第31話 雛乃と摩耶の過去②
三上医師が指定した場所は、病院からすぐの喫茶店だった。私と摩耶ちゃんは二人で彼に会いに行った。珍しく調子が良かったから摩耶ちゃんは医者の先生から外出許可が出た。三上先生は店に入るとレモネードを注文した。そしておいしいレモネードの作り方を長々と話し、私たちをうんざりさせた。しびれを切らして本題を切り出すと、
「うん、難しいな。第一誰の腎臓を移植するんだ? 健康な腎臓がなければ移植はできない。だれか生きている人間を捕まえてきて、はいこの人の腎臓もらいまーすってできるわけないだろう」
それもそうだ。移植するには提供者がいる。
「どうすることもできないだろう? 雛乃と言ったっけ、君が腎臓の提供者になるか?」
三上先生はそう言って大声で笑った。一斉に店の人の視線が集まる。何だか自分のやろうとしていることが恥ずかしく思えてきた。でも、今の先生の言葉をもう一度頭の中で繰り返す。私が摩耶ちゃんに腎臓をあげる? それは考えてもみないことだった。そうか、私がドナーになればいいのだ。その瞬間、私の中に光が生まれた。そして先生に「自分がドナーになります」と言った。
それに一番驚いたのは摩耶ちゃんだ。彼女の目が見開かれ、コップを持つ手が震えている。雛乃ちゃんは何を言っているんだろう、信じられないという表情がにじみ出ている。
「自分がドナーになる」と告げた瞬間、私の中で何かが弾けた。英雄気取りになり、自分に酔っていたのかもしれない。愚かさとか罪とかいい子の自分とか、そういう感情を全部飛ばして私の頭の中は摩耶ちゃんを救うことでいっぱいになった。それはもう止まらない感情で、今思えばやはりどこかおかしくなっていたのかもしれない。危ない橋を渡ろうとしていることには気づいていて、胸の底から恐ろしい気持ちがこみ上げてきたけど、それでも摩耶ちゃんを救いたいという思いが私の心に小さな炎をともした。
自己犠牲という感情は、正直今もわからない。ただこの時の私だったら、たとえば摩耶ちゃんが車に轢かれそうになったら飛び込んでいくし、崖から落ちそうになったら身を乗り出して助けただろう。自分がどうなるかなんてどうでもよかった。
でもそんな私の気持ちとはうらはらに、摩耶ちゃんの心は曇ってしまった。
「雛乃ちゃん、それはだめだよ。あなたが私のために大切な腎臓を失くすなんてありえない。そんなことするくらいなら、私は……死を選ぶよ」
摩耶ちゃんは本気でそう思っているようだった。でも私は彼女の心の奥底にある利己心を見て取った。私がこの話をしてから、摩耶ちゃんの心は、言葉とは裏腹に期待に胸がふくらんでいるのだ。それは生きたいと願う心の声。だから私はそこを利用しない手はなかった。私は彼女に生きる素晴らしさ、これからの生活の夢や希望を煽情的に話した。摩耶ちゃんはためらいながらも、生きることへの思いが段々と強くなっているようだった。美味しい果実を目の前に差し出され、手に入れたいと思わないはずはなかった。
「やれやれ、まるでペテン師だな。雛乃、お前の執念には恐れ入った。さすがの私も負けたよ。協力してやろうか」
三上先生はあごひげを抜きながらそう言った。彼の態度は本気なのかよくわからない。
「その前にな、もう一回よく考えろ。これは雛乃と摩耶の人生がかかってるんだ。だから軽々しくやるなんて言うな。悩んで悩んで答えを出せ。それでもいいと思うなら電話をかけてこい」
私たちに与えらた時間は一週間。その間に答えを出さなければならなかった。私と摩耶ちゃんは何度も話し合いを重ねた。
「私はそこまでして生きたくない」
摩耶ちゃんは大きく伸びをして、私に微笑んだ。諦めに似た表情はどこかすっきりとしていて、自分の運命を悟っているようにも見える。
「私は摩耶ちゃんに生きていてほしいの。これから楽しいことがいっぱい起こるよ。私と一緒に色んなものを見ようよ」
私は何度も彼女を抱きしめると摩耶ちゃんの不安さが痛いほど伝わってきた。
「これ、買ってきた日記帳。移植手術が終わったら、書き始めようよ。十年書けるから、私が二十歳の誕生日を迎えたら一緒に見よう」
私は日記帳を彼女に渡した。ぱっと彼女の顔が明るく花開き、光が射した。
「できれば私もそこまで生きたい……」
「そうだよ、大人になって一緒にお酒を飲もうよ」
「お酒はわからないけど、おいしいケーキ食べたい」
「そんじゃ決まりね。私の二十歳の誕生日には、ケーキとワインで乾杯する」
摩耶ちゃんは窓の外を見た。季節は冬から春へと変化している。外の世界はもう暖かい。二人で花畑の中を思う存分走りたいと私は思った。彼女の手を強く握り、私たちは誓いあった。なんとしてでも二十歳まで生き残ると。私は彼女に腎臓を捧げ、摩耶ちゃんの中で私の命の欠片は生きる。
私たちは三上先生に移植を決断したことを告げた。先生は摩耶ちゃんが入院している院長の弱みを握っているらしく、何度かの交渉の末、移植手術の際は摩耶ちゃんを三上病院に転院させることに同意した。あとこれは本当に偶然なのだけれど、私たちの住んでいる町の近くで交通事故が起こり、男性が死亡した。そしてその男性は死後臓器移植を提供することに強く前向きであり、遺族もそれに納得していた。遺体は三上医院に運び込まれた。摩耶の父親には事情をしっかりと説明し、移植に同意してもらった。
この計画では、表向きはその死亡した男性の腎臓を移植をするとしたが、実際は私の腎臓を使う。これが公になるとまずいことになるのは私にもわかった。そして私が三上医院に行って手術を受ければ、すぐ気づかれてしまう。だから私は神隠しに遭うことにした。十日間三上の家に潜伏して、移植後にひょっこりどこかに現れる計画だ。
そして計画が実行される時が来た。私は夕方過ぎに財布と最低限の物だけ持って家を出た。玄関先でお兄ちゃんに「どこへ行くんだ」と聞かれたから、私は咄嗟に「友だちのうちに行ってくるね」と嘘をついた。すると「またあの子のところ? えーと、なんとか摩耶さん」とお兄ちゃんが言う。私は思わず「石動ね」と言ってしまった。摩耶ちゃんの名前を出したことで、計画がバレることを怖れた私は、彼女と会うのではないと言った。お兄ちゃんは腑に落ちない顔をしていたけど、仕方ない。私には大事な計画が待っているのだ、ここでつまずくわけにはいかない。
できるだけ人に見つからないように深く帽子をかぶり、待ち合わせの場所まで向かった。すぐに黒塗りの車が来て、私を連れ去っていった。夕暮れの闇にまぎれて三上病院に入ると、摩耶ちゃんももうそこに来ていて、何だか懐かしい人に会ったみたいな気分で抱き合った。三上病院に患者さんはいないようだった。摩耶ちゃんは病室に隔離され、私は手術まで自由にさせてもらえた。看護師の桃子さんは二十代の女性で、先生の身の回りの世話をしているらしい。見た目は派手な雰囲気だが、意外と規則に厳しく私の子どもらしい言動や行動をひとつひとつ注意していった。
私は先生や桃子さんからさまざまなことを仰せつかった。掃除や料理の手伝いなど、普段私がやったことのない家事をやらされた。
「雛乃、お前は家で家事をしたことがないのか。雑巾絞ってみろ」
先生がそう言うから私はそれくらいできると思って、ぎゅうと雑巾を絞った。すると先生が、
「普通は縦絞りにするだろう。習わなかったのか」
と言う。縦絞りって何? そんなの聞いたことない。私は腹が立って先生に嫌な顔を向けた。すると先生はそんな私を怒りもせず、
「ほら、こうやってやるんだ。右手を上に、左手を下にな。右手はこう回り込むように逆手にする。しっかり脇をしめて押すような感じでやってみろ」
優しく雑巾の絞り方を教えてくれた。私は今まで家で家事などしたことがなかった。両親がやってくれたし、私はゲームしたりしていればよかったのだ。でも先生はなぜか私に家事をさせたがった。労働力がほしかったのだろうか。最初は小間使いさせられていることが嫌だったけど、だんだん自分を認めて使ってくれていることに嬉しさを覚えるようになった。
「おいしいレモネードの作り方を教えてやる」
先生は、秘伝のレシピを私に教えてくれた。自分で作るレモネードはとても甘くておいしかった。自分で作ったものを味わうことがこんなに幸せな気持ちになるなんて思いもしなかった。私はそのとき、初めての世界が広がったような気がした。レモネードはそれから何回か先生に作ってあげた。なかなか合格点は出してもらえなかったけど、ときどき「おいしい」と言ってくれて、それだけで私は先生に感謝したい気分になった。
当たり前だけど、私は今までずっと子ども扱いされてきた。両親からも、お兄ちゃんからも。そしてそれが私には居心地良かった。でも先生の仕事を手伝っているうちに、私にもほんのわずかに自立心が生まれてきた。その心の萌芽が私にははっきりとわかった。たった十日しか三上病院にはいなかったけど、私のその後に大きな痕跡を残したといっていいと思う。
そして数日後移植の日がやってきた。手術の前に摩耶ちゃんに会うことはできなかったけど、麻酔をされ眠りにつくまで、私は移植が終わった後の幸せな日々を思った。
目が覚めて最初に耳に入ってきたのは、強い雨の音だった。窓を打ちつける音、軒から雨粒が零れ落ちる音、雨が草木を揺らす音、そんないろいろな音が私にははっきり聴こえた気がする。感覚が研ぎ澄まされていたのだろうか、麻酔が切れた私は脳がやたらと活発に動いていて、何かしていないと気が済まないほど冴えていた。私は新しい日々の目覚めに立っていたのだ。
しかし体が思うように動かずもどかしかった。ベッドの上で蛍光灯の眩しい光に顔を抑えながら、摩耶ちゃんのことを思った。移植はうまくいったのだろうか。早く会いに行きたい。その日出されたスープはやけに塩味が強くて、なかなか飲み干せなかった。ご飯の味も覚えていない。摩耶ちゃん、摩耶ちゃん、元気でいて。私はそればかりだ。
目覚めてからの数日間、ずっと雨が降っていて憂鬱な気分で過ごした。先生に摩耶ちゃんは元気かと聞くと、移植はうまくいったと下手な笑顔で私に言う。私の命が彼女を救ったのだ。それだけが私の希望になった。
雛乃はそこまで話すと、ようやく僕のほうを見た。どこかすっきりしたような、何かを観念したような、そんな表情をしていた。
「これが真相。摩耶ちゃんは悪くないし、唆したのも計画したのも全て私」
すっかり暗くなった海に手を伸ばし、雛乃は水を掬った。指先からこぼれ落ちるしずくが砂に溶けていく。強い風に煽られ雛乃の髪が乱れる。僕に顔を向けた彼女の顔はいつもの雛乃のようでもあり、全然違う他人のようでもあった。
「お兄ちゃんが摩耶ちゃんを憎んでいる理由てさ、結局何だったのかな。たぶん腎臓移植の件と失踪事件の件、それと失踪後私が精神的に大変だったこと全てに摩耶ちゃんが関わってると思ったからなんじゃないかな。私はこの事件のあとで確かに変わったかもしれない。生きることに前向きっていうか、自分に恥ずかしい生き方をしないようにって思うようになったんだ。でもお兄ちゃんはそれが悲しかったんだよね。子犬がいきなり成犬に変わってしまうようなもんだから。それでお兄ちゃんは摩耶ちゃんを憎むようになった。あ、憎んでないって思ってるかもしれないけど潜在意識でそう思ってるんだよ、きっと。お兄ちゃんのアラヤシキさんが『摩耶が憎い』って叫んでるんだ。それが今回出てきたんだよ」
何も返す言葉がない。
「でもさ、昔の私は本当にいなくなっちゃった? きれいさっぱり消えちゃった?」
「いや、雛乃は雛乃のままだよ。消えてなんかいない。僕はただ幼い頃の幻影を見たいだけだったんだ。ずっと昔の雛乃でいてほしかった。だけどそれは雛乃を過去に縛り付けるだけでしかない。ごめんな、雛乃」
僕がそう言うと、雛乃は両手で強く僕の右腕をがっしりと掴んだ。怒っているのかと思って恐る恐る雛乃の表情を見てみる。その顔は彼女が甘えた時に見せる膨れっ面をしていた。
「そうだよ。お兄ちゃんだって変化していってるくせに、私だけ昔のままでいろなんてひどいよ。雛乃成長記をちゃんと見守ってね」
顔だけぷいと横を向いて雛乃がそう言った。たぶん照れているのだろう。雛乃は恥ずかしがるとこうやって顔を背けるのだ。
向き直った雛乃はもう笑顔になっている。僕は雛乃の両手を強く握りかえした。雛乃が痛いと言っても構うもんか、これが妹への愛情表現だ。
「雛乃の成長記、これからも見守らせてもらうよ。一緒に変わっていこうな」
「うん。お兄ちゃんも大人になりなよー。私は兄の行く末が心配で心配で……」
僕たちは海岸を歩きながら二人で笑いあう。心の中の澱が少しずつ解けてゆく。今回の失踪事件は僕にとって辛い出来事だったけど、今きっといつか笑って思い出せる日が来る。その時には僕たちは今よりもっと成長しているに違いない。
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