三、【零雨の香】その⑧
「忘れる、ということかな」
言って、また文碧の指は弦を弾いた。ころころと高い音を奏で、霖鵜はそれを雨音のようだと思って聞き入った。音の響きの端っこを頭の隅で追いかけながら、引き寄せられるように寝台から降りると、靴の音を立てないように膝立ちになって、文碧に近づいていった。古琴を置いてある机の上に両手で頬杖をつき、目と鼻の先で分碧の手指が弦を彈くさまを見つめる。ろうそくに照らされた古琴の艶がかった様は夜の池の水面によく似ていた。
「これは独り言なんだけれど……私、母さんの死を忘れるつもりは無いわ」
霖鵜は小さな声でポツリと言った。頬杖をついているせいで頬がぎゅうとなって膨らみ、唇がとんがっている。どこかすこし舌足らずな霖鵜の言葉に、文碧は古琴の演奏を止めた。不思議に思った霖鵜が顔を上げると、文碧の手の片方が、自分の頭の上にあることに気がついた。
「霖鵜は強い子だね……」
そう言いながら、文碧の手は霖鵜の頭を何度か優しく撫でた。まだ余韻を残して鳴る古琴の音が消えるまで、その短い間だけ重なった視線、触れ合う文碧の手のひらに、霖鵜はじんわりと心が暖かくなるのを感じた。
「独り言だって、言ったのに……」
そういじらしく言う霖鵜に文碧は申し訳無さそうに謝るので、霖鵜はからからと笑って、その日は文碧の室を後にした。部屋に戻った後、寝台に身を投げ出した後、外でかすかに雨音が聞こえ始めて、霖鵜は目を閉じた。
自分の中で複雑に絡み合った母への思いを、まだ言葉にすることすらできない母への思いを、雨音は自分の代わりに表してくれている気がして嬉しく思えた。まだ頭の中で古琴の音が清らかに鳴っていた。
✿✿✿
「大旦那様の話を聞かせてよ」
室に来るようになって十八日目。霖鵜は文碧の手に薬を塗りながら言ってみた。気がつけばいつも自分の事を話していると気がついた霖鵜は、時々文碧にも質問をするようになった。ただ文碧はめったに自分の事を話さなかった。
「絵を描くのは好き?」と尋ねれば一枚の絵をしたため、「歌は好き?」と尋ねれば、古琴を演奏した。「好きな詩はなに?」と問えば、陶淵明の詩を吟じ、「好きな香は?」と尋ねれば、自分で作ったのだという香を出してきて焚いた。
香炉からゆっくりと立ち上る煙を眺めると心が落ち着くと話す文碧。霖鵜はそのしずかな横顔を見るのが好きだった。文碧は文飛の話をよくしてくれた。幼い頃文飛が熱を出した話、飼っていた金魚を全部死なせてしまった話。それで一晩中文飛が泣き続けた話。街に遊びに行って飴を買ってやったが、それを落としてしまって、またしても一晩中泣いた話。文淑が成人したときに自分に古琴を贈ってくれた話。犬を怖がった幼い文景が、凧に書かれた犬を見て泣いた話。兄弟の話は話し始めると終わりがなく、霖鵜も顔なじみの文家の兄弟が幼い頃の話は聞いていて飽きなかった。
「じゃあ、大旦那様はどんなお子だったの?」
霖鵜は気になって問うが、文碧は、面白みのない子だったよ、と軽く答えるだけだった。
「あの時、涙を流したのはどうして?」
そう聞いても、文碧は、いつか話すさ、と言ってそれ以上語らなかった。
霖鵜はもともとは蝶の巣のために近づいたはずであったが、文碧の心の優しさや、細やかな古琴の演奏を聞くと、文碧が蝶の巣の事を知っているとは思えなかった。あんな綺麗な演奏をする人に、女たちの自由を奪い、文飛を裏切ることは無理なのだと霖鵜は思った。蝶の巣の女たちを救いたい、という願いもあるが、もし自分が文碧にこの事を言えば、文碧との関係が崩れるのではないかと恐ろしかった。今もう少しだけ、霖鵜はそう願いながら、文碧の離れに行くようになった。
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蝶の巣【外伝】 碧色の霖 小原楸荘 @obarasyusou
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