三、【零雨の香】その⑥
「ただ娼館での暮らしから抜け出したかっただけよ。そのために私のことも生んだんだわ」
言ってみて、霖鵜は初めて自分でもハッとした。コブ付きの娼婦なんて苦労しか無いのに、何のために母が自分を生んだのか。父親の気を引くため?そう思うと辻褄が合って、下唇を噛んだ。
「……本当に、そう思うのかい?」
「わからない、母さんに直接聞いたわけじゃないから。でも母さん、雨の日になるとよく外を見てた。傘が三本必要だって……私と母さんと、父さんの分。母さん、雨の日でも傘をささなかった。私が傘を渡してもね……傘をささなかったの。馬鹿らしいでしょ、でもほんとなの」
霖鵜は話しながら、ずっと薬の蓋に刻まれた文様を目で追いかけていた。白磁の容器に青い花と蔓草模様が描かれていて、ぐるぐると辿っていってはまた元の場所に戻る。いい終えてから霖鵜は薬の容器を置き戻し、衣を引いて文碧の背中を覆い隠すと、肩に濃緑色の上着をかけてやった。
「私の母さん、よほど父さんの事が好きだったのね。恋は盲目だって、よく言ったものだわ」
一つため息を付いて、霖鵜は寝台から降りた。小さく鈴が音を立て、文碧の方に視線を投げる。その表情は見えないものの、すっかり衣を着付け、上着に腕を通した文碧は静かに窓の外を見つめていた。
「そうか……霖鵜は母君のことが本当に好きなんだね」
「どうして今の話を聞いてそうなるの」
しみじみと間を置いて言う文碧の声。霖鵜は眉根を寄せ、また文碧の背中側に腰掛けた。目線を下げれば蓮の花の刺繍がしてある靴が見える。脱いで布をほどけば不格好になる足が、この日も雨のせいで少し痛む。
「霖鵜は母君の話をするのが好きだろう。本当に、楽しそうにしているからね。自分の大切なものを、誇るときの話し方をしてる」
「好きじゃないわ。だって私見捨てたの。母さんのこと……。好きだったら、そんな事できないでしょ」
誇るような話し方?と霖鵜は心のなかで繰り返した。
「聞かせておくれよ」
と文碧の声が聞こえ、霖鵜は顔を上げた。
「母さんは病気でね、うつっちゃいけないからって、あばら家に住んでたの。食事もろくに与えられなかったし、飲み水だって腐ってた。だから時々私がね、面倒を見てあげてたの。ご飯を分けたり、お水を汲んだりしてた。母さんの病状は良くなかったけど、いつか治るって信じてた。でも病気になってからもね、母さんはずっと父さんのことを待ってた。体が弱いのに、雨の日に傘もささずに立っていたこともあった。多分病気のせいで、頭まで悪くなってしまったんだと思うわ。日に日に痩せて、水を汲んでも飲まなくなったし、ご飯も一人で食べられなくなっていたの……私はそんな母さんを見るのが辛かった。だから……母さんの所に行くのをやめたの。……早かったわ。私が行かなくなって三日で母さんは死んだ……」
霖鵜はゆっくりと話した。こんなことを誰かに話すことも初めてで、ところどころ言葉に詰まりながら、自分の口に出して話してみると、言葉の節々が震えた。でも文碧はなにも言わず、霖鵜に背を向けたまま、静かに座っているだけだった。
「母さんは……だから……私は母さんが嫌いよ」
そう言うと、霖鵜は自分の頬に涙が伝っているのに気がついた。喉の奥が酸っぱくなって、もうこれ以上話すこともできなくなって口をつぐんだ。文碧は何を言うだろうかと怖くなる。人殺しだと責められたら、文飛のそばにいるにふさわしくない人だと思われたら、いろいろに不安は浮かびつつも、不思議なことに文碧がそのような言葉を言うことは無いだろうという気持ちもあった。
「だから、霖鵜は雨が好きなんだね」
文碧の意外な言葉に、霖鵜は小さく声を漏らした。鼻が垂れてきて小さく鼻をすする。きっと不細工な顔になっているだろうと顔を俯けると、文碧の上着の布地が柔らかそうなのが目についた。横方向に糸の目地が並ぶ上着は、染にムラのある綿で作られていて、近くで見ると色の濃さに少しずつ違いがあって、モヤのかかった山の色によく似ていた。
「雨なんて……」
嫌いよ、そう霖鵜がいいかけた時、文碧はやっと口を開いて、霖鵜は口をつぐんだ。
「私はね。好きと嫌いは同じことだと思っているんだよ。忘れられない。心のなかにずっと残るものが誰しもあって、それを抱えて生きていかなくてはならないとなったときに、名前をつけなくてはいけなくなる。好きだとか、嫌いだとかね。どっちの名前をつけても、中身は同じことなのに、そうしなくては気持ちが落ち着かないからね」
文碧の声を、霖鵜は好きだった。落ち着いていて、深みがあって、耳に心地良い声。聞いていると、少し気持ちが落ち着いて、文碧の言葉がすっかり心のなかに入り込んでくるようだった。
「私には、辛そうに見える。君は本当は母君の事が好きなのに、無理をしているように見えるよ。でも雨が好きだと言う君はとても楽しそうだ。君は母君のことが好きだから、母君の愛した人を恨めないから、雨が好きなんだね」
「でも、私はッ、母さんを」
雨なんか、好きなわけじゃない。そう心では思いつつも、文飛の前で雨が好きだと言うのを霖鵜は嫌ではなかった。長雨に喜び、通り雨に喜び、雨音に耳を澄ませ歌い、その匂いに心動かす。雨が母の姿を思い起こさせても、嫌いとは言えない。それどころか、雨は母のことを思い出すから好きなのだと、文碧の言葉を聞いた後ならば言えてしまいそうな気すらした。
「霖鵜は悪くないさ。君は母君の願いを、叶えてあげたんじゃないのかい」
「でも、それでも……」
でもそれでも、母を見捨てたのは私だ、という思いも捨てきれるはずがない。霖鵜は膝の上で手をきつく握った。爪の先が自分の手のひらに刺さり、力を込めたために爪は白く色が変わった。また鼻をすすると今度は、手のひらの上に涙が落ちて、眼の前の景色が滲んで見えた。
「霖鵜。子供は、生まれてきただけで、孝行の半分は終わっているという。霖鵜はもう十分母親に尽くした。それにこれは私の意見だけれど、遅かれ早かれ君の母君は命を引き取っていたさ。霖鵜が責任を感じる必要はない……」
名を呼ばれ顔を上げた霖鵜は、文碧の後ろ頭をじっと見ながら、その言葉を聞いた。不意に文碧が後ろを向いて、霖鵜の顔を見るまでは。
「君は大好きな母さんを、恨まなくともいいんだよ」
目があってから、文碧は優しい声で言った。霖鵜は目をそらそうとしたが、それよりもまず、胸が苦しくなって大きく息を吸い込んだ。何もかも文碧には見透かされているように思うと、関が崩れたように慟哭の声が口から漏れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます