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 登校しても寝不足と昨日の出来事で頭が回らず、翔は始終ぼんやりしていた。今朝の新聞には、路上で突然死した男の記事が小さく載っていた。外傷もなく、会社帰りに心臓発作を起こして死亡したとされている。どうやら大きな会社の役員だったらしい。

 どういうことだ。授業中、翔は右手のペンを無意識に回しながら考える。翠の様子を見る限り、奴が何かしら関与しているのは間違いない。しかし、彼に他人を殺す力があるとは到底思えない。第一、死亡した男は怪我ひとつ負っていなかったのだ。

 あいつ自身も謎だらけだ。盲目のはずが杖もなく歩き回り、箸を使って自在に食事をする。不思議なのが、文字を読んでいるのさえ見かけたことがある。視線に気づくと慌てて逃げて誤魔化していたが、彼はテーブルの隅にある新聞の文字に顔を向け、確かに読んでいた。もちろん点字はない。瞼を覆っているのに、活字を読めるはずがない。

「やっほ、七宮くん」

 授業間の休憩時間、声をかけられて翔ははっと顔を上げた。

「なんか今日、ぼーっとしてるね。考え事? あっ、もしかして邪魔してる?」

「いや、全然」

 急いで手と首を振って否定すると、指の隙間からペンが零れて床に落ちた。焦って拾い上げる様子を見ながら、翔の前の席に腰を下ろした彼女はくすくすと笑う。

 星崎ほしざき千沙ちさは、翔が密かに想いを寄せているクラスメイトだった。昨年、他クラスの友人と遊びに出かけた時に知り合い、その可愛らしさに惹かれた。今年四月のクラス発表の前には、同じクラスになれるよう神社に願掛けまでした。そのおかげか二年三組の名簿に自分と千沙の名前を見つけた時は、夢かとも思った。神様ありがとうと、心の中で幾度もひれ伏したものだ。

「絶対、ぼーっとしてるよ。さっきのドッジボールの時、一番に当てられてたもん」

「あれは、まあ、油断してただけっていうか」

 雨で体育のテニスが中止になり、体育館で男女に分かれてドッジボールをしたのだ。まるで小学生のようにはしゃぐ友人に、真っ先に背中へボールを当てられた。千沙に見られていたと思うと、苦い気持ちになる。

「それよかさ、雨だと女子は大変だよな。髪整えるのとか」

「そうそう、湿気でね。朝は大変」

 二列挟んだ向こうの窓を、雨粒が叩いている。それを見ながら、千沙は細い指先に自分の髪を絡めた。肩を越す黒髪はつやつやとして、ゆるく内側を向いている。ぱっちりした目と、茶色がかった瞳。いつも手首にシュシュをつけていて、それが日によって変わるのがお洒落で可愛らしい。今日は薄いピンクの花が彼女の腕に咲いている。

「週末は晴れるといいね。私、楽しみにしてるんだよ」

 見惚れていた翔は、千沙の笑顔にどきりとする。今週の土曜日は、クラスの仲良しグループが翔の家に遊びに来ることになっており、そこに初めて千沙が加わった。緊張三割、喜び十割と、予定が決まった時から翔の感情は心からオーバーしている。

「猫ちゃんいるんだよね。触らせてくれる?」

「すげえ人見知りだけど、ちょっとぐらいなら触れると思う。引っ掻いたりしないし」

「やった。私、犬や猫飼ったことがないけど、好きなんだ」

 教師が教室に入ってきた。生徒たちが騒ぎながらも自分の席に着き始め、千沙も腰を上げる。軽く手を振って離れていく笑顔と、先ほど聞いた好きと発音する彼女の声で、翔の心は完全にいっぱいだった。


 千沙のおかげで授業を乗り切ったものの、やはり帰宅途中は昨日のことを思い出さざるを得ない。ここで、あいつを見かけたんだよな。雨の中、翠を見かけた場所で立ち止まり、彼の後ろ姿を瞼の裏に見る。翔は警察に翠のことを告げ口するつもりはなかった。ただの脅し文句として警察という単語を使っただけだ。だが、その結果が振るわなかったことは忌々しい。

「ただいま」

 傘をたたんで玄関に入る。広い邸宅で、呟くような声が誰かに届くわけはない。癖のようなものだ。

 しかし、足音も立てずに彼女だけは迎えてくれる。

「モモ、ただいま」

 靴を脱いで三和土から上がり、にゃーと小声で鳴く猫を抱き上げた。白い毛皮に黒いぶち模様の猫は、綺麗な青い目に翔を真っ直ぐ映す。まるで表面張力ぎりぎりまで水の溜まった水面のようだ。震えそうに潤んだ瞳を細め、猫のモモは撫でられてごろごろと喉を鳴らす。

「おまえ、土曜は愛想良くしろよ。頼むから」

 狭い額を指先でかくと、モモはその指に頭をこすりつけた。飼い主にしか懐かないモモを抱いて自室にこもる。翔の日課だった。

 雨がしとしとと降り続ける音を聞きながら、つい眠ってしまった。腹を空かして目を覚ますと、既に時刻は二十時を過ぎていて、窓の外は真っ暗だった。それでも雨音だけは続いている。

 階段を下りてダイニングキッチンに向かう。足元をついてくるモモの餌皿に、夕食のキャットフードと大好物の鰹節をかけてやる。頭を突っ込むモモは、カリカリと美味しそうな音を立てて頬張り始めた。

「……おかえりなさい」

 か細い声に振り向くと、部屋と廊下の間に、翠が所在なさげに立っていた。返事をしようか迷ったが、翔は無視してテーブルの皿を電子レンジに突っ込む。翠の足音がたどたどしく近づくのを感じた。

 父親はほとんど家で食事を摂らない。家政婦の杉(すぎ)亜香里(あかり)はそれをいいことに、日々の家事にはとことん手を抜く。食事こそテーブルに用意してくれるが、全てが出前か冷凍食品、もしくはレトルトだ。本人は自分の部屋で勝手に食事をするから、一緒に食べることはない。無論、翔にはその方がありがたい。三十六歳の彼女は一見して美人で若く見える女性だが、孝雄にしか良い顔は見せないし、翔も父親の愛人と親しく接するつもりはない。同じ屋根の下に住んでいるだけの他人だ。

 反対に気を遣っているのか、翠は翔と同じ食卓に着く。呼ばなくても物音に気付いてやって来て、翔の食事がどれほど遅くともそれに合わせて席に着く。自分が先に食事をすることに引け目を感じているようだった。

「別に、一緒に食えなんて言わないぜ」

 翔は温めた冷凍チャーハンをもそもそと口に運ぶ。翠は同じものを控えめに咀嚼している。

「自分の部屋で食ってもいいんだぞ」

「翔さんは、その方がいいですか」

「別に。どっちでも。たださ、俺に気遣ってるとかだと嫌なんだけど」

 翠が困った風に手を止める。

「そんなつもりはありませんでした。もし嫌だったら、ごめんなさい」

「俺に遠慮してるくせに、聞かれてることは話さないんだな」

 昨晩のことを持ち出すと、翠は途端に口を噤む。その態度が鬱陶しくて、相変わらず馬鹿にされているように感じる。相手が下手に出るほど、比例するように苛立ちは大きくなる。

「くそ、馬鹿にしやがって」大きく口を開けてスプーンを突っ込む。「親父もおまえも、揃って俺をコケにするんだからよ」

 炒飯をかき込む翔の前で、翠は何も言わず肩を落とす。まるで俺がいじめてるみたいじゃねえか。コップの水を飲み干す翔の耳に、低いエンジンの音が滑り込んだ。

 午後八時に孝雄が帰宅するのは珍しい。亜香里が迎えに出る音がする。やがて、話し声と廊下を歩く足音。

 今が好機だと、翔は椅子から立ち上がりリビングに向かった。部屋に入り、「親父」と声を発すると、孝雄は眉根を寄せて振り向いた。

「何だいきなり。礼がなってないやつだな」

「昨日何があったか、知ってるよな」

「昨日?」

 怪訝な顔をする孝雄から亜香里に視線を移した。彼女は途端に口角を下げ、「ほら」と孝雄に思い出すよう促した。

「言ったじゃない。昨日の帰り道、翔くんが死体を見つけて警察に連れてかれたって。それであたしが迎えに行って……」

「ああ、あのことか」

「あの時、俺、こいつを見たんだ」

 翔は後ろに顎をしゃくった。着いて来た彼は一歩引いて廊下に立ったまま、怯えたように委縮している。服の裾を両手で握り、翔と孝雄に交互に顔を向けている。

「こいつが道を歩いてるのを見かけて、後をつけたんだ。知らないリーマンに声かけて、歩いてって……。路地に入ってったから俺が覗いたら、あの人が倒れてた。そして、こいつが逃げてくのが見えた」

 孝雄は亜香里に何ごとか告げ、自分はリビングのソファーに身体を沈めた。彼女は訝しみつつも部屋を出ていく。彼女の気配が廊下の向こうに消えてから、翔は緊張気味に言葉を発した。

「まさか、あの人に何か……」

「おまえと居合わせるとはな」

 翔が言い終わる前に孝雄は足を組み、胸ポケットから煙草を一本取り出した。

「その男、死んだだろ」

「警察でも聞いたし、新聞にも載ってた」

 銀色のライターで火をつけ、深々と吸い込み煙を吐く。ソファー横のローテーブルに備えられた灰皿に灰を落とし、じろりと二人を睨むように目をやった。その視線は僅かに翔を逸れ、黙り込む翠に向いた。

「あの男は、そいつが殺したんだ」

 僅かに孝雄の口角が上がるのが見えた。は、と変な声を呼吸と共に漏らした翔は、咄嗟に翠を凝視する。彼は視線に射られるように、身を縮こまらせて固まっている。

「でも、外傷はないって……」

「心臓麻痺だろ」

 見なくても、孝雄が煙を吐くのが分かる。

「目を見るなと俺は言っただろ。これの目に映った人間の心臓は、止まるんだよ」

 孝雄は淡々と続けた。

 翠が目を覆っているのは、その瞳に映った人間が死んでしまうためであること。昨日、翠は路地裏であの男を目に映して殺害した。翔は、父親が翠を家に招じ入れた理由をすぐさま理解した。

 死んだ男はある会社の役員だった。父親の企業経営の邪魔になったに違いない。証拠も残さず、つまり罪に問われることのない殺人を犯すために、彼は翠を手に入れたのだ。

 俄かに信じられる話ではない。しかし翔は、実際に死亡した人間を目の前で見たのだ。そして父親の狡猾さなら、残念ながら充分利用し得る力だと思った。

「じゃあ親父は、誰かを殺すためにこいつを家に引き取ったのか」

「人聞きが悪いな、やつは偶然死んだにすぎん。偶然、心臓が止まってな」

「そんなの、同じことだろ」

「法で裁けるか否かは、あまりに大きな問題だ。この力は有益すぎる。俺にとっても、俺に依頼したがる連中にとってもな」

 クズ野郎だ。翔は思わず喉の奥で唸った。父親ながら、人間として頭のネジどころか構造が壊れている。いくら邪魔でも命は命だ、誰かの都合で奪って良いはずがない。それも自分の手は一切汚さず、他人の力を使って。

「なんて顔をしてるんだ。俺は大枚はたいてそいつを手に入れた。人並みの衣食住も与えてやっている。これ以上のことはないだろう」

 嫌悪感が募るが、彼を改心できるなどとは、翔は全く思わない。何が起きても、例え妻を失っても、こいつの性根は変わらなかったのだ。今さら息子が何と吠えようが意に介さないに違いない。

「だからおまえも、気をつけろよ。うっかり目を見れば終わりだぞ」

 孝雄の声は、雨音の遮られたリビングに重く響いて沈み込んだ。

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