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 それから翔は千沙との連絡を重ねるにつれて、自分への呼び名を変更することを翠に要求した。

 高校生の自分の名前に「さん」と敬称がつくなんて、そもそも気分良く思ったことがない。父親の部下がおだてるように呼ぶことはあるが、毎回彼らの媚びた目つきにはいやらしさを覚える。親の仕事仲間だと我慢しているが、年下の子どもにまでそう呼ばれるのは気分が悪い。

「親父の前じゃ、今まで通りでいいよ」

 戸惑う翠に先手を打って釘を刺す。翠の変化に気付く繊細さがあるとは思えないが、父親に後々苦言を呈されても面倒だ。

「でも、呼び捨てなんて、出来ません」

「いいんだよ、俺がいいって言ってんだから。あと敬語もやめろ。違和感マシマシだから」

「ぼくはずっとこうだったので……難しいです」

 困ったように翠は首を傾げていたが、思いついたように顔をあげた。

「せめて、翔くん、はどうですか」

 正直まだ歯がゆいが、さん付けで呼ばれるよりマシだろう。敬語も居心地が悪いが、すぐに変えろというのは難しいのかもしれない。曖昧に頷くと、翠はほっと肩を下ろして、少しだけ唇の端を綻ばせた。

 待ちに待った放課後、翔は千沙と共に下校した。どちらも部活には入っていないが、二人きりで並んで学校を出るのは初めてのことだった。

 普段通りを意識しつつ、それでも翔は緊張してしまう。悪友たちのいる教室では、ここまでどぎまぎすることはない。失言があっても多少の誤魔化しがきくからだ。しかし今は隣に千沙しかおらず、失敗は自力でカバーするしかない。授業中の数倍は頭を巡らせる自分を情けなく感じるほどだった。

 しかし次第にその緊張もほぐれてきた。千沙はいつもと同じ明るい笑顔で、時に冗談を口にする。赤いチェック柄のシュシュをつけた手で、口元を抑えて楽しそうに笑う。いつの間にか翔も普段のペースを取り戻し、自然と笑えるようになっていた。

「相変わらずおっきなお家だねー。余裕でかくれんぼ出来そう」

 家を見上げて出す感嘆の台詞が「かくれんぼ」なのが可愛らしい。玄関に入り、いつものようにモモの歓迎を受ける。今日はモモも、千沙に頭を数度撫でさせることを許してくれた。

 リビングに千沙を通し、部屋から翠を呼んでくる。彼女は、目を布でぐるぐる巻きにした翠を見て、にっこり笑って「こんにちは」と言った。

「星崎千沙です。お邪魔してます」

 車座になってラグに座ると、彼女はきちんと挨拶をする。翠も自分の名を名乗り、両手をついて深々とお辞儀をした。

「丁寧だね、そこまでしなくていいよ」

 翔は翠の慇懃さにハラハラしたが、千沙は一度目を丸くした後、くすくすと笑った。本当に良い子だと改めて思う。

「翠くんは、七宮くんのお父さんの知り合いの、子どもさん……だっけ?」

 視線を上向けて思い出す千沙に、翠が「えっと」と言い淀む。翔は慌てて、「そうそう」と頷いた。

「一時的に預かっててさ。ちょっと事情があって」

 まさか彼の力目当てに父親が大枚はたいて買いとっただなんて言えるはずがない。合わせるように、翠も何度か頷いた。千沙は大して疑う様子もなく、そっかあと頷く。

「じゃあ、七宮くんにとっては、弟が出来たって感じ?」

「え、ああ、まあ……そんな感じかな」

「いいな、楽しそう」

 翠を弟だと思ったことは一度もないが、千沙は心底羨ましそうな顔をする。そういえば、彼女も一人っ子できょうだいはいないと言っていた。

「ねえ、七宮くん、どう? ちゃんと優しくしてくれてる?」

「いや、そういうこと聞くなよ」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、千沙は翠に顔を近づける。彼女にとってはただのおふざけでも、翔は日頃の翠に対する態度を思い出してぎくりとした。いじめとまでいかなくとも、常に蔑ろにしてきた自覚はある。頼む、空気を読んでくれと心の中で手を合わせた。

「翔さ……翔くんは、優しいです」

 ちょこんと正座をした翠は、千沙の言葉に対してそう返事をした。呼び名に対する言い淀みはあったが、嘘を吐いている気配はなかった。

「優しいから、モモさんも懐いているんだと思います」

 今も翔の傍らではモモがくつろいで自分の身体を舐めている。翔は翠の機転にほっとし、心の中で感謝した。

「あ、確かに。悪い人だったら猫ちゃんは懐かないよね」

 千沙が毛づくろいをするモモを見て、得心した顔で頷いた。「それにしても、翠くんはしっかりしてるね」

 三人での会話は翔の予想よりも随分楽しいものだった。主に翔と千沙が学校での出来事について話し、千沙が声を掛けて翠が返事をする。彼女は年下の子どもへの接し方も上手で、彼が盲目だと信じながら常に笑顔を絶やさない。小動物のような愛らしい瞳で、笑ったり驚いたりと感情を豊かに表現する。

「あれ、もうお茶切れてた」

 千沙が、通学鞄から自分の水筒を取り出して軽く振った。そこで翔は、自分が好きな女子にお茶の一杯も出していなかったことに気が付く。これはよろしくないと腰を上げた。

「何か持ってくるよ。何がいい?」

「何でもいいよ……って一番困るよね」

「んじゃ、カルピスでも注いでくる」

 翔は翠が立とうとする前にリビングを出た。年下の居候の少年をこき使っていると千沙に認識されたら堪らない。

 この家ではリビングとダイニングキッチンは別々だ。作り付けの棚からグラスを取り出し、女子なら紅茶の方が良いのかと悩む。しかし一度カルピスだと宣言したのだし、夏を控えた今の時期にはぴったりだろう。

 取りあえず、千沙が満足してくれているようで、今日のところは上々だ。あわよくば何かしらの進展は望みたいところだが、焦って良いことは一つもない。片想いを拗らせて彼女に引かれてしまえば本末転倒である。物思いにふけりながら、カルピスの原液とペットボトルの水をマドラーでかき混ぜる。

 それにしてもと、自分のグラスに口をつけた。万が一、翠が彼女に惹かれる可能性はないだろうか。これまで蔑ろにされてきた彼が千沙を慕っても不思議ではない。歳は三つ離れているが、千沙は魅力的で優しい女の子だ。翠が恋愛感情を抱いてしまう危険性はある。

 その想像が自分の嫉妬心に基づいていると思い至り、翔は顔をしかめた。千沙が笑いかけるのは、孤独な少年に対する心配が根底にあるに違いない。それは彼女の優しさだ。そうと知りながら、何の苦も無く彼女に笑顔を向けられる翠を僻むのは、お門違いもいいところだ。

 問題は翠ではない、俺自身だ。俺が自分の気持ちにいずれ決着をつける必要があるのだ。あいつに構っている暇はない。

 自分を何とか納得させる翔の耳に、悲鳴が飛び込んだ。高い叫び声が、分厚い壁を越えて確かに聞こえた。

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