2
あの時ーー今でも夢のように感じる。
煙草を持つ手が震える。息が詰まる。眉間を押さえる。
あの時どうすれば良かったのかーー香菜の眼差し、香菜の言葉。香菜の仕草、香菜の行動。全てが彼女に反し、全てが彼女に帰する。
あの時何が出来ただろかーーいや、何もない。
苦笑する。視界が赤に反転する。
お前のせいで、俺は今でも赤が怖いよ。
来客の報せでギャラリーに下りる。
「香菜」の前に彼女の息子が立っていたーー。
彼は緊張した笑顔で頭を下げた。
「はじめまして、
「よく来たね、吉田篤子です。京子が言っていた通りお母さんそっくりだ。一緒に来たのかな、お母さんと」
「いえ、母は亡くなりました」
少し歪んだ笑顔で答えた真人の言葉に、吉田は硬直した。真人は続けた。
「母は亡くなりました、昨年です。でも、そうですね、母と一緒に来ました」
そう言って、真人が取り出したスケッチブックを見た吉田は暫し絶句の後、
「そうか」と呟いた。そして切なそうな笑顔で俯きもう一度、
「そうか」と呟くと、労わるように真人の肩に手を置いた。
「大石を名乗っているのか。今幾つになったんだい、何をしているんだね」
「来年24歳です、大学で絵を学んでいます。今度、大石教授のファクトリーに所属する事になりました」
「あいつとーー大石と会ったのか」
「以前から母とは連絡を取り合っていたそうです。初めて会ったのは母の葬儀の時に。随分と助けて頂きました」
「そう、そうかあ。」
苦しそうに微笑う吉田に、真人は暫し沈黙すると、
「実は、これを見ていただきたくて持って来ました」と、改めてスケッチブックを差し出した。
吉田は震える手で受け取ると、一枚ずつゆっくりと開いていった。
「母が大切にしていたものです。教授に見せたら、先生のことを聞かされて。母とは仲が良かったそうですね」
「ああ、愛していたよ、とても」
潤んだ声で吉田は答えた。
「だが君のお母さんが愛したのは、僕ではないよ」
「はい、聞きました」
はっと顔を上げた吉田に、真人は微妙な笑顔を向けた。
銀座駅で降りる。
今日は休日なので歩行者天国になっているのだが、端に寄ってビルに順々と映り返す自分を眺めて歩く。
自分の多面性を曝け出されているようだ。
ママに会う前のパパが何をしていたのか知らない。興味さえ持たなかった。
パパが「誰か」を愛していた時があって。
その「誰か」は「赤い人魚」で。
パパは今でも愛しているの?
決して手放さない絵。
燃えるような瞳、波打つ髪、流れる曲体。
あんな女性がいたらきっと誰もが夢中になる、きっと恋をする。
でも「赤い人魚」はパパを選ばなかった。
ーー本当に?
もうひとつ不思議なこと。
パパは赤色が嫌い。
理由を聞いたら「血みたいで気持ち悪い」と答えた。
じゃあなんで「赤い人魚」を描いたの?
赤色が嫌いなのは「赤い人魚」のせいなの?
絵の具棚で埃を被っているガーネット色の小瓶。
いつものように空を見上げることが出来ない。
重いガラス扉を開けると、すぐにパパが現れた。
「彼、来てるよ」
「ひえっ」
爪先まで赤くなって震えるのを感じながら視線を移すと、「赤い人魚」の前に細い大きな背中がぴくりとも動かずに立っていた。
にこにこしているパパを睨みつつ、そうっと近寄って挨拶する。
「こんにちは」
輝く人魚の笑顔にクラクラする。
「改めてはじめまして、大石真人といいます」
「あ、はい、ご丁寧にありがとうございます?」
緊張しているとはいえ、返事がおかしい間違ってる。ほら笑ってる、恥ずかしくてしゃがみ込みたい。
「先生の娘さんのお名前は?」
「は、ひょーこです」
「ショウコさん?」
「や、いえ、京子、です」
「きょうこさん」
クスクス笑われる。無様っ振りが恥ずかしくて、名前を呼ばれたのが恥ずかしくて、何を話したらいいのか分からなくなる。
「そうだ京子さん、これ見てみる?」
差し出されたのは古いスケッチブック。
「あの、絵を描かれるのですか?」
「うん。描くけど、これは俺のじゃないんだ」
表紙を開く。息を呑む。
そこには人間になった赤い人魚が描かれていた。
次のページにも、次も。人間になった赤い人魚は笑って、眠ってーーそして、知らない男性と寄り添っていた。
「……あれっ?」
何枚かめくり直して顔を上げる。
「これ、うちの父のじゃないですか?」
「そう、分かるんだ、凄いね。これね、母が持っていたんだ」
笑顔の真人に胸が高鳴る。スケッチブックの中の笑顔と一緒だった。
「母が先生に愛されていたのがよく分かって嬉しかった。あ、好きとかそういうのじゃなくて、もっととても大事にしてくれていたってこと」
そうか、胸にストンと落ちた。
家に招待したいというパパの言葉を真人さんは丁寧に断って、ギャラリーを去って行った。
「また会えるかな」
パパは笑って、帰り支度を促した。
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