三、【零雨の香】その⑦

霖鵜のその様子に、文碧はまた霖鵜から顔をそむけ、前に向き直った。見ていないから、お泣き、そう言われたような気がして、霖鵜は文碧の背に顔を寄せ、わんわんと泣いた。小さな鼻をこすり、文碧の上着に涙のシミを作りながら、霖鵜は抑えることなく涙を流し、文碧はただ霖鵜に背を貸すように座ったまま、静かに俯く。文碧の背は、いつも薬を塗っている時は頼りなく骨ばって感じるが、体を預けると頑丈で広く、霖鵜がいくらすがっても、揺らぐことはなかった。むせび泣く合間に、ほのかに香り立つ爽やかな香に、霖鵜は心を優しく包み込まれるようにも思った。そして気がつけば霖鵜は文碧の背に体を任せたまま、小さく寝息を立てていた。


 


 ✿✿✿


 


 軽やかに鳴る古琴の音、心地よい雨の音に包まれて、霖鵜は母親が微笑んでいる夢を見た。病気になる前の綺麗な顔をした母は、霖鵜と目が合うとゆっくりと頷いてそのまま遠くへ歩いていく。裳裾を揺らしながら歩いていく母の姿を、霖鵜は穏やかな気持ちで見送った。今までなら足を引きずってでも追いかけただろうに、何故かこの時は気持ちが落ち着いて、清らかな古琴の音に導かれるように、天を仰ぎ見た。


「おはよう、霖鵜」


 霖鵜が目を開くと、文碧が書斎で古琴を演奏しているのが見えた。ゆっくりと体を起こすと、自分が文碧の寝台の上で寝ていたのだと分かって、体にかかっている布団をはぐった。


「ごめんなさい、私、寝てしまったのね……」


「泣きつかれたんだろう」


 霖鵜の言葉に文碧は古琴の演奏をやめ、立ち上がった。寝台に近づいてくると、ハンカチを差し出してくるので、霖鵜はそれを受け取って顔を拭った。


「ありがとう、環叡様」


 霖鵜の言葉を聞いて文碧はまた古琴の置いてある机の前に戻り、ゆっくりと腰掛け、また演奏を始めた。


「いつでも部屋に戻ると良い、まだ夜は明けていない」


 窓の外はまだ暗かった。雨の音もしていない。ただ文碧の奏でる古琴の柔らかな音色だけが、室の中に流れ、霖鵜は弦の上に踊る文碧の手をじっと見つめた。激しいわけでも、優美なわけでもないが、文碧の指は軽く重さのないように弦を弾き、そこから生まれる音は深みがあって心を離さず、まさしく幽玄そのものであった。


「……文碧様、私、母さんの夢を見た」


 文碧が古琴を弾く姿に見惚れていた霖鵜は呆然と言い、文碧は演奏の合間に小さく頷いた。音の合間に指と弦がこすれる音までもが衣擦れのように聞こえてくる。


「母さん、笑ってた。何も言ってくれなかったけど……」


 霖鵜がまた呆然として言うと、文碧は演奏をする手を止めた。張り詰めた七弦をそっと手のひらでおさえれば、驚くほど室は静かになり、文碧が霖鵜の方に顔を向けると、肩口にかかった髪の束がサラサラとこぼれ落ち、その音すら聞こえそうなほどだった。


「死人に口はないさ。後は生きるものが、その意を汲むだけだ」


 霖鵜はこの時、文碧の声は、古琴の響きに似ていると思った。古琴の一番低い弦の音がもつ響きに、よく似ている。


「環叡様、好きや嫌いの反対は何なの?」


 霖鵜は目を伏せたままの文碧に尋ねた。上の空でなくて、赤くただれたその面をしっかりと見ながら尋ねれば、文碧は古琴の上に視線を落とし、両手をまた弦の上に置いて、答えた。


「忘れる、ということかな……」

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