第35話 摩耶をさがしに②
僕たちは中華街を抜け、赤レンガ倉庫を目指した。摩耶は運動神経が発達しているようには見えないし、なんとか追いつけるかもしれない。
「お兄ちゃんは2号館を探して。私は1号館を見てくるから」
赤レンガ倉庫は1号館、2号館とも三階まである。その名の通り昔は倉庫として使われていて、今はお店やレストランが数多く店を構えている。中は結構通路が狭く、人の合間を縫って僕は摩耶を懸命に探す。一階にはアクセサリーやジュエリーの店など、摩耶があまり立ち寄らなさそうな店が多い。摩耶の姿はどこにも見当たらず、僕は焦りを覚える。シュウマイの店でのんびり食事でもしているのではと思ったが、やっぱりいない。
二階も一階と同じく店が並んでいる。折角ここに来たのに、店に立ち寄れないのが残念だ。摩耶を見つけたら説教してやらないと気が済まない。
三階のレストラン街にも摩耶はいなかった。あきらめて一階に戻ろうとしたとき、ラーメン店で見た帽子が目に入った。いた、摩耶だ。人の波をかきわけて摩耶を追いかける。当然彼女も走る。あと十メーター、五メーター、手が届きそうだ――。しかしすんでのところで逃げられてしまった。
「お兄ちゃん、見つかった?」
「いや、逃げられた」
赤レンガ倉庫の中にはもういないだろう。でもまだ遠くにはいっていないはずだ。
「山下公園のほうに行ってみるか」
赤レンガ倉庫の近くには、桟橋や小さな公園が広がっている。海からの風が吹きつけ、潮の香りが漂う。観光客やカップルがちらほらと見える中、摩耶の姿を必死で探した。
すると、桟橋の先にあるベンチに座り、海を眺めている女性の姿が目に入った。僕らは背後からそっと近づく。逃げられないように僕は左、雛乃は右から接近する。そして十分に近づいて女性に声をかける。
「あの、ちょっといいですか」
驚いた顔で女性が顔をあげた。その拍子に帽子が脱げる。やっと見つけた、摩耶だ。彼女は埠頭のほうに逃げようと持てる力の全てを使い走った。僕もその背中を追いかける。このまま見失うわけにはいかないんだ。
「逃げないで!」
雛乃が悲痛な声でそう言うと摩耶の足が止まった。僕は落ちた帽子を拾い、摩耶に優しく差し出した。彼女は帽子をひったくるように奪うと、その場にしゃがみこんでしまった。
「摩耶ちゃん、心配したんだよ」
摩耶は何も言わない。なおも雛乃は寄り添う姿勢を崩さずに語りかける。でもどんなに雛乃が優しい言葉をかけても摩耶は何も言わないし、しゃがみこみ顔を伏せたままだ。さて、どうしたもんだろうと途方に暮れかけたそのときだった。ついに雛乃が業を煮やして、
「摩耶ちゃんちょっと立ってくれる?」
と感情のない冷徹な声でそう言った。普段より一オクターブ低い雛乃の声は、どんな強い言葉よりも摩耶の心に刺さったようで、彼女はおそるおそるその顔を上げた。しかしまだどこか不機嫌そうなその顔に、雛乃は言葉の刃を突き立てる。
「私たちがどんな思いで摩耶ちゃんを探したかわかってるの? そんな態度なら縁を切るからね?」
「ラーメン食べてたくせに……」
「えっ、何か言った?」
「……ごめんなさい」
僕は摩耶がどうしてこんなことをしたのか、できるだけ優しく、諭すように聞いた。
「私、嫌われちゃったから……生きていたくない」
子どもが言い訳をするかのような口ぶりで摩耶は言った。そんな彼女の態度に僕たちはほとほと呆れ果て、怒る気力も失せてしまった。僕は摩耶を籠の中から出すため、拗ねた猫をじゃらすように、敵意も何もないことを示しながら彼女に歩み寄った。
「嫌ってなんかないし、君の話はウソだってわかった。石動さんに腎臓移植を勧めたのは君じゃない、雛乃だ。石動さんはウソをついて自分が悪者になることで、雛乃を守ろうとしていたんだよね」
信じられないと言った顔の摩耶に、雛乃がこくんと頷く。その一瞬摩耶の表情に光が戻ったかと思ったが、またすぐに心のカーテンを閉めてしまった。
「私思うの。私の人生は人の犠牲の上に成り立っているんだって。子どもの頃はお父さんに迷惑をかけた。お父さんは海洋研究者だから本当は日本全国の海を見て回りたかったんだと思う。でも私が腎臓病を患っていたせいで、透析とかで私にかかりっきりになってしまった。それで研究にも支障がでた」
摩耶は遠くの海岸線を見ながらそう言った。
「そして今度は雛乃ちゃん。私に腎臓を移植してくれるって言ったときはすごく嬉しかった。でも心の底では申し訳なさでいっぱいだった。雛乃ちゃんの人生を犠牲にしてまで私は生きるに値する人間なのか、わからなかった。今も常に罪悪感が消せないの。たぶんこれからも私は誰かを犠牲にして生きていく」
そう言って摩耶は僕の顔をちらりと見た。
「だからここで私の人生はおしまい。思い出の場所、横浜で私は命を終える。見て。この青酸カリを飲んだら私は終わり。楽になれる」
自嘲気味に摩耶が笑う。そんな彼女を見て雛乃は大きなため息をついた。そして摩耶の顔を見据えてこう言った。
「実はね、摩耶ちゃんに言ってないことがあるんだ。摩耶ちゃんはさ、私が腎臓をひとつあげたと思ってるでしょ」
「実際そうでしょう」
雛乃は首を横に振る。
「実は私は腎臓をあげてないの」
僕にとっても摩耶にとっても衝撃の言葉だった。
「えっ、そんなことあるわけない。雛乃ちゃんと私は三上先生のところで腎臓移植したじゃない。だから私は元気になれたんだよ」
雛乃は目を閉じ再び首を横に振った。
「違うの。私はあなたに腎臓をあげていない」
「うそ……それじゃ私の腎臓は一体だれが」
「摩耶ちゃん、お兄ちゃん、よく聞いてね」
そう言って雛乃は静かに語り始めた。
手術が終わった数日後、私は先生に呼び出された。緊張と期待が入り混じり、心臓が早鐘のように打つ。手術後の経過を確認するためなのか、それとも何か特別な話があるのだろうか。病室に入ると、先生はいつものようにぶっきらぼうな調子で座るように言った。
私はいよいよ摩耶ちゃんに会えるのかと思い、気持ちが高ぶった。それを察した先生が、
「今日この後摩耶に会わせてやる。だけどその前に言っておくことがある」
と言った。先生の口調は明るいものではなく、私は何か恐ろしい予感がして心拍数が跳ねた。まさか摩耶ちゃんの手術が失敗したのか。
「いいか、よく聞けよ。摩耶の移植は成功した。彼女はこれから普通の生活を送れるだろう。でもな、実はお前の腎臓は摩耶に移植されていない。摩耶には事故で死亡した男性の腎臓を移植したんだ」
そう言って先生は、形式的に私に「すまない」と謝罪の意思を見せた。でも私には先生の言葉なんて全く耳に入らない。「ワタシノジンゾウハ、イショクサレナカッタ?」何だそれ。何だそれ……。私は先生に食ってかかった。
「先生、嘘ついたんですか。私の腎臓を移植するっていったじゃないですか! 彼女に腎臓をあげるのは私でなきゃだめなんですよ。ねえ先生、聞いてるんですか」
私は狂いそうになる気持ちを必死でこらえながら、彼の白衣を掴んで抗議した。すると三上先生は私を突き放す。勢いあまって私は床に体を叩きつけられた。
「雛乃、お前は何を考えているんだ、ふざけるなよ。自分の命を犠牲にして彼女を助けるだと? 甘ったれるのもいい加減にしろ。それがどれだけ身勝手な行動なのか、お前は全然理解していないな。自己犠牲なんて何も美しくないんだ。たかが小学生の分際でくっだらないこといいやがって。家に帰って春休みの絵日記でも書くんだな、それが一番だ」
先生の豹変ぶりに私は怒りと恐怖で起き上がれなかった。この人は最初から私の腎臓を移植する気などなかったのだ。期待させるだけさせて、こんな大がかりな失踪までして、私はバカみたいだ。
「雛乃、命っていうのは軽々しく扱うもんじゃないんだ。まだお前にはわからないかもしれないけどな。お前は自分の体を精々大切にするんだな。そして自分のしたこともよく考えろ。今回の件でお前の家族も心配しているし、大きなニュースにもなっている。
人間ひとりの行動が世界に及ぼす影響はお前が思っている以上だ。反省しろとはいわない。だがこれからどう生きるのか、しっかり考えないといけない」
私は打ち付けた背中をさすりながら彼の話を聞いていた。まだ私は憎しみしか湧いてこない。そして摩耶ちゃんに対する申し訳ない感情が滝のようにどっと流れてきた。どんな顔をして会えばいいのだろう。
「摩耶ちゃん、具合はどう?」
私がそう言うと摩耶ちゃんは何も言わずに私に抱きついてきた。その瞬間、彼女の気持ちが痛いほどわかり、私の罪悪感は無限に増幅し始めた。彼女は私を信じている、信じ切っている。これほどまでに彼女が安らぎに満ちた瞬間を私は知らない。摩耶ちゃんの中で私は神になったのだ。でもそれは間違いだ。私は何もしていない、あなたに何も与えられなかった。私はすぐにでもここから逃げ出してしまいたかった。ああ、自分の喉を掻き切って死んでしまいたい。
「雛乃ちゃん、本当にありがとう。私、あなたのおかげで生きていける」
私はまともに彼女を見られない。摩耶ちゃんはこれから陽のあたる世界を生きていく。私は彼女に真実を告げられないまま生きる。握りしめた温かな指先が、私にとっては自分を責める業火の炎に思えた。
「日記、いつから書こうか」
「摩耶ちゃんが退院した日からにしよう。退院したら教えてね」
私が病室を出ると、三上先生が私を呼ぶ。そして、私たちはレモネードで静かに乾杯した。彼が入れてくれたレモネードはいつもより苦い味がした。たぶん私はこの先一生レモネードを飲むことはないだろう。彼を思い出すと人生の傷口が大きく開いてしまう。
「もしこの先苦しいことがあったらいつでも私の所に来なさい。私も桃子も相談に乗るから」
そう言って先生はグラスを片手に笑った。桃子さんもにこやかに笑っている。私は何かの悪夢を見ているようで頭がくらくらした。この人たちは私の味方ではなかった。十日間も私をこき使って、腎臓移植もしないで放り出す。二度と会うまいと私は心に決めた。
その後のことは他のみんながよく知る通り。三上病院を早朝四時に出た私は、海岸近くの良円寺の境内に、何事もなかったかのように座った。
しばらくすると警察の車がサイレンを鳴らしてやってきた。誰かが通報したようだ。警官が「藤原雛乃ちゃんかな」と言うので、呆けた顔で「はい……」と言った。
それから警察署で私は身体を数時間にわたってチェックされ、失踪中何をしていたかなどを聞かれた。私は記憶喪失のふりをしてできるだけ曖昧に答えた。結局事件性はないということで、私はようやく家に帰れたのだ。
私の生活は徐々に元通りになっていったけど、摩耶ちゃんはどうなったのだろうと心配していた頃、家に電話が来た。彼女によると、数日前に退院したらしく、すぐにでも会いたいと言った。私は退院おめでとうと言い、できれば自分も会いたいと言った。それで次の日曜日に彼女の家の近くのハンバーガー屋で会うことになった。
待ち合わせ場所に現れた摩耶ちゃんは見たことのない、可愛らしい水色のワンピースを着ていた。私は普段着のパーカーとカーキ色のチノパンだ。その温度差に驚く。
「摩耶ちゃん、元気になったんだね」
「うん、雛乃ちゃんのおかげだよ」
そう言ってハンバーガーを頬張る彼女は、普通の女子と何ら変わらない。ああ、本当に病気は治ったのだとその時初めて実感した。
彼女の私を見る目は、以前よりも強くきらきらと輝いていた。親友に腎臓提供者という箔がついて、さぞ私は光って見えるのだろう。その輝きが私にはつらい。
「これからいっぱい遊べるね。あと日記も書き始めたよ。雛乃ちゃんは書いてる?」
「いや、まだ。今日から書き始めるよ」
私は摩耶ちゃんと会うのが辛くなっていた。できればもう会いたくなかった。彼女は元気になったのだし、これから新しい友だちを作ればいい。なにも私ひとりに固執する必要はない。摩耶ちゃんにそう言いたかったけど、できるはずがない。
その夜、私はベッドに横になりながら胸が張り裂けそうになった。苦しい。生きるのが苦しい。自分が犯した「罪」が私を苦しめる。そして強く後悔した。こんなことをするべきではなかった、と。私は声にならない声で嗚咽した。光あふれる私の人生はここで終わってしまったのだと、心から悔やんだ。
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