7
手のグラスをシンクに放り込む。割れる音はしなかったが、零れたカルピスが腕にかかった。その冷たさを感じる余裕もなく、ダイニングキッチンを飛び出す。廊下に出ると、叫びと床を叩くような音が鼓膜を揺さぶった。リビングに飛び込む翔の頭には、千沙への心配だけがあった。
だから扉の向こうの光景に唖然とし、翔は思わず足を止めて固まった。
「目開けてよ! 私を見てってば!」
千沙が仰向けの翠に馬乗りになって喚いている。覆いかぶさる彼女の手には、彼から剥ぎ取った白い布が絡んでいる。黒いアイマスクが落ちた床を、抵抗する翠の右手が必死に叩いていた。強く瞼を閉じ、やめてと悲鳴を上げる彼の顔を千沙が覗き込む。彼は左手で千沙の肩を押して懸命に遠ざけるが、彼女の右手がその腕を握り、左手は翠の顔を掴んでいる。
今にも翠の瞼がこじ開けられそうなのに気付き、翔は慌てて二人の元に飛び込んだ。何やってんだと叫びながら、一瞬迷って翠を千沙の下から引っぱり出す。彼女の身体に触れて力任せに引き剥がすのには、この期に及んで抵抗があった。千沙は尚も同じ言葉を繰り返して翠にしがみついたが、流石に翔の力にはかなわない。彼が翠を抱えるように離すと、ようやく諦めたのかぺたんと座り込んだ。赤チェックのシュシュで縁取られた手から、白い布が音もなく零れ落ちた。
それぞれの荒い呼吸音で満たされる部屋の中、すすり泣きが響く。泣いているのは千沙で、彼女は腰を落としたまま、両手の甲を目元に当てて涙を流していた。どうして、と頻りに繰り返し囁いている。もう少しだったのに。そんな言葉が聞こえた。
「……一体何があったんだよ」
翔が呟いて腕の中の翠を見下ろすと、彼も目を閉じたままこちらを見上げていた。蒼白な顔の中、興奮の名残で頬が微かに赤らんでいる。彼の下ろした手が床を這うのを見て、アイマスクと布を拾って渡してやった。彼はそれを急いで瞼に被せて目元を覆うと、ようやく力を抜いて安堵した風だった。
「やっぱり、ほんとだったんだ」
手で目を擦り、俯いたまま千沙が言った。
「だって、嘘だったら、こんなことにはならないもんね」
「一体、なにを……」
翔の声に、彼女は泣き腫らした顔をゆっくりと上げる。濡れた髪が幾本か頬に張り付き、その目は充血している。いたたまれず、翔はそっと視線を逸らす。
「翠くんの目を見たら死んじゃうって、七宮くんが言ったこと。半信半疑だったけど、嘘じゃないって分かったよ。……そんな嘘を吐く必要もないし」
仮に翔の言葉が冗談であれば、ここまでの騒ぎにはならなかった。二人の慌てぶりから、千沙は確信したのだ。
つまり彼女は、死のうとした。
どうしてと口にする前に、翔は表情で語っていたのだろう。千沙はまだ潤む瞳を細めて、二人を見つめたまま左手のシュシュを外した。
真っ白できめ細やかな腕の内側。緩く伸ばした腕と手の境目には、幾本かの赤い線が横切っていた。
間違いのないためらい傷に絶句する翔に、千沙は微笑みかける。いつも明るく朗らかな彼女がたまに見せる、憂いの滲んだ笑顔。それも翔は好きだった。だがその憂いは、雨が降っただとか、テストの点数が悪かったとか、そんな些末なものには由来していなかった。
「中学生の時、切ったんだ。本気だった。血が溢れて体温が下がる感覚も覚えてる。だけど私は、死ねなかった」
すっと肘を曲げ、彼女は引き寄せた傷を右手の指先で大事そうに撫でる。いつもシュシュで隠している傷痕。
「自殺未遂のことは誰にも教えなかったけど、やっぱり同級生は察してた。学校の居心地、最悪だった。だから高校は、同じ中学の人がいないところを受けたの」
翔と千沙が通う高校は、中学校区からは電車で通う必要のある遠距離だった。千沙は、自分の過去を誰も知らない場所で、一からやり直すことに成功していた。今、この時まで。
「死にたいって気持ちはね、そう簡単になくならない。ずっと思ってるわけじゃないのに、ずっと意識の底にあるの。そして、小さなきっかけで溢れ出てくる」
千沙の華奢な身体の中、澱のように溜まった灰色の感情が見える気がする。死にたいという気持ちはスノードームの粉雪の如く、千沙にきっかけがあれば舞い上がる。死にたいが、彼女の中で散乱する。
「目を見ただけで心臓を止められるなら、苦しまないで済むのなら、試してみる価値はあるでしょ」
口にする台詞と、その口からぺろりと舌先を出す仕草のアンバランスさが、やけに悲しく見えた。今日、千沙は遊びに来たのではない。死にに来ていたのだ。
浮かれていた自分が悔しいし、彼女の苦しみを察せなかったのが腹立たしい。もどかしくていたたまれなくて、翔は頭を抱えたくなった。
「……どうして、手首を切ったんだ」
それでも、彼女に対する失望はなかった。意外な過去への驚愕はあれど、それすらも全て知っておきたい。
千沙はシュシュを手首につけ直し、翔と翠に順番に視線を向けた。
「うちに来て」
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