便利だ。目は口ほどにものを言うというぐらい、相手の真意を計るにはもってこいの器官だ。ともすれば下手に口から発する言葉よりも、目から伝える情報の方が真実を教えるのかも知れない。

「疲れてるなら、別に無理して行かなくてもいいんだぜ」

 どこがといえば、言葉で説明するのは難しい。だが、ひと月以上彼と同じ空間で生活していると、彼が持つ雰囲気を感じ取れるようになっていた。どことなく、今の翠は疲れてぐったりした空気がある。

「行きたいです。だって、今日は……」

 翠が自分のズボンのポケットに手を当てた。今貯まっているスタンプの数は四つ。今日の五つ目で、手作りのプリンかゼリーがもらえる。翠はそれを随分と楽しみにしている様子だった。一つスタンプを押してもらう度に、嬉しそうにはにかんで笑い、いつもカードを大事に畳んでポケットにしまっていた。プリンなんてスーパーで三個ひとパックのものを食べればいい。だが、彼の期待がそんな味気ないものに替えられるわけがないことぐらい、翔にも理解ができた。

「だよな。じゃあ、行こうぜ。早くしないと閉まっちまう」

 翠が平気だと言うなら、文句はない。二人は今日も手を繋いで食堂に向かった。


 食堂で翠はプリンを貰い、翔はゼリーを選んだ。早めに食べるよう釘を刺され、持ち帰って早速風呂上がりの夜食とする。冷蔵庫から取り出したプラスチックカップの中で、葡萄色のゼリーがてかてかと光っている。

 ダイニングテーブルの向かいに座った翠に、翔はそれを譲ろうとした。正直なところプリンにもゼリーにも執着はなく、どちらにすべきか散々悩んでいた翠に食べさせようと思ったのだ。しかし彼は、プリンのカップを手に断った。

「翔くんのだから、食べてください」

 翠の言葉は予想通りだったから、翔も用意していた台詞を口にする。

「俺、そんな腹減ってないんだ」

「でも、二つも食べるなんて……」

 遠慮しいの彼に、有無を言わさずカップを押し付けようとした手を止めた。戸惑う翠の様子には、いつも以上に無理をしている風がある。微かに引きつった笑顔に、夕刻に見た調子の悪い姿がよみがえる。元々言葉数の少ない彼の具合を計るのは難しいが、それでも感じ取れるほどに違和感があった。本当に、二つも食べられないのかもしれない。

 しかし、尋ねても彼は大丈夫としか言わない。今はプリンのカップにスプーンをそっと差し込み、ゆっくりと味わっている。恐らく、誰にでもある気分の悪い日が、きっと今日なのだ。

 あまり深く考えることなく納得し、翔は手元のゼリーに口をつけた。薄く控えめな葡萄の甘味は、どこか懐かしさを思い起こさせる。

 なくなるのが勿体ないとでも言いたげに、翠は少しずつ少しずつ、プリンを崩していく。

「おいしい」

 口元を綻ばせる彼の言葉に、翔も同意してゆっくりとスプーンを口に運ぶ。夏の初めの夜は、静かに更けていった。

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