第30話 雛乃と摩耶の過去①

 私と摩耶ちゃんが出会ったのは、あの公園。私がまだ五歳だったころ。お兄ちゃんと聖良ちゃんと三人で楽しく遊んでいたけど、ある日近くの病院の窓から私たちをじっと見ている視線に気づいた。それが摩耶ちゃんだった。

 私はその女の子が気になって、病院に行ってみた。病院なんて行ったことなかったから(もちろんあるはずだけど、私の記憶の範囲内ではなかった)、すごく緊張したのを覚えてる。白色の壁や、妙に薄暗い緑色の椅子、それと独特の匂い。私は病院がすごく異質で怖いところだと思った。ここに来たことを後悔して、すぐ帰ろうと思ったの。

 でもその時、通路の向こうから歩いてくる女の子が見えた。パジャマを着てうつろな目でゆっくりとその子は近づいてきた。

「こんにちは」

 彼女に挨拶すると、その子は目を大きく開けて驚いたような顔をした。知らない人に声をかけられることなんてなかったのかもしれない。彼女はためらいがちに、

「こん……にちは」

 と挨拶を返してきた。まだ五歳だった私は、彼女が病気だということも、この病院からなかなか出られないということもわからなかった。ただお兄ちゃんや聖良さんとは違う友だちができたと思って、嬉しかっただけだった。

 私たちは時間の許す限りおしゃべりをした。彼女は石動摩耶と言い、私より一歳年上で、今は事情があってこの病院にいるとのことだった。

「摩耶ちゃん、こんな大きな病院に住めるなんてすごいね。もしかしてセレブ?」

「違うよぉ」

 私の無邪気な言葉に、摩耶ちゃんはいつもクスクスと小さく笑った。あまり大きく笑うと体に良くないらしい。私は定期的に摩耶ちゃんに会い、親しくなっていった。彼女は私が話す外の世界に興味津々な様子で、私が話すたびキラキラした憧れの目を私に向けるから、私もいい気になっていろいろなことを話した。幼稚園のことや住んでいる街の様子、それとお兄ちゃんのこと。

「私はきょうだいがいないから羨ましいなぁ。雛乃ちゃんのお兄ちゃんに会ってみたい」

 その希望を叶えてあげたくて、私はお兄ちゃんに病院に来てくれるよう説得した。でもなかなかお兄ちゃんはうんと言わない。摩耶ちゃんをがっかりさせたくないのと、彼女に嫌われたくなかったから、私は無理やりお兄ちゃんを連れて行くことにした。

 行くとなったらお兄ちゃんは覚悟を決めたようで、いつもよりおめかしをしていた。

「花を摘んで行こう」

 ちょうど桜の季節だった。私とお兄ちゃんは桜の花びらをかき集め、スーパーの袋に入れて病院に持って行った。摩耶ちゃんは初めて会うお兄ちゃんに緊張していたみたいだけど、さすがにお兄ちゃんは優しくて二人はすぐに打ち解けた。そして私たちのサプライズ。

「摩耶ちゃん、三、二、一で目を開けてね」

 瞳を閉じ、三秒数える。そして目を開けた瞬間に、私たちは袋いっぱいの桜の花びらを摩耶ちゃんに振りかけた。

「わあ……!」

 摩耶ちゃんは驚いたように、けれど嬉しそうに笑顔を浮かべ、ひらひらと舞う桜の花びらを見上げた。彼女の細い肩や髪に花びらが降り積もっていく様子は、まるで桜の精のようで、私もお兄ちゃんも思わず見惚れてしまった。

 でもその後すぐ看護師さんが部屋に入って来て、

「あなたたち、何やってるの」

 と怒られてしまった。私たちはしょんぼりして家に帰り、それからお兄ちゃんは摩耶ちゃんに会いに行かなくなってしまった。どうして会いに行かないのかお兄ちゃんに聞いても答えてくれなかった。もしかすると精一杯のサプライズが他人に迷惑をかけたことで、傷ついたのかもしれない。

 それからも私は摩耶ちゃんに会いに行った。ある日病室に行くと、摩耶ちゃんの姿がない。看護師さんに聞いてみると、「今日は具合が悪いから誰とも話せないの」と言った。

しばらくするとまたいつもの病室に戻ってきたけど、顔がやつれてしまい元気もなく、子どもごころに彼女の病気の重さがわかった気がした。「もしかすると、その子は長く生きられないのかもしれないな」と私の両親が話しているのを聞いたことがある。どうしてそんなこと言うの、と私は両親に怒りたかった。でも、心の中で私もそう思っていたのだから、同罪だ。それでも私と会うと摩耶ちゃんは精一杯喜んでくれて、そんな彼女を見ると私も弱気になっていられないと思うようになった。

 摩耶ちゃんは入退院を繰り返した。退院した時はよくふたりで遊んだものだ。遊んだといっても、小さなお店に行ってお菓子を買ったり、摩耶ちゃんの家でお話をしたりしたぐらいだ。彼女は学校に行けていなかったけど勉強はよくできたから、私はときどき教えてもらっていた。そういう時だけ彼女はお姉さんのように振舞った。少し性格がひねくれていたけれど、病院にいた時間が長く、友だちもいなかったから仕方ないと思って私は大目に見てあげた。完璧な人間などいないのだから。摩耶ちゃんはそういった自分の性格の悪いところをよくわかっていて、そういった面が出てしまった時は素直に謝ってきた。私は彼女の性格をかわいいと思ったし、いとおしいとも思った。


 私と彼女が出会ってから数年が経った。私は十歳、摩耶ちゃんは十一歳。私たちの間にはかけがえのない絆が生まれていた。

「腎臓移植ってできないの?」

「家族間では生体腎移植ができるんだけど、お母さんは死んじゃったし、お父さんも慢性腎臓病を抱えてるの。だから残る道は誰か亡くなった人から腎臓をもらうことだけ。でももう数年も待っているけど、なかなか順番は回ってこないの。話によると十年ぐらい待たないといけないらしいわ。待ってる間に私の人生はどんどん過ぎて行ってしまう」

 そう言うと摩耶ちゃんは布団をかぶってしまった。私はどうにかして助けになりたかった。でも、できることは何もない。ただ早く彼女にドナーが見つかればいいと思った。

「どうせ長く生きられないのに、どうして体は大きくなるのかな。そんなの無駄じゃない。私の思い通りにはさせないって神様に言われているような気がして辛い」

 摩耶ちゃんはときどきそんなことを言った。私にはかけてあげる言葉が少ない。運命は残酷だ。もしここで彼女が死んだら、私は思いっきり泣くだろう。人生の大事なものを喪ったと思うだろう。でも死ぬのは私ではない。たぶん私はおいしいものを食べたり、いろいろな経験を積むうちに彼女のことをうっすらと忘れていくのだ。思い出だけで生きていくには、私はまだ若かった。きっと苦い記憶は時とともに消えていく。少しの傷を私に残して。

「摩耶ちゃん、二人で日記を書かない?」

 ある日私はそう提案した。彼女はきょとんとした顔で私の話を聞いている。

「交換日記ってこと?」

 私は日記のアイディアを摩耶ちゃんに披露する。

「私と摩耶ちゃん一冊ずつ、同じ日記帳を買います。それぞれの日常を自由に書きながら、相手も同じページを書いていると想像するの。私たちはたとえ会えない時も、苦しいときも、同じ時間を生きているって思えるから。それでいつか将来二十歳になったときに、二人の日記を合わせるの。友情の証としてね」

 摩耶ちゃんは嬉しさのあまり泣き出してしまった。私も連られてもらい泣き。摩耶ちゃんは友情という言葉に強く惹かれたようだった。私も勿論友情として日記を書こうと思った。でもそれだけではなく、もし彼女が死んでしまったら、共に過ごした時間を私が記憶するためにこの日記を書こうと思ったのだ。

 私はこの計画をすぐに実行に移した。どうせ買うなら、高級な日記帳がいい。そして何年も使えるやつ。早速本屋に行き、日記帳コーナーを探すと十年使える日記帳を発見した。私はお父さんにお金を出してもらい、摩耶ちゃんの分の日記帳も購入した。

 喜び勇んで書店を飛び出したその時、外を歩いていた人とぶつかってしまった。その男性は髪がぼさぼさで清潔感がなく、明らかに仕事をしていない感じだった。たぶんニートというやつだろう。私は軽く「ごめんなさい」と言って、その場を立ち去ろうとした。しかし男性のかばんから本や書類などが落ちてしまい、私は拾う羽目になってしまった。

「すみません、拾います」

 私は道端に散乱した書類を集めて彼に返そうとした。しかしその時、私は書類に書いてある「腎臓移植」の文字を見てしまったのだ。私が拾った本の中に、医学関係の本があることも知ってしまった。ここがひとつの運命の別れ道だったかもしれない。そのまま礼をして帰ればよかったものを私は訊いてしまったのだった。「あなたはお医者さんなのですか」と。

 彼の目がぎらりと光った。獲物を見つけた肉食獣のような鋭い視線を向けられた私は、一瞬で射すくめられてしまった。

「ああ、一応な。悪い医者ともっぱらの評判だが。君は私を必要としているのかね」

 そう言って彼はたばこを一本吸った。私は久しぶりに嗅ぐたばこの匂いにむせてしまったが、意を決して彼にこう言った。

「私の友だちの女の子が、重い腎臓病を患っています。ドナーを待っている状態ですが、いつになるかわかりません」

「なるほどな。君はその女の子のために何かしてあげたいんだな。素晴らしいことじゃないか」

 彼はそう言って私の頭を撫でた。そして私が「摩耶ちゃんを助けてほしい」と言おうとすると、

「まさか私に手術をしろっていうんじゃないんだろうな。突然会った見も知らぬ男に? 愚かなことだ。君は道を歩いている人が『あなたを助けてあげます』と言ったらほいほいついていくのか? まるで目が見えていないな。何かをしようとするならまず大きく目を見開くことだ」

 そう言ってもう一度憮然として下を向いている私の頭をぐりぐりと撫でた。

「やれやれ。それじゃ、私の名刺を差し上げよう。困ったことがあったらここに連絡するんだな」

 私は彼から名刺を受け取った。そこには「医師 三上健吾」と書かれていた。本当に医者なんだと今更ながら驚く。

「じゃあな」と言って三上医師は去っていった。私はもしかすると彼が摩耶ちゃんを救ってくれるかもしれないと、これが運命の出会いであるように祈った。

 私は「三上健吾」なる医者が何者なのかを調べ始めた。インターネットの評判は散々だ。「法外な値段を取る悪徳医師」とか「人間を実験台にする男」とか、枚挙にいとまがない。あまりにも悪い評判ばかりだから、私ももうネットを見るのが嫌になってしまった。こんな人に頼んでも摩耶ちゃんが不幸になるだけだ。がっかりしてパソコンを閉じようとしたとき、「腎臓手術の名医」という書き込みを見つけた。

「三上医師の真実」と題された書き込みは、彼の功績が密かに書かれていて、それと同時に巷で言われている噂がいかにでたらめであるかも根拠をもって記述されていた。彼は医学界の天才であるが、その偏屈さから仲間たちに嫌われ医学界の表舞台を歩けなくなってしまったとも書かれていた。確かに三上医師は髪も服装もだらしなく、まっとうな大人には見えなかった。だけど彼と話した感じはそれほど悪い印象はなくて、どちらかというと優しいおじさんという感じだった。私の勝手な勘だけど、決して悪い人には見えなかった。

 私が摩耶ちゃんに三上医師の話をしてみたら、彼女は強い興味を示した。無理もない、病気を治してくれる人が現れたらそれは王子様いや神様みたいなものだ。摩耶ちゃんが乗り気になってくれたことで、私はがぜんやる気になった。二人の日記のことはしばらくおあずけだ。三上医師に電話をかけ、話がしたいと私が言うと、彼は「わかった」とだけ言言った。そして日にちと場所だけ指定して電話は切れた。

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