2

 彼は唐突に七宮家へやって来た。今さら父親が家のことを自分に相談せずとも不思議ではないが、それでも同居人が増えることには驚愕した。呼び出され、これまで数えるほどしか入ったことのない父の書斎で、彼は膝を折って正座していた。

天ケ瀬あまがせすいと申します」

 真っ白な布を頭に巻いて目を覆った少年は、床に両手をつくと慇懃に頭を下げた。

「どうぞよろしくお願いいたします」

 呆気にとられる翔に父親の孝雄は、今日から彼がこの家に住むのだと素っ気なく告げた。理由を尋ねると、児童支援のボランティアだなどと嘘八百を並べ立てる。相手にされない不愉快さには慣れていたが、流石に翔も動揺した。

 視線を向けると、スリッパの沈む絨毯から額を剥がした少年は、こちらを見上げて薄い笑みを唇に浮かべた。目を隠した彼の微笑に、翔はぞっとした。病気を疑うほどに肌は白く、対照的に真っ黒な髪が耳にかかっている。頬だけが微かに赤みがかっているのが、態度にそぐわない子どもらしさを感じさせた。きっと端正な顔立ちだろうが、両目がしっかり隠れているので、表情が上手く読み取れない。十三歳にしては華奢で小柄な体型で、口調とアンバランスなその幼さが薄気味悪い。

「ちょっと待って、どういうわけ。子ども引き取ったってこと? どっから? てか親は」

「事情があるんだ」

 そばの一人がけのソファーに腰を下ろし、孝雄は面倒くさそうに言った。がっちりした骨太な身体つきに、上背もある。今年十七歳になる翔が、まだしばらく追いつけない体格の良さだ。五十を迎える角ばった顔には深い皺が刻まれ、経営者としての威厳を保っている。そして見る相手に不思議と若々しさを感じさせた。彼をおだてる人間は「情熱」に溢れていると言うが、翔には「野望」だの「執着」だのといった言葉が頭に浮かぶ。家庭を省みない成功者の顔つきだと信じている。

「いや、全然説明が足りないんだけど」

「気にするな。余った部屋に住まわせるだけだ。構わなくていい」

「そんなわけにいかないだろ、だって」

「いいから、黙って聞け」

 叱咤するように翔の言葉を遮り、孝雄は息子を睨みつけた。

「とにかく、こいつの目は見るなよ」

「目?」

「おまえも、分かってるな」

 視線を向けられ、少年もはいと返事をして頷いた。しっかりと布に覆われた目は、見ようにも見られない。病気や怪我で、余程ひどい状態にあるのか。だが、それしきのことを父親が気にするとは到底思えない。

 それが五月の下旬のことだった。翠には一階の小部屋が与えられた。屋敷と呼べる邸宅で、疑問だらけの生活が幕を開けた。

 放課後に男の死体の第一発見者となった翔は、すっかり陽が暮れた頃にようやく警察から解放された。倒れた男を見つけた後、通りがかった近所の住民と通報し、そのまま事情聴取を受けていたのだ。そこで翔は、翠の事は話さなかった。帰宅中に倒れている人を発見しただけだと説明し、実際に男に指一本触れていない翔のことを怪しむ者もいなかった。

 一見して男に外傷はなく、不意の心臓麻痺が疑われている。なぜ路地裏にいたかという疑問は残るが、誰かに襲われた形跡は現状では見られないとのことだった。

 死体を見たショックで言葉数が少ないのだろうと、担当の警察官は翔に同情的だった。少なからずショックは受けたに違いないが、翔の頭にあるのは路地の向こうに走っていく翠の後ろ姿だった。

 外傷がないにしても、翠が何らかの関与をしたに違いない。しかし盲目の十三歳の少年は被疑者としてあまりに無力すぎるし、翠が否定すれば却って自分の妄言だと思われてしまう。翔は、まずは自分で彼を問い詰めたいと思った。

 孝雄は出張中だったので、連絡を受けた亜香里あかりが翔を迎えに来た。家政婦かつ父親の愛人は、突然のことにぶつくさ文句を垂れていた。彼女が何かを知っているとは思えず、帰宅した翔は真っ先に翠を部屋からリビングに連れ出した。

「おまえ、あの人に何やったんだよ」

 毛足の短いラグに正座する翠は、正面にあぐらをかく翔の言葉に首をひねる。

「何のことでしょうか」

「とぼけるなよ。夕方、おまえが外を歩いてるのを見かけたんだからな」

 翠が軽く唇を噛んだのを、翔は見逃さなかった。しかし彼はあくまでも否定をする。

「ぼくはずっと、お家にいました」

「嘘つくな!」

 二十畳のリビングに翔の声が響く。亜香里はさっさと自室に引っ込み、夜の屋敷はしんと静かだ。高い天井で煌々と灯る光に、二人の影が水たまりのようにラグへじわりと滲んでいる。

「……嘘では、ないです」

「じゃあ見間違いか? んなわけないだろ、他におまえみたいな奴がいるかよ」

「翔さんの仰ることが、分かりません」

「馬鹿にするなよ!」

 どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがって。何の説明もなく、家の全てを勝手に進める。挙句の果てには事件にまで巻き込みやがる。親父もこいつも、本当の事情は何一つ教えてはくれない。心底馬鹿にされている気分だ。

 大声を叩きつけられた翠は、びくりと肩を震わせた。女の子のように細い肩が強張る様子は哀れを誘うが、翔はともすれば、彼を殴ってでも事実を吐き出させたかった。ただ、年下の子どもに手を上げる罪悪感から、そうしないだけだった。

「おまえが、あの人が倒れてた場所から逃げていくのを見た」

 翠が腿に置いたこぶしに力がこもる。

「ぼくには、何も分かりません」

「何があったのか……おまえが何をしたのか、説明する気はないんだな」

「誰にも、何もしていません」

「わかった」苦い呼吸をふうっと吐く。「なら俺は、見たものを警察に説明する」

 どうして、と頬を少しだけ動かす翠の声が震える。

「目に布を巻いた子どもがあの人と歩いてて、その場から逃げていった。仮に間違いだとしても、俺は確かに見たんだから説明したっていいよな」

 これが最後の脅しだ。現に目で見たものを誰に話そうが、嘘を吐いているわけではないのだ。後ろめたいことなどない。

 翠がぎゅっと下唇を噛み締めるのが見て取れる。握りしめる両手の指は、色を失って真っ白だ。片頬がぴくぴくと数度痙攣のような動きをする。

「……何も、知りません」

 やがて彼は、か細い声を絞り出した。結局こいつは、俺に事情の切れ端すら見せる気はないのだ。大袈裟に舌打ちし、翔は部屋から翠を追い出した。馬鹿にしやがって。唾を吐くように、床へその言葉を投げかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る