セミ化する種族

うつぼ

セミ化する種族

 マンションの五階、ベランダは開放的だ。霞んだ太陽が窓を覗く。日差しが差し込み、部屋の温度を一度二度と上昇させる。地球温暖化という言葉。この言葉が世界に生まれ、流行ってから数十年が過ぎた。地球規模の気温の上昇、世界各地で異常気象が発生している。今、この部屋の温度が一度二度と上昇したのも地球温暖化のせいだ。

 流行り始めは一〇〇年後の未来のため、政治家も国民もみな地球温暖化という環境問題に対して真剣に解決策を考え、自分達ができることを実行する。言葉が流行れば、必ず廃る。地球温暖化という言葉に飽き、興味が薄れていく。次々と起こる下世話なゴシップが積み重なる地層に地球温暖化という言葉は化石のように眠る。

 春夏秋冬という言葉。移ろいゆく四季の美しさを表現する言葉だ。それも過去の話。今では夏と冬、二季しかない。灼熱と極寒がこの国を支配していた。

「そろそろかな?」、あたしは重たい腰を上げ、言葉を吐く。お日様の匂いがする洗濯物を適当に叩いて取り込んだ。

「これぐらい適当なのが丁度いいのよ」、止まらない言葉。少しだけ大きくなったお腹を優しく撫で、話しかけ、洗濯物をたたみ、夕ご飯の準備を始めた。

 腰を上げる時、「よっこらしょ」という言葉が自然に出てしまう。もう中学生になるお兄ちゃんがいつも笑う。「ママ、もうおばさんだよ」と。そんなお兄ちゃんが部活を終えて帰ってきた。「ママ、腹減った」、第一声はいつも同じ。

「ただいまでしょ」

「そうだった。ただいま、のぞみ。今日のご飯、何?」、育ち盛りのお兄ちゃんが犬っころのように鼻をくんくんさせ、あたしのお腹を撫でる。

「ハンバーグだ。ラッキー」、あたし特製の煮込みハンバーグの匂いにお兄ちゃんは声を上げる。「はいはい、よかったね」とあたしは笑う。

 お兄ちゃんはサッカー部でいつかワールドカップに出ることを夢見ている。泥と汗の染み込んだ靴下を洗濯カゴにシュートしようとするから、あたしは天才ゴールキーパーのごとくセービングした。

「ちゃんと洗ってからカゴに入れてよ」、シュートを防がれたお兄ちゃんは仕方なくバナナツリーにぶら下がるバナナを一本口に頬張り、「▲◯=#@」と口をモゴモゴさせる。

「行儀悪いよ」、あたしはお腹を支えて、ゆっくりと動く。お兄ちゃんが自然と腰に手をそえる。この優しいところはいつまでも変わらないな。あたしがお兄ちゃんの脇を小突き、二人で転びそうになり、逆にあたしが怒られる。

「ハンバーグだって。よかったね。のぞみ」、お兄ちゃんがまたあたしのお腹を撫でた。もう一度、お兄ちゃんの脇を小突きにいき、また怒られるあたし。そんなありふれた日常が心地よかった。

 ベランダから映る空はもう明るくない。大陽が沈んで、夜がやってくる。黒いカーテンのような空に月と星が滲んで映る。

 お兄ちゃんがワールドカップに出れたらよいな。パパが少しでも出世できたらよいな。あたしは鼻歌交じりに心で歌い、煮込みハンバーグの入った鍋を火にかけた。

 こんなありふれた日常を積み重ねてもう一〇年になる。笑えることばかりじゃないし、泣ける日もある。でも、あたしには大事な家族がいる。だから、こうして生きていられる。

 もしワールドカップに出れなくても落ち込むなよ。もし出世できなくても落ち込むなよ。大丈夫だよ。あたしがいるから。あたしがぎゅっと抱きしめてあげるから。また鼻歌交じりに心で歌い、四人分のお皿をテーブルに並べる。ちょうどいいタイミングで玄関が開いた。

「ただいま」、なかなか出世しないパパが帰ってきたのだ。


 胎児発育不全という病気がある。原因は母体因子とも胎児因子とも言われる。胎児の成長が遅延、停止してしまう病気だ。珍しい病気ではない。昔からある病気。発症率は全妊娠の一〇パーセントほどだった。

 治療方法は健全で規則的な生活をすること。そうして胎児の成長を促すしかない。

 原因は自己免疫性疾患などの母体因子、染色体異常などの胎児因子が考えられる。

 その中で原因が特定できないものもあった。いや、むしろ特定できないものの方が多かった。

 いつの頃からか胎児発育不全の発症率が上昇を始める。全体の一〇パーセントから二〇パーセント。二〇パーセントから三〇パーセント。

 逆に治療の成功率は下降する。胎児が成長しないまま、入退院を繰り返すことになる。

 研究チームは日々治療方法を探した。出生率の低下一途の世界で発症する原因不明の胎児発育不全。原因が特定できるものであればいい。無くしたパズルのピースを探すだけ。時間をかければ、そのピースの代用品だって作ることができるかもしれない。しかし、原因が特定できないものについてはそう簡単にはいかない。「これは月に手を伸ばすようなものだ」、瓶底眼鏡の学者が諦め、ついに胎児発育不全の発症率が五〇パーセントを越えた。

 これはネットという仮想現実の世界で囁かれた噂話。昆虫オタクは匿名という鎧を身にまとう。「うちのセミ化したオオクワガタも胎児発育不全だね」と呟く。セミ化とは越冬するクワガタが幼虫のまま、蛹化しない状態のことだ。発症要因は飼育環境とも言われる。幼虫のまま蛹にもなれないセミ化したオオクワガタをもじった呟きはセミ化症候群という言葉を創造する。それは瞬く間に仮想現実の世界に拡散された。

 仮想現実の世界は現実の世界と繋がっている。時に面白おかしく流布された呟きが現実の世界に侵食し、増殖する。セミ化症候群という言葉が原因を特定できない胎児発育不全と繋がり、いつしか現実の世界で認識されることとなった。

 セミ化の原因は飼育環境だ。セミ化症候群の原因は誰もが忘れていた地球温暖化という言葉に紐付けられる。地球温暖化により世界規模で起きている気温の上昇、四季を失い、二季しかなくなった世界が人類の生殖能力を奪ったのだと。


 あたしのお腹にはセミ化症候群の赤ちゃんがいる。のぞみ、そう名前を付けた。お兄ちゃんより三つ下の妹だ。

 胎児発育不全の発症率の上昇は知っていた。一人っ子よりも二人っ子。三歳になるお兄ちゃんも普通に生まれてきたから大丈夫だよねと。子ども好きのあたしとパパは二人目の赤ちゃんを望んだ。

 あたしが妊娠し、パパが喜ぶ。もうお兄ちゃんになるんだよとのぞみのいるお腹を三人で撫でる。順調に育ってますよという先生の言葉とエコー画像に喜んで、みんなで名前を考える。女の子らしいピンク色の服と帽子を待ちきれず買ってしまった。お腹の中にいる赤ちゃんをあたし達は心待ちにしていた。

 四カ月の妊婦健診の時、先生が顔をしかめる。赤ちゃんが小さいね。ちょっと検査をしましょうか。先生の言葉に促されるまま、ありとあらゆる検査をした。胎児の成長を促すため、規則正しい生活と食事、入院と退院を繰り返す。その結果、原因が特定できない胎児発育不全、セミ化症候群と診断された。


 セミ化症候群の発症率が一〇〇パーセントとなった日、社会のシステムが変化していく。妊娠してもセミ化症候群を必ず発症する世界、子供が生まれない未来に誰も希望を持てなくなる。

 母体保護法では二二週未満でなければ人工妊娠中絶を認めていない。しかし、セミ化症候群が診断されるのはいつもその先だ。だから、母体保護法にセミ化症候群に罹患した患者に限り除外するという特例条文が国会で認められた。実際、多くの赤ちゃんの命が失われる。成長が止まっただけ。生きているのに。

 先生も人工中絶を勧める。でも、あたしは首を縦に振らない。このお腹にいるのぞみは生きている。それだけは分かっていた。パパもあたしと同じ考え。あたし達はのぞみと一緒に生きることを選択した。

 十月十日が過ぎて、治療法が見つかるかもしれない。十年十月が過ぎても治療法が見つからないかもしれない。それでも、のぞみはここにいる。あたし達を選んでくれたのぞみに会える日を待ち続けよう。一〇年前、そう決断した。

 これからも妊婦検診をしてほしいと先生にお願いした。この子が生まれるまで何年も待つからと。先生は困った顔をしながらも、今ものぞみを診ていてくれている。

 そんな先生ももうおじいちゃん先生だ。今ではあたし達の予約日を心待ちにしている。赤ちゃんのいない世界では産婦人科も流行らないからかな。お兄ちゃんはいつまでも生まれてこないのぞみのことを少しずつ理解した。お腹にいるのぞみのことを心配し、あたしに重い荷物を持たせないようにしている。

 母子手帳にしっかりと書いたのぞみの名前。名前の通り、あたし達の希望だから。予定日がのぞみの誕生日。お兄ちゃんの誕生日。パパの誕生日。あたしの誕生日。みんなの誕生日には必ずケーキを食べて、お祝いをする。「のぞみ、おやすみ」とあたしのお腹をそっと撫でて、お兄ちゃんはベッドに入る。「行ってくるね、のぞみ」とあたしのお腹をそっと撫でて、パパは出勤する。

 一〇年過ぎた今、お兄ちゃんはもう中学生だ。パパは主査止まりだ。

「もっと勉強しようかな?俺」、サッカー漬けのお兄ちゃんがらしくない発言をする。

「あんた、熱でもあんの?」、額を触る。もちろん熱などない。お兄ちゃん曰く、もっと勉強して、医者になって、セミ化症候群の治療法を探すんだそうだ。目頭が熱くなったあたしはデコピンをくらわせて、両の頬をつねった。

「あんたはのぞみとパパとあたしをワールドカップに連れていけばいいの。ほら、さっさとボール蹴ってきなさい。ボールは友達でしょ」、あたしはお兄ちゃんをぎゅっと抱き締める。

「それって、昔の漫画でしょ。時代が違うよ」、お兄ちゃんは少しもごもごしていたが、やがて居心地のよさに静かになる。中学生になったお兄ちゃんはしっかりとのぞみを受け入れている。それどころか、のぞみのいる未来まで見ていた。

 セミ化症候群の蔓延で赤ちゃんが生まれないから、人口は減り続けている。保育園や幼稚園がなくなり、小学校の統廃合が各地で起きている。いずれ中学校、高校も統廃合されるだろう。子供の数が減る。先生の数は減らない。子供と先生の数の比率の逆転現象が教育現場に影響を与えたのか。心臓に悪い、凶悪な少年犯罪のニュースを聞かなくなった。

 子供達に未来を託すと世界はずっと掲げてきた。だからこそ限りある資源について深く議論し、環境を守るべく未来を目指していた。託すべき子供達も、進むべき未来もなくなってしまった今では資源も好きなだけ掘り起こす。汚染物質も好きなだけ撒き散らす。太陽も霞んで見えるくらい空が汚れている。濁った海を見るたび、海水浴に行く気分じゃなくなる。もう未来のことなど考えなくてもいい。こんな風潮が世界のルールとなってしまった。そのうち二季の国ではなく、灼熱の夏しかない一季の国となるだろう。

 お兄ちゃんの未来にはワールドカップがあるのだろうか。サッカー選手もサポーターもいない。茶褐色のグランドにゴールポストが立ち尽くし、サッカーボールが転がる未来が簡単に想像できる。いや、セミ化症候群が蔓延した未来よりもお兄ちゃんのワールドカップの夢の方が大事だ。あたしは信じたい。のぞみがいつか生まれると信じているのだから。お兄ちゃんのワールドカップの夢も信じよう。パパが出世することも信じよう。



 そこは水の中だった。

 少し濁ってるけれど。

 ヌルヌルしてるけれど。

 温かくて、心地いい。


 ママ。


 パパ。


 お兄ちゃん。


 聞こえているよ。

 ママの声が温かくて。

 パパの声が優しくて。

 お兄ちゃんの声が嬉しくて。


 あたしはここにいるよ。

 ワールドカップだってママとパパと一緒に見に行くから。


 もしお兄ちゃんがワールドカップに行けなくても、パパが出世できなくても、ママと一緒にぎゅっと抱きしめてあげるから。


 あたしはここにいるから。


 夢の中、声を聞いた。きっとのぞみの声。体にまとわりつく羊水の感触がリアルで、手ですくうと指と指の間から糸を引いて、零れて、一つに戻る。あたしは布団の中に潜り込んだ。胎児のように体を丸くして、のぞみを感じる。これがのぞみの世界。ここに生きているのぞみの世界を感じて、嬉しくて、一筋の涙が流れる。

「一緒にワールドカップ行こうね」、あたしは小さく呟いて、お腹を優しく撫でた。



 ハッピーバースデートゥユー♪

 ハッピーバースデートゥユー♪

 ハッピーバースデーディア のぞみ♪

 ハッピーバースデートゥユー♪


 一〇本のろうそくの火をみんなで消して、クラッカーを鳴らす。

「誕生日おめでとう、のぞみ」、お兄ちゃんとパパとあたしでのぞみを撫でる。今日、のぞみが一〇歳になった。



 ねえ、のぞみ。来年も、再来年も誕生日、お祝いしようね。ねえ。あたしはもう一度お腹を優しく撫でた。




【了】


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