第32話 幸せな食卓

 三上先生の施設に帰ると、美味しそうな匂いが漂ってきた。食堂には三上先生を始め、桃子さんやお手伝いの波多野さん、それと十三名の子どもたちが僕らの帰りを今か今かと待っていた。もうみんな食事のスタンバイをしている。僕たちはみんなからの「遅いよ!」の声と歓迎の拍手に包まれながら席についた。

「今日は雛乃ちゃんのお兄さんが来るっていうから、いつもより豪勢にしてみました」

 波多野さんは自慢げにそういった。食卓にはローストチキンやケーキ、サンドイッチなどが並んでいる。何だかクリスマスみたいだ。

「ご察しの通り、今日は一足早いクリスマスメニューでございます」

 三上先生はそう言って目の前にあるポテトをひとつまみした。

「じゃ、今日のあいさつは私ね。雛乃ちゃんのお兄さん始めまして。私は野上ナナカです。九歳です。三上先生には結構前からお世話になっています。今日は、雛乃ちゃんとお兄さんがいるということで、スペシャルな夕食になっています。それとあと一つサプライズがあります」

 部屋がしんと静まり返る。雛乃もきょとんとした顔をしているし、そのサプライズが何なのかみんな知らないようだ。三上先生だけがお澄まししている。何があるのだろう。ナナカはこほんと咳ばらいをし、もったいぶった様子だ。次第にしびれを切らしたみんなが

「早くしろー」と言っている。

「それでは、サプライズを発表します。何と、ここにいる三上先生と星空桃子さんが昨日結婚しました! おめでとうございます!」

 照れた様子で祝福のメッセージを子どもたちから受けている。ナナカが渡した子どもたちからのプレゼントは「世界のレモネードの歩き方」という紀行本だった。そしてみんなでクラッカーを一斉に鳴らした。

 僕たちはその光景を見ると幸福な気持ちが溢れてきた。波多野さんもうっすらと目に涙を浮かべ嬉しそうだ。雛乃も心から祝福しているようで僕も安心する。

 ナナカが再び三上先生の横に立つ。そして小さく折り畳んだ手紙をポケットから取り出し、三上先生に向けてこう言った。

「三上先生は私たちにとって命の恩人です。私たちは小さい頃腎臓の病気を患い、家族もなく、生きる希望もありませんでした。それを先生が救ってくれたのです。病気を治してくれただけではなく、こうして生きる力も与えてくださいました。先生のおかげでこうして生きていられます。ありがとう先生、そしてこれからも末永くお幸せに」

 ナナカの言葉に嘘いつわりはなさそうだった。そこにいる子どもたちは彼女が手紙を読み上げている間、きらきらと目を輝かせじっと耳を傾けていた。波多野さんもこっそり僕に「私も先生に助けていただいたんですよ」と言った。ここにいる全ての人間はこの三上医師に手術を受けたり何らかの援助をしてもらった人たちのようだった。世間で言われれている悪徳医師というレッテルはどうやら間違いのようだ。僕も彼を信じてみようと思った。

「さあ、料理が冷めないうちにみんなで食べよう」

 夕食が始まった。早速ローストチキンにかぶりつく。皮はパリッとしていて身は柔らかい。焼き加減は最高だ。

「この料理、私も手伝ったんだよ。波多野さんてああ見えて料理がすごく上手なんだよ」

 波多野さんは二十代前半の女性で、背がとても高い。もしかすると百八十センチあるかもしれない。バレーかバスケットの選手のように見える。でも控え目というか内気そうだ。

「大変だったんじゃないか、人数分作るの」

「まあね。でも美味しいでしょ。今度家でも作ってあげるね」

 その日の夕食は子どもたちが歌を歌ったり、三上先生がギターを弾いたりと和やかに進んでいった。「雛乃ちゃんのお兄ちゃんも何かやらないの」と子どもたちが言うから、全力で首を横に振った。しかしそれを見た雛乃が、

「お兄ちゃん何か一芸ないの? 柿の種の一気食いとか」

「そんなことをしたら辛くて死んじゃうだろ」

「そんなことないよ。この前世界驚愕ニュースでやってたもん」

 僕をそんな人たちと一緒にしないでくれ。命がいくつあっても足りない。

「はーい、先生。私ダンスやります」

 雛乃はスマホに入っている音楽を探し始めた。そしてお目当ての曲が見つかったのか、テーブルにスマホを置いてスタンバイを始めた。スマホは壊れたと言っていたけど、音楽は聴けるのかなと疑問に思った。

 ダンスの曲は文化祭の舞台でも披露したもので、しかし文化祭のときよりも動きが洗練されている。流れる音楽と子どもたちの手拍子に合わせて踊る雛乃。いつもながら惚れ惚れしてしまう。

「今日は本当にありがとう。ちょっとクリスマスには早いけど、こういうのもいいかなと思ってな。これはみんなへのプレゼントだ」

 子どもたちから歓声が上がった。プレゼントはおもちゃや文房具、サッカーボールなど、子どもの個性と嗜好に合わせたものになっていて、先生の愛情の深さがよくわかった。

 楽しい夕食が終わり、食堂はがらんとした。子どもたちは部屋に戻り、僕たちと施設のおとな三人が残っていた。夕食の食器類は子どもたちによってすでに流しに運ばれている。この施設内ではそういうしつけができているようだった。食事が終わった後のテーブルも乱れたところがなく、きれいなままだ。

「今日は来てくれてありがとうな」

 三上先生が僕たちに向かって笑顔を見せる。桃子も波多野さんも穏やかな顔つきで微笑んでいた。

「桃子さんに大事な話があるからって言われて、何が起こったのかと思ったけど、まさか結婚サプライズがあるとは思わなかったな」

 雛乃がそう言うと、三上先生と桃子は肩をすぼめて照れたような表情を見せた。三上先生に抱いていたイメージが悪かっただけに、僕の中で彼に対する評価はがらりと変わった。思ったよりも性格も穏やかそうで、雛乃が彼になついているのも頷ける。

「雛乃は先生のところによくお邪魔していたんですか」

「まあな、いろいろ手伝ってくれてたんだ。料理とか掃除とか、波多野に習ってな」

「手伝うっていうか教えてもらうことばっかりだったんだよ。でも先生は結構厳しいんだ。料理は市販のだしの素じゃだめだとかいって、煮干しだしの取り方からやらせるし。でもそのおかげで今の私があるかな。それは感謝してます、先生」

 雛乃が三上先生にウィンクすると、桃子が「私のダンナ取らないでね」と冗談を言ってみんなを笑わせた。

「初めて会った時には小さくて何もできない子だったのにな。成長するもんだ」

「それは誰のせいですかねー」

 その時、突然電話が鳴った。広い室内に無機質なコール音が響き渡る。それは招かれざる客のように、僕たちの楽しい宴に入りこんできた。波多野さんが慌てて受話器を取る。

「先生、弁護士の山村先生からお電話です」

 波多野さんの声は普段より上ずっていて、こちらまで緊張が伝わってきた。三上先生が慌てて電話をかわる。

「ああ、そうですか。はい、わかりました。では、頼みます」

 眉間の辺りに暗い陰が差し、表情は重く沈んでいた。何か重大なことが起こったようだ。

僕は嫌な予感を背中に覚えた。それは雛乃や桃子も同じで、三上先生が話しかけてくるまで誰も一言も発しなかった。

 先生はそんな僕らの空気を察したのか、両手を大きく広げて彼に似合わない作り笑顔で

「さあ、今日の楽しい宴も終了だ。最高の夜だったな。みんなありがとう。藤原君も来てくれて嬉しい。もちろん雛乃もな」

 と言った。僕たちもここで暗い表情をするわけにはいかない。努めて笑顔で、施設の大人三人に感謝の気持ちを伝えた。

「じゃ、寝る部屋に案内するわね。雛乃ちゃん、お兄ちゃんと一緒でもいい? 嫌なら別の部屋にするけど」

 客間はベッドが二台置かれ、二人には十分すぎるほどの広さがあった。僕たちが鞄を置くと桃子は安心したようにふっと息を吐いた。そして遠くを見ながら、

「明日は忙しくなるかもね」とぽつりと言った。僕たちは彼女が何を見ているのかわからなかったが、大きな出来事が差し迫っていることだけは確かだった。

「おやすみなさい、また明日ね」

 笑顔の中に悲しそうな表情が浮かぶ。

 施設内は静まり返り、誰の声も聞こえない。雛乃の規則的な寝息だけが微かな灯りのように、僕の心を落ち着かせた。明日は何が起こるのだろう、そんな不安を抱いたまま僕は眠りについたのだった。

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