第33話 前を向いて
翌朝、何事もなかったかのように僕らは朝食を食べた。子どもたちもみんな元気で施設内はにぎやかだった。桃子や波多野さんも冗談を言ったりして、昨日の電話のことなど忘れてしまったかのようだった。でも、一つだけ昨日と違うことがあった。三上先生が朝食の席にいなかったのだ。桃子に聞くと、部屋で仕事をしていると言った。それ以上僕は追及せず、おいしいパンとコーンポタージュを味わった。このまま平穏に一日が過ぎればいいと思っていたが、突然三上先生に呼び出された。
「雛乃と藤原君、ちょっとお願いがあるんだ。桃子と一緒に彼女の家に行ってきてくれないか。取ってきてほしいものがあるんだよ」
先生は両手を合わせ、申し訳なさそうにそう言った。雛乃が心配そうに先生を見つめる。
「別に私は何ともないぞ。それより早く桃子とアレを持ってきてくれ。私はアレがないと生きていけないんだ。ああ、アレがほしい。アレが恋しい」
変な薬ではないだろうなと訝しく思った。とにかくその「アレ」とやらを持ってこなくてはいけないらしい。「わかりました」と言うと先生は立ち上がり、「よろしくな」と僕たちに握手を求めた。わけがわからず手を握ると先生はにやりと笑って「ありがとう」と言った。
桃子は部屋の外で待っていた。僕たちが手ぶらで玄関に向かおうとしていたら、荷物を全部持ってくるようにと桃子が言った。
「ちょっとしたピクニックみたいなもんだから」
アレを取りに行くのにピクニックとは、松茸狩りにでも行くのだろうか。桃子の言葉に不自然さを感じたが、とりあえず彼女のことを信じてついていくしかなかった。
「じゃ、出発しましょう」
桃子もリュック一杯に荷物を詰め込んでいた。車に乗り込む直前、彼女は施設の前で軽く敬礼をした。まるで建物に別れを告げるような仕草だなと僕は思った。
桃子の車は施設を離れ、海岸通りの田舎道を進んで行く。桃子はひときわ大きなロック音楽を流した。それは会話できないほどの音量で、僕と雛乃は思わず耳を塞がずにはいられなかった。僕は桃子がふざけているのかと思い彼女の顔を見てみたけど、表情を変えずに運転に集中しているようだった。
「一旦ここで休みましょう」
そこは道の駅だった。まだ開店していないのにも関わらず桃子は車を止め、僕たちに外に出るように言った。
「ここの野菜はおいしいの。赤石豆って知ってる? 見た目は普通の落花生なんだけど、三~四個の豆がぎっしりと入っててね。煮物なんかにするといいのよ」
桃子は時間を持て余しているように見えた。早く家に帰らなくていいのかと聞きたかったが、僕たちは桃子についていくしかないのだ。
その後も桃子は寄り道を続けた。有名な景勝地に行き、大きな吊り橋の上で写真を撮ったりした。でも彼女は全然楽しそうに見えない。
「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないですか」
すでに施設を出てから二時間ほど経っている。彼女が家に帰りたがらない理由はわからなかったけど、桃子は観念したように「そうだね」と言って車を走らせた。
それから二十分ほどで桃子のアパートに到着した。アパートは築五十年は経っている木造の古いもので、二階に上がる階段はぎしぎしと深くしなっていた。
「桃子ちゃん、元気かい」
桃子の隣人のステテコを履いたおじいさんがどろんとした目でそう言った。桃子が「元気よ」と言うと彼は嬉しそうに自分の腹を何度もさすった。
「どうぞ、入って」
建付けの悪い入口のドアをこじ開け、桃子は部屋に僕たちを案内した。部屋は畳の部屋が二つとキッチン、バストイレの簡素な作りで、派手に化粧をしている桃子とのギャップが大きかった。
「私あんまり物に興味がなくてさ。部屋とかどうでもいいのね。まあ見た目だけは気にするけど」
桃子はそう言って僕たちに座るよう促した。桃子も僕たちの前に座る。
「ええと、何ていったらいいかな。二人とも、落ち着いて聞いてほしいんだけど」
桃子は何かを言おうとして、なかなか決心がつかないようだ。そして傍にあったテレビのリモコンをつけた。
テレビを見ると、ローカル番組が放送されていて地域の季節の名産品などの紹介をしている。桃子が見せたかったのはこれなのかと不思議に思っていたら、ニュース番組が始まった。何気なくテレビを眺めていたら、突然知っている場所の映像が流れだした。僕たちはその番組に釘付けになる。
テレビには僕たちがさっきまでいた児童養護施設が映し出されていた。そしてそこにはパトカーが何台も止まっていて、すでに「KEEP OUT」と書かれたテープが貼られ、中には入れないようだった。
桃子は映像をじっと見据え、何も話さない。施設はものものしい雰囲気に包まれ騒然としている。レポーターが「疑惑の医師、逮捕です」と何度も同じ言葉を繰り返す。僕たちは耳を疑った。三上先生が逮捕された? 僕は雛乃の気持ちを案じながらも、なぜ三上先生が逮捕されるのか慎重に桃子に聞いた。すると、
「実は先生が子どもの人身売買に関わっていたんじゃないかって疑惑が持たれているの。三上先生が子どもの臓器売買に関わっているんじゃないかって疑いもある。確かに先生は恵まれない子どもたちの手術をしたり、世話をしたりしたけど、そんな悪いことに手を染めるような人間じゃない。もちろん先生は昔から誤解されやすいし、トラブルもあったかもしれない。でも逮捕されるような真似はしていないわ。たぶん誰かが彼を嵌めようとしているの」
信じられなかった。僕は先生に昨日会っただけだからそれほど彼を知っているわけではないけど、子どもへの接し方を見ても三上先生は悪人には見えない。
「私たちにできることはないですか、桃子さん」
雛乃は体を震わせているが、涙は見せていない。むしろ目には強い光が宿っている。それは逆境を乗り越えようとする堅い意思が感じられた。しかし桃子さんは肩をすぼめて、
「できることは何もない。とりあえず昨日電話をかけてきた弁護士の先生は有能だから、彼を信じて私たちは成り行きを見守るしかないかな」
なおも忸怩たる思いが消えない僕たちに桃子は、
「二人の気持ちもわかる。でもここはじっと耐え時なんだ。私たちが下手に動いて物事をこじらせたってどうしようもない。三上先生だってこうなることは覚悟していたし、これからの考えもある。だからさ……」
桃子の目から大粒の涙が零れた。僕たちも思わずもらい泣きしそうになるけど、じっと耐える。ここで泣いていいのは彼女だけなのだ。桃子は涙を拭うと、「さて」と言って棚の中を探し始めた。そして小さな手紙を僕たちに差し出した。
「三上先生が言っていたアレ。雛乃ちゃんに渡してって先生に言われてたから」
「何ですか、これ」
「何だろうね。開けてびっくり玉手箱、かな。お家に帰ってから開けてほしいって」
雛乃はその手紙を大事そうに胸に当て、目を閉じた。きっと三上先生のことを思っているのだろう。そして思い切ったように、
「お兄ちゃん、帰ろう」
と言った。
「桃子さん、ありがとうございました。私、もっと強くなって三上先生の力になりたいです。この先先生がどうなるかわからないけど、先生に恥ずかしくないように生きていきます」
そう言って桃子に深々と礼をした。桃子も雛乃に頭を下げる。二人の心が共鳴して強い絆が生まれた。それは離れていてもともに生きて行こうとする決意だった。
雛乃の中でひとつの過去が終わり、新しい時が動き出した瞬間だった。これからもきっと彼女は前を向いて力強く生きていく。三上先生の事件も、いつか乗り越えていけるに違いない。
僕たちは新幹線のある駅で桃子と別れた。生きて行けよと手を振る彼女に、僕たちは拳を振り上げる。彼女に再び会った時、笑えているといいと僕は思った。
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