9
突然、千沙が翔を名前で呼び捨てにし始めたことに周りは困惑し、すぐに沸き立った。昨日、下の名前で呼び合おうと彼女が提案したのだ。翔にとっては願ってもないことだが、「付き合ってんの?」と興味津々で尋ねる周囲に「違うよ」と即座に否定する千沙の姿を目にするのは少し堪えた。だが、距離が近づいていることは揺ぎ無い事実だ。彼女の態度こそ昨日までと変わりないが、変化した呼び名を口にされるだけで、鼓動が高鳴るほどに嬉しくなった。
放課後、一度帰宅してすぐに再び家を出た。待ち合わせている場所まで、翠と並んで向かう。
「千沙ちゃん、元気になったかな」
隣で翠が心配そうに呟く。彼は翔に対するのと同じく、呼び捨てになど出来ないと言ったので、千沙ちゃんという呼び名で許しを得ていた。彼の声には不安がいっぱいに込められていて、彼なりに千沙の状況を懸念しているようだ。
「学校では普通だったぜ」
「それなら……よかったです」
少なくとも、いつもの明るく元気な星崎千沙の姿を見せていた。周囲は彼女の凄惨な過去を想像するはずもなく、彼女自身もそれを願っているのだ。
「あ、来た来た!」
翠につられて僅かな不安を覚えたが、橋を渡って彼女を見つけた途端、翔はその笑顔に安堵する。制服姿の千沙が、肩の高さで右手を振ってにこにこ笑っている。
放課後は、千沙のお気に入りの場所に連れて行ってもらう約束になっていた。翠も一緒に、そこで夕飯を食べようという。貧乏を明確にした彼女が外食するというのに驚いたが、誘われて行かないという選択肢はない。
「さ、行こ」
「行くって、なんていう店?」
「今は内緒。行けばすぐに分かるし」
翔の質問に、唇の前に人差し指を立ててふざけてみせる。それを見て、翠が頬を少しだけ上げた。翠と千沙は、並ぶとこぶし一つ分ほど千沙の方が背が高い。
「千沙ちゃん、心配でした。元気になってよかったです」
彼は心からそう思っているのだろう。本人に直接伝えられる素直さが、翔には若干羨ましい。
千沙はきょとんと目を丸くした後、「ありがとー」と笑って翠の髪をくしゃくしゃと撫でた。自分は千沙に指一本触れたことがないのに、彼女に頭を撫でられる翠が羨ましいを通り越して恨めしい。
「あ、あそこ。オレンジの看板見えるでしょ」
ふと翠から手を離し、千沙が前方を指さした。一軒の民家の前に、腰の高さほどの小さなオレンジ色の看板が立っている。「ぽかぽか食堂」の文字が、一文字ずつ花形に切り取られた色紙に書かれて貼ってある。どうやらここは民家ではなく店のようだ。
「つまり、えーっと、こういうの何ていうんだっけ」
「子ども食堂」
「そうそう、聞いたことある」
子ども食堂をとり上げた番組をテレビで見たことがあった。困窮した家庭の子どもや保護者に、無料もしくは安価で食事を提供する場所だ。番組では、そこに平然と無関係の大人が混ざって食事を摂ろうとする問題が取り沙汰されていた。世間には面の皮の厚い人間がいるもんだと思ったものだ。
「星ざ……じゃなくて、千沙は、よくここに来てんの」
翔は名前を呼ぶだけで緊張するが、彼女は平然とそれを受け入れてくれる。
「うん。小学生の頃から、お世話になってる。正直、
「がゆうかい?」
「お母さんがハマってる団体の名前」
千沙が足を止めて囁いた。当然ながら、翔には聞いたことすらない単語だった。
「ここのおかげで食費が助かってるのもあるから、お母さんの活動も強く否定できないんだよね。まあ、そもそも会を抜けたら余裕は出来るんだけど。あ、心配しないで。関係ない地域の人もやってるし、勧誘されたりもしないから」
そうは言われても、新興宗教に近しい組織が絡んでいると分かれば、千沙がいなければ近寄りがたい。翔の渋い顔を見て、千沙は小首を傾げた。やっぱりやめる? それでも、彼女からそんな言葉が出る前に、行こうと翔は自ら口にした。好きな女の子、しかも自分が告白した相手を信用しなくてどうするんだ。
二階建ての古民家風の建物は、引き戸を大きく開いている。暖簾をくぐる千沙が「こんにちはー」と挨拶するのに二人も続いた。左手側の手前から奥へカウンターが伸び、右手側には一段高い座敷がある。畳に置かれた座卓に向かい、十歳に満たない三人の子どもたちがノートを広げている。彼らは顔を上げると、口々に千沙の名前を呼んで挨拶をした。カウンターの内側は厨房で、年配の二人の女性と、一人の若い男が同じく千沙に返事をする。
「あれ、千沙ちゃん、どうしたの。お友だち?」
「うん、お友だち!」
髪を後ろで一つに束ねた女性が尋ね、ショートヘアのもう一人が「あらあ」とにやにやする。
「知らなかったな。千沙ちゃんに彼氏がいたなんて」
「違うってば。二人ともただの友だち」
「ちさちゃん、らぶらぶなのー?」
「こらー、ただのお友だちって言ってるでしょー」
鉛筆を握ってふざける子どもたちに、軽くこぶしをあげて怒ったふりをする。きゃあきゃあと笑う彼らとは、随分仲が良いらしい。それにしても、「ただの」を連呼されると複雑な気分になる。
「立ち話もなんだから、座りなよ。お腹空いてるよね」
突っ立っている二人を見かねたのか、カウンターの内側にいる青年が促してくれた。翔を挟んで三人はカウンターの席に着く。
「今日は生姜焼き定食と、サバの味噌煮定食」
「私、生姜焼きがいい!」
千沙が元気よく片手を上げて彼に答えた。学校で見るのとはまた違った、子どもじみた元気の良さだ。
「じゃあ、俺はサバの方で」
横を見ると、翠は「同じの……」と緊張した面持ちで呟いた。青年が注文を繰り返すと、女性二人がいそいそと厨房で調理を始める。
「えっと……そもそも、俺も食っていいの」
隣りの千沙に小声で尋ねると、「いいんじゃない?」と適当な台詞が返る。「子ども食堂だし、高校生までは無料で食べられるよ」
「でもさ、こういうとこって、その、ボランティアらしいじゃん。流石に……」
「そっか、翔の家はお金持ちだもんね」
指を頬に当てて、千沙は思い出した風に言う。嫌味は全く感じられないが、居心地はよくない。少なくとも食費に困ってはいないから、ただ飯をたかっているような気になってしまう。
「そんなに気にしなくていいと思うけどなー。ゆきくん、どう思う?」
ゆきくんというのは、正面でコップに水を注いでくれる青年のことらしい。まだ大学生風の彼は、「そうだなあ」とカウンターにコップを並べる。
「正直、余裕はないけどね」
「じゃあ、俺やっぱり」
「冗談だよ、食堂として大人に食わす余裕はないってだけ。未成年に食べさせるのに困ってはないさ」
「いじわる。私、ひやっとしちゃったじゃん」
千沙が子どものように頬を膨らませ、ごめんごめんと青年が苦笑する。まるで仲良しの兄妹か、下手をすれば恋人同士にも見えてしまう。
「そりゃ何杯もおかわりされたら困るけどさ。もし気になるなら、ちょっと手伝いしてくれたら助かるよ」
彼は近くの大学の四回生で、
翔は自分と翠の名を紹介し、彼は一時的に預かっている知り合いの子どもだと説明した。幸也は翠の目隠しからその不自由さを懸念し、「お水、ここに置いてるね」と声を掛ける。当然ながら座敷の子どもたちにも、彼をちらちらとうかがっている気配があった。
「ちょっと怪我で。でももう慣れてるから、な」
「うん」
まさか彼が呪いの目を持っているなどと言えるはずがない。盲目のふりをする必要はあるが、それがこの場ではベストだろう。幸也は「そっか」と大して怪しむこともなく頷いた。
「困ったことがあれば、ちゃんと言ってくれな」
心配のこもった台詞に、翠はもう一度大きく頷いた。子どもたちも気の利く良い子たちで、納得すればそれ以上翠を追及することもなかった。
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