4
明日は千沙たちが家に遊びに来る。そのことを伝えると、亜香里は露骨に嫌な顔をした。
「昼間っから騒ぐつもりでしょ。近所迷惑にならないようにしなさいよね」
近所迷惑というが、少々家で騒ごうが敷地の外にまで声が響くことはまずあり得ない。明日の予定は近所よりも彼女に対して迷惑なのだ。
「そういうのは、もっと早く教えてよ」
「いいよ、俺がお茶とか用意するから」
そう言ってから、亜香里が自分たちにお茶を出すわけがないことに思い至る。彼女はこれから、明日の昼間に入れる予定を作るのだろう。雇われているといえど、あくまで居候である彼女には、現状で翔の友人を追い出すほどの力はない。
だが、彼女が虎視眈々と孝雄の妻の位置を狙っていることを翔は知っている。そして、孝雄もそれに気付いている。社会的な体裁のためにも、彼が次の妻を迎えるのは時間の問題だ。金銭的余裕と社会的地位が約束された後釜への最短距離を、亜香里はキープし続けている。近いうちに訪れるに違いないその日が来る前に、高校を卒業して家を出たいと翔は強く願っている。
出前頼んどいたから。そう言い残して、彼女は孝雄との週末のディナーに出かけていった。今日も翠と二人きりの夕飯だ。
その前に、翔はモモの夕飯を用意してやった。今日は週に一度の贅沢で、まぐろの缶詰を開けてやる。鰹節をふりかけると、モモはしゃがんだ翔の脇から頭を突っ込んで食事を始めた。その背をゆっくりと撫でてやる。
視線を感じて振り向くと、部屋に入ったところで翠がじっとこちらに顔を向けていた。
「なんだよ」
口を開いてから、彼が自分ではなくモモを気にしているのに気が付いた。
「あの、触っても、いいですか」
躊躇いながら翠はそう言った。彼はモモを触ってみたいらしい。背を撫でる手を止めて、翔は不承不承で頷いた。ここで拒絶するのはあまりに子どもじみている。
それでも、翠の伸ばした手からモモがするりと逃げたのに、何故だかほっとした。指先が身体に触れた途端、食べる動作を止めて翔の脇にぴたりとくっつく。
「モモはな、人見知りなんだ」
残念そうな翠にそう言って、モモを抱き上げて膝に乗せる。大人しく身体を預けるモモが可愛らしくて仕方ない。
僅かにモモに触れた指先をぎゅっと握る翠は、至極がっかりしている様子だった。
「ごめんなさい。ご飯の邪魔をして」
モモはじっと翠を見つめ、彼が一歩引いても動こうとしない。更に三歩遠ざかってから、ようやく膝から下りて食事を再開した。どこか優越感に似た感情と共に、翔は若干の不安を覚える。猫ちゃんを触りたいと言った千沙の顔を思い出した。
その時を、モモは辛うじて乗り越えた。
六人もの他人がやって来たことに驚き、さっさとリビングから逃げようとするモモを抱き上げ宥めすかし、何とか三人に顎を撫でさせることに成功した。その三人に、千沙も含まれている。
「モモちゃんっていうんだ。かわいー」
翔の腕の中で、ペースト状の猫用おやつを頬張るモモを見て、千沙が心底嬉しそうな顔をする。誰かが手を伸ばせば、モモは身をよじって嫌がるから、これ以上触らせることは出来ない。
「七宮にすげえ懐いてんだよな」
「この猫たらしめ」
悪友たちがテレビゲームをしながら、けらけらと笑っている。幾度か顔を合わせている彼らにも、当然モモは懐いていない。友人が持ってきたボードゲームや、翔が部屋から下ろした漫画本を読みつつ、わいわいと楽しい時間を過ごす。モモはおやつを食べ終わると、さっさとリビングから出て行ってしまった。
慣れないカードゲームのカードを切るたびに、千沙の左手のシュシュが目立つ。今日は向日葵のように鮮やかな黄色いシュシュだ。もうじきやって来る夏の気配を感じさせる。
「それにしても、でっかい家だねー。あたしの家が余裕で三つは入るよ」
千沙と仲の良い女生徒が、高い天井を見上げて感嘆の声を漏らした。
「あれだよ、玉の輿狙うなら早い方がいいぜ」
隣りでにやつく友人の頭を翔は叩いた。
「アホかおまえ」彼女には悪いが、千沙以外は考えられない。
「ばーか。あたし彼氏いるし」
「え、マジで? 誰よ。何組のやつ?」
カードを放り出して身を乗り出す男友達の膝を軽く蹴り、「二個上の先輩」と彼女はべーっと舌を出した。
カードゲームどころではなくなったが、翔には多少の興味はあれど今は話に食い込む気になれない。知りたいのは年上彼氏の話題ではなく、千沙の好みの方だ。
「飲みもん取ってくるわ」
おうと返事をした友人が、「オレも彼女ほしー!」と叫ぶ声を背にリビングを出た。亜香里がいれば、後で何かと文句を言われていたかもしれない。彼女が出かけていてよかった。
冷蔵庫のコーラは出し切ってしまったが、一階の隅には倉庫として使っている小部屋がある。まだ何本か残っていたはずだ。廊下を曲がると、ひょいと現れた千沙とぶつかりかけた。
「わっ、びっくりした」
「あ、ごめん」
「ううん。広いお家だね。私、軽く迷子になっちゃった」
トイレに立ったはずの彼女の戻りがやけに遅いのには、理由があったらしい。舌先を出して照れる様子がとても可愛らしい。だが、続く彼女の言葉に翔はどきりとした。
「ていうか、七宮くんって、弟さんがいたんだね。知らなかった」
「弟?」
おうむ返しに呟いて、翠のことだとピンとくる。千沙は頷いて指先を自分の顎に当てた。
「さっき廊下を歩いてたら、鉢合わせたんだ。トイレの場所聞いたら教えてくれたけど……あの、もしかして目が悪いの? すぐに部屋に戻っちゃって、聞けなかったんだけど」
眉尻を下げ、台詞の後半は囁き声で気を遣ってくれる。しかし翔はそれどころではなかった。心臓がばくばくと鳴っている。幸い、千沙は彼の目を見ることはなかった。だが、もし何かがあれば、万が一があれば、彼女が死んでいた可能性だってあるのだ。
「……いや、弟とかじゃなくって。親父の知り合いの子どもを預かってて」
首を左右に振って、「あいつの目、見なかったよな」と翔は意味がないと知りながらも念を押した。
「目? だって、包帯みたいなの巻いてて見えなかったし」
万が一は絶対に避けねばならない。思わず、翔は千沙の腕を片手で握った。
「あいつの目、絶対に見たら駄目だ。見たら死ぬ」
「え……なに言ってるの」
「これ、冗談じゃないんだ。内緒にしててほしいんだけど……もしまたあいつに会うことがあったら、何が何でも目は見るな。見たら心臓が止まるんだ」
翔が冗談を言っていると思ったらしい。千沙は頬を微かに上げたが、その真剣さに気圧され、すぐさま笑顔を消した。彼女の表情が混乱に満ちているのに気が付き、翔は慌てて手を離す。
「ごめん。でもこれ、マジなんだ。他の連中には黙っててほしい」
「それは、いいけど……。でも、そんなこといきなり言われても」
「この前、あいつの力で実際に死んだ人を俺は見たんだ。新聞にも載った。心臓麻痺の突然死だって」
誰にも話すべきことではない。だが、千沙だけには知らせておきたい。もしも街で彼女が翠に遭遇した時、すぐに逃げてくれるように。間違ってもその目を見るなんて展開にならないように。
複雑な表情を浮かべつつ、頷いた彼女がリビングに戻るのを見届け、翔は翠の部屋へ足早に廊下を進んだ。ノックもなくドアを開け放つ。
六畳の小さな部屋には、家具はベッドと小さなクローゼットしかない。ベッドに浅く腰掛けていた翠が、弾かれたように顔を上げた。
彼の膝に一冊の文庫本が載っているのを見て、翔は確信する。こいつには景色も文字も見えている。瞼を閉ざしているくせに、目の前を認識している。なんて気味の悪い奴だろう。
「おい、おまえ、さっき女の子に会ったよな」
部屋に入り、咄嗟に本を閉じる翠の右肩を掴む。彼は動揺しながら、はいと返事をした。
「何か喋ったか」
「えっと、トイレの場所を聞かれたから、廊下の先だって……」
「他には」
「何も。……それだけで、逃げてしまいました」
彼の言うことは信用ならない。だが千沙の様子から鑑みても、恐らく嘘ではないだろう。まず嘘を吐くメリットがない。
「いいか、絶対にあの子に近づくなよ」
彼自身は水を飲みに出ただけで、運悪く千沙と鉢合わせてしまったのだ。神妙な面持ちで頷く彼を見下ろし、翔はやっと手を離した。
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