10
「はい、出来たよー。はらぺこさん、お待ちどおさま」
女性二人のうち、一人は芽祐会の会員で、もう一人は近所の主婦だという。湯気の立つ出来立ての定食を並べてくれた。「お腹空いたー」と千沙がぱちんと両手を合わせ、それにならって二人も手を合わせる。
思えば、誰かの手料理を口にするのは久しぶりだった。朝は自分で焼いたトーストを口に詰め、昼は購買のパンを食べ、夜は出前か冷凍食品で腹を満たす生活が、ここ数年ずっと続いていた。炊き立てのご飯に味噌汁、おかずはサバの味噌煮と野菜炒め。どれも温かく、そして旨い。
「どう? おいしーでしょ」
「うん、すげえ旨い」
「へへ、褒められちゃった」
何故か照れる千沙に、「千沙ちゃんにじゃないだろ」と、子どもたちの片付けを手伝いながら、幸也が呆れ顔をする。食べている間に更に子どもは増え、座卓やカウンターでめいめい夕食を口にしている。待っている間は漫画本を読んでいた子も、呼ばれると自分で膳を取りに来る。千沙や幸也は慣れた子どもたちから話しかけられ、室内は随分と賑やかな空間となった。
「旨いな」
翔が白米をサバの味噌煮で味わうと、翠も首を大きく縦に動かした。
「とっても、おいしい」唇の端についたご飯粒を取り、その指先をぱくりと口に含む。「全部、あったかくて、おいしいです」
彼もきっと、こんな経験は滅多にないに違いない。もしかすると、初めての可能性すらある。左手に茶碗、右手に箸を持って一心に食事を味わっている様子は、目の事情さえ除けば、近くにいる子どもたちと何ら変わりない姿に思える。美味しそうに料理を口に運び空きっ腹を満たす光景は、むしろ微笑ましい。
「こんにちは」
しわがれ気味の声に、翔と翠は顔を上げた。
店の入り口には、六十歳前後と思しき一人の男が立っていた。白色の混じる短い髪に、目尻の垂れた顔は穏やかな雰囲気を醸し出しており、子どもたちは「おじちゃん」と彼を呼んで口々に挨拶をした。「あら、
「近くに寄ったもんでね、様子を見に来たんだよ」
「佐久間さんも、食事していかれますか」幸也が尋ねると、佐久間という男はいやいやと首を振る。
「すぐ出なきゃならんのでね。お水だけもらえるかい」
よっこらせと座敷に腰を掛け、幸也が手渡すコップの水を美味しそうに飲み干す。
「佐久間さんはね、芽祐会の会長さん。つまり、この食堂の運営者」
誰? と言いたげな翔に千沙が説明する。その間にも子どもたちが口々に佐久間に話しかけ、仲良く笑い合っている。会長と聞いて翔は密かに身構えたが、青いポロシャツとベージュのチノパンツという格好の、どこにでもいそうなおじさんだ。街や電車ですれ違っても、顔すら記憶に残らないに違いない。
「おや、ついに千沙ちゃんにも恋人ができたか」
「なんでみんなそう言うのかなー。二人とも私のただの友だちだよ」
彼女は、「ただの」の連呼にひっそり傷つく翔と翠を紹介した。そりゃ残念と笑う佐久間は、「狭いとこだけど、ゆっくりしてってくれ」と空のコップをカウンターに置いた。
「二人とも、この店は初めてだよね。……幸也くん、カードはもう渡したかい」
「いや、まだです。帰りに渡そうと思って」
幸也が、カウンターの内側で取り出した二枚の紙を佐久間に手渡した。翔と翠の間に歩いてきた佐久間は、その白い紙を二人に見せる。手のひらほどの紙には格子状に線が走っていて、左上から右に向けて1から10の数字が刻まれている。下の段に11と続き、数字は50まである。
「うちに一度来てくれたら、一つスタンプを押すからね。五つ貯めたらおやつと交換だ」
「ポイントカードってことですか」
「そうそう。プリンかゼリーか、好きな方をプレゼントするよ」
はあ、と曖昧に返事をして翔はそれを受け取る。小学生じゃあるまいし、一つのゼリーにそこまで魅力は感じられない。隣の翠をちらりとうかがうと、彼は手元のカードをじっと見つめ、か細い声で佐久間に訊ねた。
「今日は、一つ、スタンプをもらえるんですか」
「そうだよ。帰る時に押してもらうといい」
翔と違い、少なからず翠は興味を抱いたようだ。カードの数字に指先を当てる姿は、どこか嬉しそうに見える。
「子ども食堂にもね、中々入り辛いっていう子どもはいるんだ。大人だって初めての場所は緊張するし、勇気を出して中に入っても、既にコミュニティが出来上がっていたら気まずく思う。それで食堂に来られなくなる子どももいるんだよ。真に救うべきは、そういう子たちなのにね」
子どもといえど、誰もが友好的ですぐに他人と打ち解けられるとは限らない。臆病だったり人見知りだったり、話すのが苦手な子もする。内向的で繊細な彼らを店に入り易くさせる策の一つが、このポイントカードだった。
「おやつ目当てでも、一度でも多くうちの敷居をまたいでもらいたくてね」
佐久間の視線の先では、丁度一人の子どもがプリンを受け取る所だった。それも店の手作りらしい。カップの入ったビニール袋を大事そうに抱え、小学生の女の子が嬉しそうに店を後にした。その様子を、佐久間は微笑ましそうに見送っていた。
食堂の営業日は火、木、日曜の十六時から十九時で、閉店の五分前には、店には千沙たち三人と、ボランティアの三人だけになっていた。翔と翠はせめてカウンターの拭き掃除を手伝い、千沙を含む四人が座敷や厨房を片付けている。
「何で、今日ここに俺たちを呼んだんだ」
座卓を拭く千沙に小声で尋ねると、彼女は漫画じみた仕草で肩をすくめた。
「私のキャラ、いつもと違ったでしょ」
「それは……そう言われれば、そうかも」
「私の秘密を知ってる二人になら、見せてもいいかなって。でも、学校じゃまだ恥ずかしいし。ここに呼べば手っ取り早いと思ったの」
この店で見せた幼い仕草が、千沙の素顔だった。彼女は学校でも明るくよく笑うが、今日ここで見せたように子どもっぽくふざける一面は、あまり出さない。千沙の新たな面は翔の目には一層魅力的に映り、新たに惹かれる要因の一つとなった。
「んじゃ、二人はもう帰った方がいいね。遅くまでありがとう」
台拭きを手に、千沙は膝立ちで翔と翠を見やる。
「え、千沙は帰んないの」
「洗い物手伝って帰るから。いつもそうしてるし」
「なら、俺もそうする」
「今日初めて来たお客さんに、そこまでさせられないよ」
「でも暗くなるし、帰りは危ないだろ」
慣れた動作で厨房に向かう千沙は、だいじょーぶと言った。
「いつも、ゆきくんが送ってくれるから」
頭を架空のこぶしで殴られた気になる。確かに、常連の千沙と一見の自分には、店にとって大きな差があるに違いない。彼らとゆっくりお喋りもしたいのだろう。
だけど自分の気持ちを知りながら、そんなあからさまな態度を取らなくてもいいのに。
初対面の三人の手前、食い下がるわけにもいかず、翔は店を出ることにした。千沙がカードにスタンプを押して渡してくれるが、正直プリンやゼリーはどうでもよかった。
「ただの習慣だから。何にもないって誓う」
カードを手渡すとき、千沙がそっと囁いた。翔と顔を合わせると、再び漫画っぽく片目をつむってみせる。少し不器用で、とても可愛らしい仕草だった。
「じゃ、二人とも、気をつけてね」
出入り口で見送られ、翔は軽く手を振り、その手を翠と繋いだ。幸也たちにとって翠は盲目の設定だから、杖もないのにすいすいと歩道を歩くのは明らかにおかしい。道をすれ違う人に対しても、二度見されるのは目隠しの異様さだけではないだろう。並んで歩く翠は左手を翔と繋いだまま、頻りにズボンの右ポケットを気にしていた。そこには、先ほど千沙にスタンプを押してもらったカードが入っている。
「……また、行きますか」
やけに明るい月を見上げる翔に、翠がそっと声を掛ける。目を向けると、彼は不安げな面持ちで、情けなく両の眉尻を下げていた。
「行くよ。確か日曜と火木って言ってたよな。次の日曜に千沙が行くって言ったら、行く」
それでも翠の表情が晴れないので、「翠も行くだろ」と付け加えてやった。置いてけぼりを心配していた彼は、強張っていた表情を和らげ、「うん」と大きく一つ頷いた。繋いだ手に、微かに力がこもるのが感じられた。
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