一、与右衛門とスギ 2
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これは私が生まれるずっと以前の話だ。私はこれをミヲから聞いた。ミヲは私を拾って親代わりに育ててくれた女だ。私はお
物心ついた時には、ミヲは六十に近かったので婆には違いない。
ミヲは囲炉裏端で私を膝に乗せ、昔話をしてくれた。灯火が揺れ、囲炉裏の中の木がはぜるとミヲは話し始める。
それが私の一番古い記憶だ。
私は時々振り返ってミヲの顔を見る。顔に刻まれた皺が深くなって、別人のように思えた。
「わしの母親は
飯綱使いというのは
「それじゃあ、お婆も?」
「わしはなり損ねた。山を下りる時に母親から受け継いだけれど、里に下りてしまえば狐はいつかいなくなってしまうと言われてたんだ。そうしたら、本当に何年かでどこかへ行ってしまった」
ミヲは寂しそうに微笑んだ。
「でも、お婆は占いも失せ物探しもできるじゃない。よく当たるってみんなが言ってるよ」
「ああ、そうさ。管狐が使えたってことは、普通の人とはちょっと違う力が備わっているってことだろうね」
そしてどこか遠いところの深い山で、ミヲの先祖がどんなふうに生活していたかを話してくれた。先祖と龍と蛇と蜘蛛。それらがどう繋がるのかわからないが、見たことのない
ミヲが物語る時、私はどこか別の世界に連れて行かれるような気持ちになったものだ。それはミヲの語りが非常に上手くて、登場人物になり切り、ミヲもまたここではないどこかへと心が飛んでいるからだとあとで思った。
私を相手に、ミヲは毎晩話をする。ほとんどがミヲのところにやって来る「客」の話が主だった。ミヲは村で
大事な
「大事な簪と言うけれどね、あれは亭主が懇意にしている女からもらったものなんだよ。その女というのは飯盛り女のお
私が理解できてもできなくても、ミヲは話を続ける。その話し方は独り言のようでもあり、たまにやって来る旅芸人の芝居のようでもあった。
私はわからないなりにミヲの話に引き込まれ、同じ話が繰り返されたとしても、それは毎晩の楽しみだった。
村人たちの家の話は、ミヲが「客」から聞いたことや、噂話や自分が見たこと、そして視たことだった。その中に与右衛門の家の話もあった。ミヲが山から下りてきた頃、ちょうど吉野が与右衛門と所帯を持ったので、特に気にかかっていたらしい。
与右衛門の家のことは、あまりにも何度も聞いたので、まるで私が見聞きしたかのように隅々まで克明に知っているのだった。
ミヲはその風貌もあって、私はとてつもない年寄りだと思っていた。それで、ミヲのような年寄りはすぐにでも死んでしまうように思い、時々恐怖に襲われた。自分は捨てられた子どもで、もしミヲがいなかったら、今、生きてはいないだろう。私の心の中にはいつもその考えがあって、自分を庇護してくれる人はそうそういるものではなく、得がたい存在だったということが、子ども心にわかっていた。だから私はミヲの死をいつも、とても恐れていたのだ。
ミヲがごく稀に病に倒れた時などは、それこそ必死になって看病し、見よう見まねで祈祷をした。私がなにも言われずともそれを覚えたことを、ミヲは喜んでくれた。「血は繋がっていないが、おまえは私の娘だよ」などと言うこともあった。
ミヲには遅くに生んだ娘がいた。
すると伽羅はゆっくりと振り向き、私の顔を真っ直ぐに見て言った。
「私はおまえのおっかさんではないのよ。おまえは竹籠に入れられて鬼怒川を流れてきたの。捨て子だったのよ」
感情の籠もらないいい方だが決して冷たくはなく、同情や哀れみもなかった。自分には母親がいないのだと、最初に教えてくれたのは伽羅だった。
伽羅は心優しく物静かな女だった。自分の考えというものをほとんど言ったことがない。欲もなく、人に騙されても特に悔しがるようなこともなかった。伽羅は家の中のことと、人に頼まれて畑仕事などをして手間賃をもらっていた。ある時、箕(み)を作ってほしいと頼まれた。箕とは竹や藤蔓で作る農具で笊に似た形をしている。これを作るのはミヲが得意としていて、伽羅もミヲに教えてもらったのだ。
頼まれた箕は少し変わった形のもので、その家の祖母が使うために特別に注文したものだった。だが、いざ出来上がってみると、もう必要がなくなったと言って代金も払おうとしない。
ミヲはカンカンに怒って先方へ怒鳴り込みに行こうとしたが、それを伽羅は止めたのだった。
「私がなにか別のものに使いますから」
そう言って納戸の奥にしまい込んだ。伽羅とミヲは小さな畑を作ってはいるが、そんな形の箕を使うことはない。
「あれを見るたびに、わしは腹が立ってしょうがないのさ」
ミヲは顔をしかめたものだった。
伽羅が生まれたのは、ミヲが三十半ばの頃だ。父親は流れ者だというのを、村人の噂話で知ったが、ミヲは決してその話をしようとはしない。私が長じてから知ることになるが、それはまだまだ先の話だ。
伽羅は自分の父親のことであるのに、まるで関心がないかのように口にしなかった。ミヲがそれを訊かれるのを嫌がるのを知ってのことだった。自分の父のことを知りたくないはずはないのに、ミヲの気持ちを慮ってなにも言わない、というのは実に伽羅らしかった。
伽羅はすらりと背が高く、いつも眠たげに目を半眼にしている。動作は緩慢で、気配を消すようにたたずんでいる。言葉数は少なく物言いは穏やかで慈愛に満ちていた。
ミヲはよく言ったものだ。
「まるで菩薩のようだよ。わしにはちっとも似ていない」
私もまったく同感で、欲が深く村人からも、「金に汚い上に、命根性も汚い」と陰で言われるミヲの娘とは思えなかった。
すぐに死んでしまうと思ったミヲは、六十六歳まで生きた。孫の菊の誕生を待たずに死んだのは残念だっただろう。だが一方で、菊にまつわるごたごたを知らずに死んだのは幸運だったとも言える。
ミヲがなぜ与右衛門の家のことを気に掛けるのか、子どもの頃の私はなんとも思わずにミヲの話を聞いていた。あとでその理由がわかって、ミヲも一人の女なのだ、と知って不思議な思いがしたものだった。
ともかく与右衛門の家のことは、ミヲと同じくらいに私はよく知っていた。そばで繕い物をしながら聞いていた伽羅もよく知っているはずである。
心優しい吉野と夫婦になった与右衛門だが、幸せは長くは続かなかった。
数年してめでたく吉野は懐妊した。ところが吉野は難産の末に腹の赤ん坊もろとも死んでしまったのだ。
与右衛門の不幸はここから始まる。与右衛門だけではない。子々孫々、この家に住む者すべてが不幸の深みにはまっていく。
ミヲはそれを予見していた。
「みんな不幸になる」
皺の中に埋もれるような小さな目が、雲がかかるように濁る時、ミヲはこれから来る未来を見通す。
囲炉裏の灰を火箸で掻きならしながら、丸い背中をさらに丸め、しわがれた声で言った。
「男は狂い。女は死に絶える」
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