第29話 それぞれの稽古
午後8時30分頃、マジヤバ道場1階にて。
20分交代のアラームが鳴る。
稽古に詰めている所属選手はスザクや源三らを含めて14人に登っていた。
それだけの選手が同時にリングやエバーマット、ダミー人形を使用することはできない。だからこの日は20分3交代で稽古をつけていた。
自分の順番が回ってくるまでの40分の間は、各自休憩したり、タッグパートナーとコンビネーションの段取りやタイミングの確認をしたり、スクワットやポール登り、縄跳びといった一人でフロアで行えるトレーニングをする。
晴嵐は、この20分でリング外に敷いたエバーマットの上で、コーナートップから場外に飛ぶ練習をしている男子選手と交互に、その場跳びサンセットフリップの練習を繰り返していた。ほぼ動きとしては完璧に繰り出せる仕上がりだった。
アラームが鳴ると同時にリングの側を離れ、『せいら』とひらがなで名前の書かれた使いこまれたドリンクボトルを取った。中身はいつもの白いBCAAだ。
鏡を背に座り込んで、リング上で練習の順番が回ってきた選手たちを仰ぎ見る。
おとわさんと灯樹がスザクの監督のもと、ロックアップからの展開の稽古をし始めた。
この2人は23日の大会にて第一試合でシングル戦をする。
男女で戦うのだから当然体力差がある。だが試合展開を制御することで、そのバランスを取ることはできる。
具体的には、基本に忠実な試合を展開するのだ。まずロックアップでおとわさんが敢えて押し負け、ロープ際まで押し込まれ、レフェリーにロープブレイクを取ってもらう。
灯樹が背を向けて引き下がろうとしたところを、
それを数手繰り返したところで灯樹がヘッドロックに持ち込み、登環は体勢を低くして、どうにか仰向けに近い形になるように灯樹の腕の中の頭をねじる。
その状態になったところで、レフェリーは一度フォールカウントをとるが、2までで両足から全身を跳ね上げて、カウントを止める。
そこで一度灯樹は腕をほどき、体が離れかけたところで登環が下半身を跳ね上げさせて灯樹の頭に足を絡めて、そのまま一緒に転がる要領で上下入れ替わり、逆にのしかかってフォールを取れる姿勢に持ち込む。
レフェリーがカウントを始めたところでこれを弾き返し、その勢いで2人は完全に体を離した距離にはなれる。
そこからおとわさんは後転受け身で転がって立ち上がり、灯樹はハンドスプリングで立ち上がって向き合って一瞬止まる。
……この一連の動きを淀みなく行うことで、序盤の展開としては緩急のついた見せ場になる。
そこから先はおとわさんはドロップキック、灯樹は体重差を活かしたボディスラムというような得意技の見せ合いを中心とした臨機応変な展開になっていく。
そのやりとりの横で、一人黙々とダミー人形を相手にグラウンドでの組技の練習をしているのが知花ユリカ、晴嵐の対戦相手だ。
晴嵐はしばらく彼女の動きを無意識に見つめていた。
頭の中ではダミー人形の立場に自分の体をおいて、姿勢が変わるごとに相手の次の展開の予想と、実際の動きの答え合わせを繰り返していた。
ロックアップから腹を蹴られてフロントヘッドロックを取られたら姿勢を低くしながら、体をねじってマットに背中をつけ、両足でヘッドシザースに持っていって無理矢理引き剥がす。
そこからヘッドシザースを解かれたら、すぐに体を離し、ロープに走って立ち技の展開に持ち込む。その展開の途中で後腰を取られたら、裸絞への移行に警戒する。
展開次第ではそのまま深く腕を組み込まれてドラゴンスリーパーの姿勢に持ち込まれかねない。そうなったら一度うつ伏せになって――。
そんな事を延々と考えながら、ぼうぜんと見つめていると、知花の方が視線に気づいてか、グラウンドの練習をぴたりと辞めた。そして近くの手の空いている女子選手に声をかけてチェーンレスリングの練習を始めた。
それにはたとして、晴嵐は少し気まずさを感じながらドリンクを一口あおり、空いているポールを腕だけでよじ登り始めた。
5回ほど繰り返したところで、掌が汗で滑るような気がして、ポールの途中に太腿と
源三は次の20分がリングの時間だ。それまでの時間を潰すように、マットプロレス用の体育マットを敷いたフロアの上で、金曜のロイヤルランブル戦に出る選手の連携技からの丸め込みの受け手をし、その立場から見た細かな修正点の指導をしている。
彼の対戦相手は当然のことながら、今夜このマジヤバの道場にはいない。
だから当然相手の動きを観察したり、練習内容に併せて対抗策の検討をしたりといったことはできない。その手持ち無沙汰を他の練習の補佐や指導を務めることで埋め合わせていた。
自分の練習時間になれば、特に失敗時の危険度の高い技の反復練習だけを繰り返していた。具体的には、ロープワークから場外に敷かれたエバーマットめがけて、前方宙返りでトップロープを飛び越えて尻から落ちるトペ・コンヒーロの練習。
それから、ダミー人形をリングサイドの体育マットの上に寝かせ、その上を合気道の横受身のように肩首をついて再び立ち上がる姿勢を取りつつ、ダミー人形の右足から担いで腰腹胸と右から左へ肩の上へ巻き取るようにファイヤーマンズキャリーの形に担ぎ上げ、そのまま後ろに倒れてブリッジをする
『オールド・ルーツ』に関しては北魂プロレス時代にネットで見つけた元米軍特殊部隊員の指導によるレンジャーロールという『緊急時の意識不明者を体の勢いを使って担ぎ上げる方法』に着想を得た、プロレス外から見出した技を起点とした連続技だ。
ホールド式のサモアン・ドロップで閉めるのは、水谷玄弥の母方の祖父母が日系ハワイアンとサモア系ハワイアンであることに基づいている。
プロレスラーになってから左の二の腕に入れた黒の三角文様のタトゥーもこのサモア系のルーツに基づくものだ。
この技は先々週の前哨戦でも、キムハート相手に掛け、椿光太にも直に見せている。下敷きにされた彼女には酷だったかもしれないが、腹を直に踏むフットスタンプなんかの技にくらべれば、かわいいものである。
源三自身としては、金曜のタイトル防衛戦のための準備は既にほぼ出来上がっていた。対椿光太戦の試合運びや展開も概ね想定できている。
元々EFPW時代からの知り合いであり、迦楼羅プロレスからも最近の試合の映像はもらっている。それらで何度もイメージトレーニングは繰り返していた。
例えば、まず大前提として、まず彼の『スピンライト』を一度は技を阻止した上で、一度しっかりと成功したものを食らい、その上で2カウントで返す。更に1度は相手が元気なうちにコーナーに登り、雪崩式のブレーンバスターを食らう。
その上でグラウンドでの組技合戦、立ち姿勢でのチョップ合戦なりロープワークからのショルダータックル合戦なりをし、正面である南側のロープ際で一回スカして相手をロープに絡め、リングサイドに蹴り落とし、こちらの持ち技であるトペ・コンヒーロを確実に決める。
そこからは中盤までは立ち見客も多いことを意識して、場外を広くつかって客の臨場感を高める。
それが済んだらリングに戻り、今度はできるだけ人垣で見えにくい客の視界内で試合することを想定した試合に移行する。見栄えのする立ち姿勢での関節技の攻防やコーナー上でのやりとり、ロープワーク多め、投げ技、打撃の応酬を見せたい。
本格的に勝ちを取りに行くための説得力をもたせる意味で、全体の流れとしては、相手の急所である古傷の左膝を重点的に攻める。必要ならグラウンドでの足4の字やマフラーホールドくらいは決める。
それで動きが鈍ったところで、もう一度コーナーに登って、椿の胸元めがけてダイビングショルダーアタックを見舞う。そのまま押し倒してひとまずピンフォール、これは当然返されるだろう。
返されたら、テキサスクローバーホールドでギブアップを改めて狙う。当然ギブアップはせず、ロープまで這ってたどり着くはずだ。だが膝をしこたまに責められたダメージの蓄積で、すぐには動けないだろう。
そこを仰向けに寝そべらせて『オールド・ルーツ』を決めてピンフォールでスリーカウントを取る。
……だが、椿はスタミナのある選手だ。そこで終わるとも思えない。
――三者三様に、考えること、やることはいくらでもあった。
そうしている間に、20分経過のアラームがまた鳴った。夜は刻々と更けていく。掛け声とリングの板の音、リングロープの軋むような音が聞こえ続けていた。
……そんな中、非常階段が開け閉てされる音がする。
スザクが様子を見に行くと、配信機材とかかれたカゴを抱えた雅鳳と、練習着姿の選手男女がいた。この2人は現マジヤバシラ王座を保有する男女のタッグだ。金曜にはセミファイナルで他団体選手のタッグと戦う。
2人は今夜の配信当番と、雅鳳はおそらくその手伝いをかねて様子を見に来たのだろう。
それを見て、首にかけたタオルで口元の汗を拭って、スザクが手をぱたぱたと振った。
「悪い。今夜の配信、こっちでは無理だ。4階の女子控え室使って」
そう言われて、3人は顔を見合わせ、一旦道場の1階を通り抜け、正面口から出て裏の住居部エントランスから4階へと再び向かって行った。
3人の様子を見て、晴嵐はスマホで9時からの配信の冒頭を見たが、幸い雅鳳が映り込むような事態は生じていなかった。
彼女はまだお披露目前の練習生である。
団体としては表向きは存在しない人間の状態だ。
(明日もあの子の基礎トレあるんだよね……今夜はちょっと早めにあがって、いつもどおりにするか)
そんな事を思い、晴嵐は手荷物をまとめてシャワー室に入った。
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