第30話 おそらく、ありふれた日。
次の日は、昨日のスザク社長の言葉通り、それまでよりゆっくりとした朝だった。
それでも晴波はいつもどおりに朝6時半には起きる。起き抜けにソイプロテインをオーツミルクで溶かしたものを1食分飲み干し、リビングの除湿機のタンクを空にして、ベランダの戸を開いて網戸のみにする。
昨夜も大雨だった。そのせいもあってか、空は雲がかかり、湿度が高く高原のようにひんやりとしていた。
そのリビングの物音に目を覚ました雅鳳が「おはようございますー」と寝癖頭で起きてくる。
晴波は「おはー」と返事をし「今日は寒い」などぼやきながら肘を抱えて一旦部屋に戻った。
その間に、雅鳳はいつもの癖で水道水でうがいをコップ半分、残り半分を普通に飲み干しつつ、スマホで今日の午前の天気を見る。いつ小雨がふってもおかしくない程度の曇天、という予想だった。
洗面所に行き、脱衣場を兼ねたそこに据えられた洗濯機から昨夜のうちに社長達が回しておいた洗濯物を洗濯かごに掻き出し、リビングにもっていく。
窓辺近くの部屋干し用のフックリングには既に洗濯バサミの連なった洗濯ハンガーが吊られている。そこには昨夜のうちに干しておいた社長のアロハやら長ズボンやらがかかっている。
その乾き具合を見て、持ち主の仕分けをしながらソファの背もたれの上に4つの山にわけていく。布重量が一番重いのが、たぶん副社長のチノパン、次に雅鳳のワンピースだろうか。幸い夜通し除湿機を掛け続けたおかげか、どれもきちんと乾いている。
洗濯ハンガーが空になる頃、朝の外走りの格好になった晴波が出てくる。その朝は肌寒いというだけあって、ティーシャツの下に七分丈のラッシュガードのようなインナーを着込んでいた。キャップも一応防水で、スマホや財布などは斜めがけに背負ったウエストポーチの中だろう。
「じゃ、いってきまーす」
「はい、いってらっしゃい」
と言い交わして、そのまま彼女は出ていった。
雅鳳は引き続き、洗濯かごの中身を一枚ずつ干していく。この家はいわゆる父親の下着と娘の下着を一緒に洗われて娘が嫌がるという様子がない。むしろ雅鳳が気を使って分けて洗おうとしたところ、
「もったいないから、ブラだけは洗濯ネットに入れて一緒に洗って。コスチュームとかワイヤー入りのブラとか手洗いのものは各自自己責任で風呂入りながら洗う。で、自分の部屋に干してるから」
と晴波にやんわり叱られた。
干されていくものは、スポーツタオルに下着や稽古着といった丈が短く乾きも早そうな服達だった。実際、洗濯機の中でかなり水分が蒸発しているようで、生乾きに近い手触りのものもある。
それらを干し終えたら、雅鳳は炊飯器がタイマー通りしっかり稼働しているのを確認する。
それから3人分の卵や肉類を含んだ軽めの朝食と、それを豆腐や冷凍庫に作り貯めしてある『
最後にサラダと味噌汁を作っている間に、晴波がエコバッグを肩につるして帰って来る。中身はいつものオーバーナイトオーツの入った防水紙製のテイクアウト容器だ。
彼女は帰ってくるとすぐに冷蔵庫をあけて、紙パックのオレンジジュースを一杯飲む。
それを飲み干したところで、仕分けした昨日の洗濯物をかかえて部屋に戻り、着替えを手に脱衣場に消える。そして朝のシャワーを浴びる。
昨日までであればこのぐらいの時間になると、副社長のほうが起きてきて、プロテインを一杯飲んでからコーヒーの手挽きを始めるのだが、今日に限って起きてこない。
シャワーを浴び終えた晴波が、先に戻ってきて、部屋に手洗いしたスポーツインナーを干してリビングに戻ってきてテレビをつける。
ちょうど朝ドラのBS放送が始まる時間である。
それを見ながら、いつもなら3人でご飯を先に食べるのだが、今朝は2人で朝食を済ませた。
朝食を終えたら、2人で1時間ほど食休みをかねてリビングとキッチンの軽い拭き掃除をし、それぞれの部屋で8時半ごろまで各自で過ごす。雅鳳の場合は、筋膜リリースと深部ストレッチをしながらノートパソコンで高校の課題レポートの範囲のPDF形式のテキストファイルを読み進める。晴波はタブレットでなにか動画を見ていることもあれば、キーボードを接続してダイニングテーブルで真剣な顔で夏休みの宿題をしているときもある。
8時半になると、雅鳳はパジャマから短パンとティーシャツに着替える。インナーも育乳目的のナイトブラから薄いスポブラに換える。その後、1階の道場で2時間じっくりと基礎トレーニングを受け、4階に戻ってきてから、晴波に続いてシャワーを浴びるつもりだ。薄手のスポブラについては念の為衣類ネットにだけ入れて、トレーニング用の短パンやティーシャツなどと一緒にまとめて洗ってしまう気でいる。
リビングに行くと、手持ち無沙汰だったのか、晴波が自分の分の白いBCAAと併せて雅鳳用のピンクのBCAAも用意してくれていた。
「あ。ありがとう」
「それよりオヤジたち起きてこないね、起こす?」
「うーん……昨日って結局何時までやってたんですか? それによります」
「私は9時であがったけど、多分オーラスは11時近くだと思うよ。途中でプロテインの袋と使ってないシェーカーいくつか持って1階にまた降りていったし、その時、パパが『軽めのちゃんこを用意しとくべきだった』とか言って、ネット出前でなにか注文してたみたいだし」
「そんな時間までですか。今日仕事の人とかは?」
「そういう人は各自自己判断で早めに帰るから大丈夫」
「なるほど」
「じゃ、いこうか」
「はい」
その合図をもって、2人は部屋を出て、1階の道場に向かった。やることは初日とほとんど変わらない。入念なストレッチ、首トレを含む全身の筋トレ、マット運動、受け身の基礎、ロープワークである。
それをエアコンもつけずに汗だくになりながらこなす。
途中から3階の外国人寮組、自転車通いの男女の寮組の若手もやってきて、それぞれストレッチと筋トレから自主トレを始めていた。
9時半頃、サングラスにアロハシャツに雪駄履きで、髪型と香水をキメたスザク社長が非常階段経由で降りてきた。そして雅鳳に朝食の礼を言い、道場正面口の鍵を開け、そのまま東洋クインダムの稽古のコーチをするために車で出ていってしまった。
10時半頃、副社長が降りてきて、寮組とのリング稽古の指導に入った。
晴波は雅鳳に
「今日はここまで、ストレッチしておいて」
と言い残して一度4階に戻り、ドリンクボトルを白いBCAAで満たして戻ってきた。そして彼女は、リング稽古に混ざった。
「あの、見学していいですか」
雅鳳は勇気を出して声を掛けると、副社長はあっさりと
「いいよ、その前にプロテイン飲んできてからね」
と言われた。指示に従い、4階に戻ってプロテインを飲んで、着替えもせずに1階に戻った。
道場に降りると、わざわざ南側正面の場外にパイプ椅子が一脚置かれていた。
「しつれいしまーす」
といって、その椅子に座り、膝に手を置いて観察した。
選手たちの稽古を見るのは、考えればこれが初めてだった。
どうやらリング上でのトレーニングの序盤は自分と同じようなものらしく、全員順番にマット運動と受け身各種一通りと、南北、東西でタイミングをずらして走る2人同時のロープワークから始まった。
それから各選手、ロックアップとそこから後腰を取る所作への移行、更にそこから腰に回った腕を解除して手首を取り、取られた方は前転なり相手の腋をくぐるなりして腕を捻り上げる立場を入れ替え、或いは後ろ手に固め、それをどうにか試行錯誤しながら解除して手首を取り合うというチェーンレスリングの練習になる。
それが済んだら、背負投、手首投げ、頭を掴んでの投げ、髪を掴んでの投げなどあらゆる基礎的な投げ技とその受け身を攻守を順番に入れ替えての練習。
そこからパートを分けての練習になり、リング上では軽めのスパーリングが始まり、リングサイドではエバーマットを敷き、リングカバーを半分にしたような大きなキックミットを抱えた選手がドロップキックの練習の受け止めを始めている。
晴波は北西側のコーナーで、ダミー人形を相手にコーナーカバーを蹴った三角飛びのようなスイングDDTの練習をしている。
かと思えば、場外にマットプロレス用の大きな体育マットを二枚敷いて、その上でアマレス式のスパーリング練習を始める選手たちもいる。
練習の範囲が広がるにつれて、雅鳳はやや自分が邪魔なように思えて、椅子を畳んで戻し、立ち見で稽古の見学を続けた。本当は体も首もだるくて、座っていたかった。だが、眼の前でいざ汗をかき声を発して真剣に鍛錬に励んでいる大人たちを正視すると、そんな甘えたことを言ってられない気がした。
2時間ほどそのようにして稽古が続いただろうか。途中で上がってプロテインを飲んできたとはいえ、やや空腹が気になる時間になってきた。
ふと気がつくと、若手選手が2人ほど姿を消していた。
1時近くになった頃、不意に1階の内線が鳴った。これを取りに副社長がひっこむと、稽古をしていた選手たちがほうぼうで顔の汗を拭い、持ち込みのアミノ酸ドリンクを飲み、マットや床に落ちた汗をタオルで拭き始めた。
ほどなく、
「ちゃんこできたぞー、食べる人は非常口から4階に行ってー」
と副社長の張った声が聞こえた。
これが合図となって、それぞれトレーニングに使った用具を戻しはじめた。雅鳳もこれを手伝う。
晴波は汗を拭い、ドリンクボトルの底の澱のようなひとくちをかき回すようにボトルをふりながら、
「おつかれさん、シャワーも浴びれなくてごめんね。そういえば今日、お昼どうしよっか?」
と雅鳳に一声かけた。
「あ、えーと、あとで源三さんにカンガルーに連れて行ってもらいます。バイト先の挨拶で」
それをきいて、晴波はにやりと笑んだ。
そしてリングロープを工具で締め直している最中の副社長めがけて振り返った。
「パパー、三鷹、私もついてっていー?」
彼女は今日一番明るい声でそう聞いた。
「いいよ。ちょうどお昼だし、ちゃんこじゃなくて、我々はあっちで食べようか」
と言った。これをきいて、晴波は踊るようにガッツポーズをとった。
その様子を見て、本当に好きな店なんだな、と雅鳳は思った。
「あ、私1階でシャワー浴びてくから、がぶちゃん上のシャワーつかっていいよ」
そう言い残して晴波はロッカールーム奥のシャワー室へと消えていった。
「源三さん、どうします? 先浴びますか?」
「ん? あ、俺今から自主練するからいいや。30分ぐらいしたら上行くから、それくらいまでに出ててもらえるとありがたい」
「わかりましたー。お先失礼しまーす」
そう頭を下げて、雅鳳も1階を後にした。
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