5

 陽が傾き始めた頃にお開きとなった。門の前で六人を見送り、夕食を食べて自室に引き返す。今日は千沙が翠と鉢合わせたことを除いては、まず上々だった。一日を振り返りながら、ベッドに寝転んでスマートフォンをチェックする。暇つぶしのSNSを眺めていると、新着メッセージの受信を知らせる通知が表示された。

 翔は思わず「うえっ」と変な声を出して飛び起きた。驚いたモモが枕元で首を上げ、迷惑そうな顔で再び横になる。メッセージの送信者は、当の星崎千沙だった。

 ――今日は楽しかった! モモちゃん触らせてくれてありがとー!

 グループではなく個人でのやり取りは、これまで数えるほどしかしていない。全てが定型文で済むような連絡事項だけで、翔はそれでも毎回悩み抜いて返事をしていた。彼女からの返信が遅ければ、自分の失言の可能性に悶々としたし、夕飯を食べていただけだと知ると、心底安堵したものだ。

 解散後にグループでも挨拶をしたばかりだ。まさか個別で礼をいわれるとは思わなかった。

 あぐらをかいて五分も十分も考え、短文を打ち込んでは消してを繰り返し、ようやく当たり障りのない返事を送る。千沙からはすぐに返事が来る。声が届かない距離にいるのに、直接言葉を交わしている気がして嬉しい。それも二人だけで。

 ――放課後、また遊びに行っていい? 一人で行ってもいいかな。

 思わず「えっ」と声が出た。放課後に遊べるなんて予想外の展開だが、彼女の発言は更に想定の範囲を軽く超えてきた。

 千沙と二人で? 願ってもみない機会のはずが、動揺で心臓が激しく鼓動を打つ。彼女の思惑を様々想像する。モモを触りたいのか? 今日見せた漫画が面白かったのか? もしくはドッキリをしかけられていて、あいつらが一枚噛んでいるのか? いや、彼女はそんな質の悪い女子じゃない。でも、女の子が一人で家に遊びに来るなんて、理由がないはずがない。頭の中で様々な思考がぐるぐると駆け回り、こんがらがって混乱する。期待してはいけない、だってこれは、俺の片想いのはずだ。

 けど、もしかしてもしかすると、脈ありなのか……?

 少なくとも、嫌いな男子の家に遊びに来たがるはずがない。僅かでも、ほんの微かでも期待したっていいんじゃないか?

 緊張しながら返事をした。もちろん、オーケー以外の選択肢はない。

 よかったと弾けるような返事がすぐに帰ってくる。それには短い文がくっついていた。

 ――来週は、三人で遊ぼう!

 ざわめく頭の中が一瞬で沈黙するのを感じた。


 やはりあんな話は、信じられるはずがない。彼の目に映った人間の心臓が止まってしまうだなんて。

 千沙は目の不自由な少年が部屋に籠っているのを心配していた。だから、寂しそうな彼も加えて一緒に遊ぼうと提案したのだ。翔は自分が憤っているのか悲しんでいるのか、それとも彼女の優しさを垣間見て喜んでいるのか分からなかった。翠のせいで二人きりのチャンスを逃したとはいえない。彼がいなければ、千沙の提案自体がなかったかもしれないのだから。

 だけどあんまりだ。翔はわざと音を立てて階段を下りる。散々期待した俺の気持ちはどうなるんだ。静かな邸宅の中、どすどすと足音荒く廊下を進む。こんな日は、さっさと歯を磨いて寝てしまうに限る。

 広々とした洗面所には電気が点いていた。水蒸気がもわもわと立ち上がり、天井を揺蕩っている。

 翠は風呂上がりでも目を覆っていた。パジャマのズボンを履き、上半身裸の姿でも、黒いアイマスクをかけていた。突然現れた翔の姿を見ると、大袈裟に身体をびくつかせ慌てて背を向ける。両手で顔を覆い、決して彼を見ないようにする。

 翔はその背を見て息を呑んだ。肩甲骨の浮いた白く痩せた、初めて目にする彼の背中。子どもじみた幼い身体には、白く深い傷痕が縦横無尽に走っていた。肉食獣の爪で切り裂かれたような四、五本の傷が背中を蹂躙している。塞がってはいるが、くっきりと白い痕が残っている。

 それなんだよと問いかける前に、急いで目に布を巻きつけた翠は、さっさとパジャマの上着に袖を通した。タオルを抱いて恐る恐る振り返り、唖然とする翔を見て気まずそうに顔を伏せる。

「何でもないです……」

 翔は初めて、翠に対し気の毒だという感想を抱いた。あれほどの傷を受けるには、余程の痛みを伴うに違いない。十三歳の彼は、まだ自分の肩程までの身長しかない。この小さな身体は、これまでどれほどの苦痛に晒されてきたのだろう。

「おまえ、うちに来るまではどこで暮らしてたんだ」

 翠は一度口を結び、迷うように細い声を紡いだ。

「いろいろな所で、お世話になっていました」

「それは、うちの親父みたいな連中の所か」

「少なくとも、ぼくの力を必要としてくれる方のお家です」

 必要といえば聞こえはいいが、ただの体の良い利用だと、翔は父親を思い出す。法に触れない殺人の道具として扱われ、そのどこかで深い傷もつけられたのだ。

「そもそも、何でそんな力があるんだ」

 質問を重ねると、翠は困ったように眉尻を下げた。勝手に喋って孝雄の怒りに触れないかが不安なのだろう。

「親父は気にすんな。同じ家に住んでんだから、俺にだって知る権利はあるだろ」

 翔の言葉にようやく納得したのか、彼は口を開いた。嘗て大きな嘘を吐いた引け目もあるに違いない。

「ぼくは、呪われているんです」

「呪われてる?」

「ぼくの家系……天ケ瀬家は代々呪われています。この目は、末裔のぼくにかけられた呪いなんです」

 呪い。突拍子もない単語だが、既に常識外れの力を目にしているのだから、無下に否定することも出来ない。

「呪いって、誰に呪われてるんだよ」

「二百年前に、ぼくの先祖がたくさんの人にひどいことをしたそうです。その呪いが、ずっと」

「二百年?」

 思わず裏返った翔の声に、翠は一つ頷いた。二百年も前というと、時代は江戸にまで遡る。そんな遠い先祖の業が今も受け継がれ、子孫を苦しめているというのか。

「じゃあ、その呪いとやらは、生まれた時からってことか」

「こんな呪いの形は初めてだったみたいで……生まれた時、ぼくは初めに、お母さんと産婆さんを死なせました」

 目が覆われているおかげで、翠の表情はいまいち読み取れない。しかし彼の口元や口調から、言葉に悲嘆が籠っていることは察せられる。

 何を言えばよいのか分からず、翔は絶句したまま翠をじっと見やる。生まれた子どもが初めて目にするのは、その場にいる人間、つまり母親だ。人としての当たり前が、彼に一生の重荷を背負わせた。それはまさに、呪いと呼べる。

「……その目は、今も見えてるんだよな」

 明らかに、翠の目は自分を捉えている。視線を感じる。悲しそうな瞳が、自分の方を向いている。

 翠はこくんと頷いた。

「瞼を閉じていても、景色は見えます。文字も読めるし、杖がなくても不自由しません。だけど、色が分からないんです」

「つまり、白黒ってことか」彼が本や新聞を読んでいたのは、やはり勘違いではなかった。

「瞼を開けた時にだけ、色がつきます。きっと、普通の人と同じ景色が見えます。けれど、そこに人がいれば、その人は死んでしまいます」

 だから翠は、ずっと目を覆っている。不用意に他人を死なせないため、モノクロの世界を生きている。周りに不気味さを感じさせ、私欲に駆られる大人の元を転々としながら、孤独に息をしている。

 とんだ呪いだ。二百年越しの、残酷な呪いだ。

 それでも彼は平穏に生きたいのだろう。波風を立てず、許されるためにいつも地面にひれ伏している。翔はようやく、彼が深夜に一人で風呂を使う理由に思い至った。誰に命じられたわけでもなく、孝雄や翔や亜香里までもが入り終えた後に、ひっそりと身体を洗う。常に家人の顔色をうかがいながら、息を殺してただ生きている。自分なら一週間保たずに息が詰まって窒息する生活だと翔は思った。

「とんでもねえ生き方だな」

 彼は賢い子どもに違いない。少し考えて翔の言わんとすることに気が付くと、かぶりを振った。微かに頬を上げて確かに笑ってみせた。

「屋根のあるお部屋で眠れて、ご飯までいただけて、幸せです。翔さんのお家に来られて、よかったです」

 つまり彼は、これまでに正反対の生活を経験したのだ。そのことを知ると、翔は居心地の悪さを感じる。翠はその感情さえ察したのだろう。ぺこりと頭を下げると、髪も乾かさずに翔の隣をすり抜けて足早に洗面所を去っていった。

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