8
翔と千沙の通っていた中学校区は隣同士で、自宅自体はそう遠いものではない。あと数百メートルでも家の位置がずれていれば同じ中学校に通えていたのだと、翔は悔しくも思ったものだ。
先導する千沙に、翔と翠はついて行く。傾き始めた陽射しを背に受け、三人の影が真っ直ぐに伸びる。翠はモノクロで世界が見えているのだというのに、彼女はちょっと目を見張った後、「そう」と言っただけだった。
翔は一度転校を経験したため、幼少期からこの町に住んでいるわけではない。家と学校、あとは校区内にある友人の家と数か所の公園。高校に進学するまで、この生活圏から大きくはみ出たことはなかった。そして高校に向かう方角とも異なれば、たった数キロメートル離れた範囲も未知の領域だった。
大きな川にかかる橋を渡った頃、変化に気付いた。高い建物が減り、せいぜい二、三階建ての古いアパートが目につくようになる。寂れた町工場、激安スーパー、パチンコ店、潰れたクリーニング屋。うら寂しい団地の公園ではしゃぐ子どもの声が、救いのように活き活きと聞こえる。
自宅を出て三十分が経った頃、ようやく千沙は一軒の家の敷地に入った。似たような古い木造の平屋が肩を寄せ合う地域だ。庭では青い雑草が手入れもされないまま生い茂っている。近所の犬が吠える声。眩しさを増す西日が、各々の横顔に強く照り付ける。
大きな地震がくれば、平屋はぺちゃんこに潰れてもおかしくない。翔は、こうした住宅には老人がひっそりと暮らしている想像をしていた。だから、制服姿の華やかな千沙が引き戸の前に立っている光景には、不釣り合いさを感じた。
「びっくりしたでしょ」
「いや、そんな……」
「いいよ、気遣わなくって」
素っ気なく言い捨て、彼女は鞄から取り出した鍵を差し込み開錠する。建て付けの悪い引き戸はガタガタと音を立てて、ようやく一人分だけ開いた。
「あっちに回って」
彼女は家の側面を指さし、さっさと中に入ってしまう。明らかに普段と違う態度に動揺するが、今さら逃げ帰るわけにはいかない。翠を促し、膝まで草の生えた庭に回る。
隅にヒビの入ったすりガラスの掃き出し窓を、千沙が内側から開けた。幅の狭い縁側を通して、暗い部屋の中が見通せる。長方形の座卓と古ぼけた扇風機。色褪せた畳には二枚の座布団が敷かれ、隅には仏壇が鎮座している。テレビはない。
じろじろ覗きたくなる気持ちを抑え、翔は促されるまま縁側に腰を下ろした。横に座った翠は、地面につま先しか届かない。ちょっと待っててと言い残した千沙は、一度奥に引っ込むと、コップを三つ乗せた盆を手に戻ってきた。
「大丈夫だよ、ちゃんと洗ってるから」
自嘲的な台詞に何と返せば良いのか分からず、翔は礼だけ言ってコップを手に取り口をつける。冷えた麦茶が薄く汗をかいた身体を冷やす。翠は二人をうかがいながら、両手で持ったコップをそっと口に当てている。
「見れば分かると思うけど、うちすごく貧乏なの。母子家庭で、お金なんて全然なくって。高校入ったらバイトしようと思ってたのに、校則で禁止されてるなんて、入るまで知らなかった。迂闊だった」
腰を下ろし麦茶で舌を湿らせた千沙は、静かに頬を綻ばせる。彼女は相変わらず可愛らしく、加えて輪郭を夕陽に縁取られた姿は美しさを感じさせた。
「それで……手首の傷は、つまり」
貧乏と関係があるのかと直接的な表現が出来ずにいると、千沙は軽く頭を振って頷いた。
「お母さん、ちゃんと働いてるし、母子家庭だから貧乏ってわけじゃないけど。……献金してるの」
「献金?」
千沙は初めて迷う表情を見せて言い淀んだが、意を決した風にもう一度頷いた。
「宗教にね、毎月お金を払ってる。生活が苦しくっても、これだけは欠かさない」
しゅうきょう、と翔は口の中で繰り返した。これまでの人生で彼が意識したことのない言葉だった。人並みに盆やクリスマスを過ごしても、その根本に仏教やキリスト教があることさえ、考えたことがない。
「私は嫌いだよ、新興宗教なんて。厳密には違うそうなんだけど、そんなのにお金払うなんて、馬鹿みたいじゃん」
スカートの裾を指先でいじりながら、彼女は眉を寄せる。千沙が馬鹿みたいと吐き捨てる姿を、翔は初めて目にした。
「じゃあ、お母さんはどうして宗教なんかに」
「元夫……つまり私のお父さんの不倫が原因で別れたんだけど、それで病んじゃって。救いを求めてーみたいな。でも恨んでる相手は、お父さんじゃなくて、その不倫相手なんだって。未だにぐちぐち文句言ってるの。不倫して別れて養育費も払わず逃げたお父さんだって、大概なのに」
なぜ彼女の家に金がないのか、翔にも理解が及んできた。彼女がいくら愚痴を吐いても吐き足りない事情だと思った。
「貧乏だと、心まで貧しくなっちゃうの。私は親の事情に振り回されるなんて嫌だったから、明るくなろうと必死だった。昔から。友だちもたくさん作って、普通の女の子になれてる時は、楽しかったよ」
それでもと、彼女はシュシュの上から左の手首を撫でる。
「やっぱり積み重ねだね。少しずつ、私の中に辛い気持ちが溜まっていった。テレビがなくてみんなの話題についていけない時とか、お母さんの文句を聞かされてる時とか。それがね、あのとき爆発しちゃった」
「きっかけは……」
今日初めて翠が自分から言葉を発した。彼は彼女が翔の家で口にした、死にたい気持ちが溢れるきっかけという台詞を覚えていた。二人の視線を浴びて息を呑み、気まずそうに俯いてしまう。
千沙はそんな彼を見て、大丈夫だよという風に微笑んだ。
「友だちから、誕生日のプレゼントをもらったの。可愛い筆箱とメモ帳。うちではプレゼントなんてもらえないし、本当に嬉しくて、お母さんにも見せちゃったんだ。そしたら、万引きするなって怒られた」
「万引き?」
翔は思わず突拍子もない声を上げる。千沙と万引き。これほど似合わない言葉の並列は他に思いつかない。千沙は「そう」と頷く。
「私にそんな友だちがいるわけないって。私の人間関係なんて、ぜんっぜん興味ないし、知ろうともしないくせに。だから盗んだんだって決めつけられた。散々説明したら、自分が私の誕生日を忘れてたのが気まずかったみたいで、当てつけかって、もっと怒って。泥棒扱いされるなんて、私もショックだった。挙句には中学生の私に、働きもせずにって文句を言い始めて。今までの養育費は、身体を売ってでも返せって」
「母親が? そんなこと?」
「信じられないでしょ。激情型ってほんとに厄介」
目を見開く翔を見て、千沙はどこか満足そうに言った。笑顔に含まれる自嘲は、彼女の傷が未だ癒えていないことを語っていた。いや、一生治る傷ではないだろう。言葉は現実の刃物より、ずっと深い傷を相手に与える凶器になる。彼女はその凶器で、心の奥底を抉られたのだ。
「言い返せないぐらいショックだった。それがきっかけで、私は手首を切った」
「……助かってよかった」翔は心の底からそう思う。
「ありがと。でもね、病院で目を覚ました時、真っ先に見えたのがお母さんの泣き顔だった。よかったよかったって、わあわあ子どもみたいに泣いてて。自分のせいなのに、馬鹿じゃないのって思ったよ。……けど、後になっても、その時の顔を思い出すと憎み切れないんだよね。本当にずるい」
「一つ聞きたいんだけど……」
翔は祈るような思いで彼女に問いかける。
「今も、死にたいって思ってる?」
「今、現在?」
翔は千沙の話を聞いて恐ろしくなった。彼女が常に希死念慮を抱き続けているのなら、明日には会えないかもしれない。ふと夜中に思い立ち、再び自らの手首を切り刻み、今度こそ戻ってこられないかもしれない。想像するだけで恐怖で心が満たされる。
「心の中にうっすらあるけど、そうそう簡単に実行なんてしないよ」
「でもさっき、うちで」
「試したかっただけ。一瞬で済むなら、それがベストな気がしたんだ。私だって痛いのも苦しいのも嫌だから。七宮くんの話聞いて、万が一にも翠くんの力が本物だったら……って」
翔の真剣な顔を見て、彼女は明るい声で笑った。
「大丈夫だって。私は明日も明後日も学校に行くよ? 二人とも、さっきはごめん。私、血迷ってた」
「もしきっかけがあったら、教えてほしい。俺、何だってするから」
それでも翔には、もしものきっかけで、千沙が最悪の未来を選んでしまう不安が残る。
「夜中でもいつでもいいから、死ぬぐらいなら教えてくれよ。その、今後きっかけがあれば、いやなくても、俺に出来る事なら喜んでやるよ」
千沙が目を真ん丸に見開いて、きょとんとする表情に気が付いた。勢い込んで乗り出した身を慌てて引っ込めるが、もう取り返しはつかない。頭がかっと熱くなり、途端に手のひらにじわりと汗が滲む。ヤバい、ヤバい。一瞬で脳が混乱に陥る。しかし上手な言い訳を探るぐらいなら、打ち明けてしまいたいと思った。自分は彼女が生きることを望んでいると伝えたい。
「俺さ、あの……星崎さんが好きなんだよ。で、だから、絶対に自殺なんかして欲しくないっていうか……つまり」
言ってしまった。もう駄目だ、堪えられない。恥ずかしくて脳みそが燃え尽きる。このままじゃ俺が発火して死にそうだ。
くすくすと笑う声と共に、「知ってた」と千沙は言った。
「は? 知ってたって」
「だいじょーぶ、きっと周りは気付いてないよ。でも、こういうのって当人は結構分かっちゃうもんなんだよね」
「え、え、いつから?」
「同じクラスになる前には、うすうす勘付いてたかな」
なんてこった。翔は思わず変な呻き声を漏らした。少なくとも四カ月近く、千沙は自分の気持ちに気付いていたのだ。片想いを悟られていたことを知らず、一人悶々としていたなんて、滑稽にもほどがある。
「……つまり、玉砕ってことか」
千沙に少しでも自分に対する気があれば、何らかのアクションを起こしてくれたに違いない。彼女が両手を合わせる姿があまりに辛すぎる。
「今は、誰かと付き合う気持ちはないの。少なくとも、高校卒業して大学に入るまでは。私、奨学金貰って大学出て、立派な社会人になる。ずっとそう決めてるし、仮にも浪人なんて余裕ないし、現役で国公立入るまでは、きちんと勉強してたいの」
「じゃあ……大学入ったら、考えてもらえるってこと?」
「もし付き合うとしたら、そうなるかな。その頃には、七宮くんが別の誰かに惹かれてる可能性だってあるし」
「いや、ないから! 絶対!」
叫ぶように言うと、千沙はけらけらと笑って満面の笑顔を見せた。目のふちに涙が滲むほど笑い、それを指先ですくってありがとうと言った。
「じゃあ、これからも友だちでいてね。……翠くんも」
唐突な翔の告白に驚いていた翠に、千沙は笑いかけた。「ぼくも?」と自分を指さして更に驚愕する彼に、彼女はもちろんと頷く。
「私の秘密を知っちゃったんだから、二人は共犯だよ? 罰として、私と仲良くしてね」
千沙には決してかなわない。きっと自分は永遠に、彼女の笑顔に惹かれるだろう。そう確信する翔の横で、翠が戸惑いつつも嬉しそうに、少しだけ口角を上げた。
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