三、与右衛門と後妻 7
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その年はなにごともなく過ぎた。田畑の作物も加代の働きのおかげか、前年よりも多かった。
気を良くした与右衛門は遊び人の血が騒ぎ出し、夜ごと博打へ女遊びへと出かけるようになった。自然に加代との仲も冷えてくる。つまらないことでの喧嘩が増え、与右衛門はますます夜遊びに明け暮れるようになった。
それでも気の強い加代は、与右衛門が畑仕事を休んだり手を抜いたりすることを許さなかったので、なんとかやっていた。村人たちも、加代がついているのなら与右衛門もこのまま無事に暮らしていくだろう、とよそ目ながらそんなことを陰で話していた。
ところがその翌年、滞りなく田植えを済ませたとたんに、一滴の雨も降らなくなった。一週間、十日と異様な暑さの日照りは続き、植えたばかりの苗は瀕死の状態だった。
半月ばかりしてようやく雨が降ったと思うと、今度は冬に逆戻りしたかと思うような寒さがやって来る。
「あの年は、この世の終わりかと思ったよ」
ミヲはその年の異常な天候のことを繰り返し話した。私もその年のことは覚えている。七つになっていたからだ。道ばたの草も枯れ始め、鬼怒川の水量は減ってずいぶん細くなってしまっていた。
寒さのあとは、まるで人々をからかうように再び猛暑がやってきた。天候のせいで不作ではあったが、その年、どうにか年貢を収められるほどの収穫はあった。
しかし与右衛門の畑だけ、どういうわけか稲を食い荒らす害虫が大量に発生した。田畑の半分以上が害虫の被害を受け、収めなければならない年貢には届きそうになかった。
こんなことは初めてなので与右衛門はうろたえた。
「加代、どうする。借金しなきゃならねえかな」
累が残してくれた金はとっくになくなっているので、こういう時の備えはまったくないのだった。
「大丈夫だよ。あたしが持って来たお金があるじゃないか。ほら、家を売ったお金がさ」
しかしそれは、与右衛門がとっくに使い果たしていた。
加代は得意満面で、その金を仕舞ってある銭箱を出してきた。
「あのお金は、こういう時に使うのさ。ねえ、あたしと一緒になってよかっただろう?」
銭箱を開けようとしている加代を、なんとかやめさせる手立てはないものか。
『殺してしまおうか』
与右衛門の頭に、一瞬そんな考えがよぎった。銭箱の中に金がなければどれほど加代が怒るか、考えただけでぞっとする。
銭箱を開けた加代は、はっと息を呑んで固まった。少しの間、地蔵のように動かない。
ゆっくりと顔を上げると、血の気の失せた顔で与右衛門を見据えた。
「あんた、このお金を使ったんだね」
蒼白だった顔はだんだんと赤みを増し、目が血走ってくる。
「累さんが残したお金があるって言ってたじゃないか。ちょっとくらい遊んでもなくならないって言ったじゃないか。毎晩使ってたのは、あたしの、このお金だったのかい?」
そう叫ぶなり、加代は与右衛門に摑みかかってきた。
髷を摑んで振り回し、与右衛門の頬を引っ掻いた。倒れた与右衛門の腹を蹴りつけ、馬乗りになってめちゃくちゃに叩き始める。
「なんてことするんだよ。あんたを信用して預けたのに」
わめき散らしながら、ついには泣き始めた。
与右衛門は謝る気も失せて、ほんとうにこの女を殺してしまおうか、などと考えていた。だが、借金をするなら一人よりも二人で働いた方が楽に返せるだろう。ここは思う存分怒りを吐き出させて、なんとかなだめる方策を考えよう。
加代は疲れ果てて床に転がった。
与右衛門は台所に行って瓜を持って来た。冷えてはいないが加代の機嫌を取るためだ。
「これ、食うか?」
加代は瓜をちらりと見てつばを呑み込むと、与右衛門の手からひったくり、がつがつと食べ始めた。散々にわめき泣き叫んだので喉が渇いたのだろう。
「畑が虫にやられなかったら、こんなことにはならなかったんだ。金がなくなったんで、これから真面目に働こうと思っていたところだからな」
「それ、ほんとうかい?」
瓜の汁でべとべとになった口で加代は訊いた。
「ほんとうだよ。俺だっていい年だ。そろそろ遊びにも飽きてきたからな。これからはお加代のために働くよ。な、機嫌を直してくれよ。だから一緒に借金を返してくれ」
「馬鹿らしいじゃないか」
「え?」
「借金したら利息を払わなきゃならないんだからさ。借りないほうがいい」
「だけど、今年の……」
「あんたには内緒にしていたけど、死んだ亭主があたしに残してくれたお金があるのさ。こんなことはこれっきりだからね。今度こんなことをしたら……」
加代は肩で息をして思い切るように言った。
「こんなことをしたら離縁するから」
与右衛門は殊勝な顔でうなずきながら、心の中では笑いをこらえていた。
『この女は俺に惚れている。離縁するなどと言っているが、その気はまったくないんだ』
加代の金で年貢の不足分を補填し、借金をせずにすんだが、加代の与右衛門への締め付けはやたらと厳しいものになった。仕事に関することは言うに及ばず、生活の細々としたことまで逐一指図をするようになった。
そんなだから外に遊びに行くことなど到底考えられなかった。
与右衛門の苛立ちは日ごとに募った。加代への不快感は憎しみに変わっていった。
そんなある日、加代と与右衛門は連れ立って豆刈りに出かけた。夕方になって刈った豆を背負い、二人は家に帰るところだった。
与右衛門は何気なく空を見上げた。
秋の空は高く風は爽やかだった。
鰯雲が夕日に染まっている。
こんな光景をいつか見たような気がした。
背負った刈り豆。
女房と二人歩く鬼怒川沿いの我が家への道。
血のように赤い夕焼け雲。
はっとして思わず立ち止まる。
「どうしたんだよ。おまえさん」
振り返った加代の顔の左半分が赤く染まっていた。
累を殺した日も、こんな夕焼けの美しい日だった。あの時の全能感がよみがえる。
加代を殺すことは正当なことに思えた。
「おまえさん」
加代だったはずの女は、なぜかサチになった。火傷を負った左半面の顔は夕日を照り返して、まるで血を流したように赤い。
「おまえさん、いけないよ」
サチの声が優しく耳朶に響く。
「どうしたのさ、おまえさん」
肩を揺すられて、与右衛門は我に返った。加代が怪訝な顔で与右衛門の肩を揺すっていた。
「なんでもねえよ」
乱暴に加代の手を振り払って道を急いだ。
心の臓が激しく打っている。
『俺は今、加代を殺そうとしていた。累を殺したみたいに鬼怒川に沈めようとしていたんだ。だけどサチが現れて俺を止めてくれた。ありがとうよ、サチ』
もしここで加代が累と同じような死に方をすれば、さすがに村人もおかしいと思うだろう。累と加代、二人とも与右衛門が殺したのではと疑うに違いない。
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