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 吉田篤子よしだとくしはギャラリーの上階にある喫煙室で煙草をくゆらせた。寒晴かんばれの眼下に映る人や車を眺めながら、心は暗い水溜りを覗き込むようにあの時のことを映し出していた。


 あの時ーー今でも夢のように感じる。香菜かなはあのことを息子に話したのだろうか。膠とは違う脂の匂い、粘る血鉄。

 煙草を持つ手が震える。息が詰まる。眉間を押さえる。


 あの時どうすれば良かったのかーー香菜の眼差し、香菜の言葉。香菜の仕草、香菜の行動。全てが彼女に反し、全てが彼女に帰する。

 あの時何が出来ただろかーーいや、何もない。

 苦笑する。視界が赤に反転する。

 お前のせいで、俺は今でも赤が怖いよ。


 来客の報せでギャラリーに下りる。

「香菜」の前に彼女の息子が立っていたーー。


 彼は緊張した笑顔で頭を下げた。

「はじめまして、大石真人おおいしまさとです」

「よく来たね、吉田篤子です。京子が言っていた通りお母さんそっくりだ。一緒に来たのかな、お母さんと」


「いえ、母は亡くなりました」

 少し歪んだ笑顔で答えた真人の言葉に、吉田は硬直した。真人は続けた。

「母は亡くなりました、昨年です。でも、そうですね、母と一緒に来ました」

 そう言って、真人が取り出したスケッチブックを見た吉田は暫し絶句の後、

「そうか」と呟いた。そして切なそうな笑顔で俯きもう一度、

「そうか」と呟くと、労わるように真人の肩に手を置いた。


「大石を名乗っているのか。今幾つになったんだい、何をしているんだね」

「来年24歳です、大学で絵を学んでいます。今度、大石教授のファクトリーに所属する事になりました」

「あいつとーー大石と会ったのか」


「以前から母とは連絡を取り合っていたそうです。初めて会ったのは母の葬儀の時に。随分と助けて頂きました」

「そう、そうかあ。」

 苦しそうに微笑う吉田に、真人は暫し沈黙すると、

「実は、これを見ていただきたくて持って来ました」と、改めてスケッチブックを差し出した。


 吉田は震える手で受け取ると、一枚ずつゆっくりと開いていった。

「母が大切にしていたものです。教授に見せたら、先生のことを聞かされて。母とは仲が良かったそうですね」

「ああ、愛していたよ、とても」

 潤んだ声で吉田は答えた。


「だが君のお母さんが愛したのは、僕ではないよ」

「はい、聞きました」

 はっと顔を上げた吉田に、真人は微妙な笑顔を向けた。


 銀座駅で降りる。

 今日は休日なので歩行者天国になっているのだが、端に寄ってビルに順々と映り返す自分を眺めて歩く。

 自分の多面性を曝け出されているようだ。


 ママに会う前のパパが何をしていたのか知らない。興味さえ持たなかった。


 パパが「誰か」を愛していた時があって。

 その「誰か」は「赤い人魚」で。

 パパは今でも愛しているの?

 決して手放さない絵。


 燃えるような瞳、波打つ髪、流れる曲体。

 あんな女性がいたらきっと誰もが夢中になる、きっと恋をする。

 でも「赤い人魚」はパパを選ばなかった。

 ーー本当に?


 もうひとつ不思議なこと。

 パパは赤色が嫌い。

 理由を聞いたら「血みたいで気持ち悪い」と答えた。

 じゃあなんで「赤い人魚」を描いたの?

 赤色が嫌いなのは「赤い人魚」のせいなの?


 絵の具棚で埃を被っているガーネット色の小瓶。

 いつものように空を見上げることが出来ない。


 重いガラス扉を開けると、すぐにパパが現れた。

「彼、来てるよ」

「ひえっ」

 爪先まで赤くなって震えるのを感じながら視線を移すと、「赤い人魚」の前に細い大きな背中がぴくりとも動かずに立っていた。


 にこにこしているパパを睨みつつ、そうっと近寄って挨拶する。

「こんにちは」

 輝く人魚の笑顔にクラクラする。

「改めてはじめまして、大石真人といいます」

「あ、はい、ご丁寧にありがとうございます?」

 緊張しているとはいえ、返事がおかしい間違ってる。ほら笑ってる、恥ずかしくてしゃがみ込みたい。


「先生の娘さんのお名前は?」

「は、ひょーこです」

「ショウコさん?」

「や、いえ、京子、です」

「きょうこさん」

 クスクス笑われる。無様っ振りが恥ずかしくて、名前を呼ばれたのが恥ずかしくて、何を話したらいいのか分からなくなる。


「そうだ京子さん、これ見てみる?」

 差し出されたのは古いスケッチブック。

「あの、絵を描かれるのですか?」

「うん。描くけど、これは俺のじゃないんだ」

 表紙を開く。息を呑む。


 そこには人間になった赤い人魚が描かれていた。

 次のページにも、次も。人間になった赤い人魚は笑って、眠ってーーそして、知らない男性と寄り添っていた。


「……あれっ?」

 何枚かめくり直して顔を上げる。

「これ、うちの父のじゃないですか?」

「そう、分かるんだ、凄いね。これね、母が持っていたんだ」

 笑顔の真人に胸が高鳴る。スケッチブックの中の笑顔と一緒だった。


「母が先生に愛されていたのがよく分かって嬉しかった。あ、好きとかそういうのじゃなくて、もっととても大事にしてくれていたってこと」

 そうか、胸にストンと落ちた。


 家に招待したいというパパの言葉を真人さんは丁寧に断って、ギャラリーを去って行った。

「また会えるかな」

 パパは笑って、帰り支度を促した。



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