46.思いの先に
気付かれずにすれ違ったようで、相手はそのまま歩いて行った。
アイリスも、そのまま歩を進めた。
しかし、声が聞こえた。
「先に行っててくれ。忘れ物をした」
淡々とそう言った言葉に、一緒に歩いていた男性が答えた。
「代わりに行ってきましょうか」
「いや、先にこの報告に向かってくれ。どこまで耳に入っているのか早く知りたい」
「分かりました」
そう言って、他の者たちと進行方向を変えて今来た道を足早に戻ってくる音がした。
アイリスは瞬時に自分の心臓が早鐘を打つのを自覚した。
緊張と戸惑いで足がすくみそうになる。
彼は、すぐにアイリスに追いついた。
「やはり、ここに」
アイリスの後ろで、ルーカスはそう言った。
「わたしは……」
ルーカスはそのまま、すぐ横の路地にアイリスを連れ込んだ。
そこは武器庫の周辺にある小さな兵器工場の一帯であった。
煙で目が染みるような気がした。周りの音もやけに耳障りだった。
咄嗟にアイリスの腕を引っ張って連れ込んだルーカスは、慌てて腕を離した。
アイリスは怖くて顔を上げられなかった。
――もう二度と会うことはないと思っていたのに……!
「アイリスという名は本当の名か?」
ルーカスが、静かに訊いた。
「はい」
俯いたまま答えるアイリスの顔にルーカスが触れた。
反射的に顔を上げかけて戸惑うアイリスに、ルーカスは言った。
「危害を加えたりはしないから、顔を上げろ」
しかし、顔を上げたアイリスは涙を流していた。
「なぜ……泣く。危害は加えない……」
「そうではなくて……もう二度と会えないと思っていたから……」
工場の音に掻き消されそうな声で、アイリスは言った。自分でも驚くほど涙が溢れていた。
「あの日、お前は俺の元を去ったのだ」
「そうです。わたしがそう決めたの」
唇を強く噛み、嗚咽を漏らすまいと必死に答えた。ルーカスは驚きと戸惑いを隠せなかった。
「……その涙はなんの涙だ」
「……あの日から、あなたから去ったあの日からあなたのことを考えない日はなかった」
「じゃあ、なぜ去った!?」
ルーカスが珍しく感情的な声になっていた。
「故郷や家族と……愛するあなたとどちらかを選べと言われて……わたしにはこの場所を、ポリシアを捨てることができなかった」
「……」
「だからここに帰ってきた。あのままアンデで生きていくこと、あなたとの未来をどう作っていけばいいのかも分からなかった。でも……あなたと別れたあの日から、あまりにも大きな喪失感にどうにかなってしまいそうだった……。憎むべき人や国があまりに大きく、そこから逃れるためにはポリシアに戻ることだと思っていた。けれど、いつの間にか、あなたと……たった一人のあなたとの出会いでそれが変わってしまった。戦争の前にはもう戻れないと知ったの」
アイリスは泣きながら必死に訴えた。許しを請うためではなかった。
ルーカスへの気持ちに嘘がなかったことをどうしても伝えたかった。
こんな姿、きっとみっともないし、ポリシアの人たちに知られればそれは「裏切り」とも言える感情だろう。
ルーカスもまたアイリスの言葉を聞きながら、信じるものをどこに定めるべきか、考えていた。
「明後日、ここで会えるか」
そう言って、ポケットから名刺のようなカードを出した。滞在している宿のカードだった。それは、さっきアイリスが見てきた自分の屋敷跡の近くであった。
「明後日……」
その言葉にアイリスの身体が強張った。急に現実に引き戻される。
「こちらに駐屯しているのは一か月の予定だ。ここに泊まっている」
「明後日は……」
無意識にその言葉を繰り返していることに気付いたアイリスは、これでは勘繰られると焦った。
「どうした」
「明後日は……行けないわ」
「……アイリス、何か知っているのか?」
ルーカスの静かな問いに、アイリスは顔を上げた。そして早口で言った。
「もう二度と会うことはできない」
そう言ってまた視線を下げたアイリスは、自分がもうこの人の前で嘘をつけれないと感じていた。
「もう二度と会うことはないのか?」
そう問う声に、アイリスは答えることができなかった。ルーカスの声音は、悲しさを含んでいた。
「明後日は仕事が休みだ。一日ここにいる。もし気が向いたら……」
そう言いかけたルーカスに、アイリスが不意打ちのようにキスをした。二人の唇が重なったのは一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。
そして、ルーカスが何か言いかける前にアイリスは足早にその場を去った。
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