第29話 雛乃

 ようやく公園に辿り着いたとき、もう陽はだいぶ陰っていた。いつ来ても寂しい場所だ。

ブランコが風に煽られギコギコと揺れている。ここは僕と雛乃の思い出が詰まった場所だったけど、公園には人っ子ひとりいない。

 僕は雛乃の名前を呼んだ。何度も何度も、名前を呼んだ。もしかするとどこかに隠れていて「お兄ちゃん、遅いよ」と笑いながら出てくるかと思ったのだ。そうしたら一緒に豚まんを買って帰ろう。僕はひとりその場に立ち尽くしながら、絶望に抗おうと必死に雛乃を探した。

 必ずここに雛乃はいると思っていた。でも事実は残酷だ。間違えたのか――。もう、雛乃は見つからない。全ての手がかりはここで途絶えた。僕の背中に無慈悲な風が吹きつける。

 ああ、ついに僕は妹を見つけられなかった。雛乃の日記をぎゅっと抱きしめ、僕は夢遊病者のように覚束ない足取りで公園を後にした。

 その時だった。突然赤いスポーツカーが強い金属音を上げながら、僕の横に急ブレーキで止まったのだ。

 車の中から現れたのは真紅のコートを着た化粧の濃い女性。彼女は「こんにちは」と会釈し「車に乗って」と僕に言った。

 知らない女性にいきなり車に乗れと言われて乗るほどバカじゃない。警戒の色を強め彼女が誰なのか見定める。そんな僕に女性は頬を緩ませ、

「私は星空桃子。もちろん本名よ。あなた、雛乃ちゃんのお兄さんでしょ。あなたを迎えに来たの。さ、乗って」

 僕を助手席に乗るように促した。

「雛乃の居場所を知ってるんですか」

 桃子は頷く。信じていいのか僕にはわからない。でもどんなに不確かな手がかりでも縋らなければならなかった。蜘蛛の糸を垂らす彼女の誘いを断ることなど僕にはできない。「わかりました」と助手席に乗ろうとした時背後から、

「浩介君、乗っちゃだめだよ。それはきっと罠だよ」

 聖良が胸に手を当て懇願するような表情でそう言った。僕は驚いて彼女にかける言葉がない。どうして聖良がこんなところに? 

「雛乃ちゃんも浩介君も騙されちゃだめ。ね、私と一緒に帰ろう。それがいちばんだよ」

 聖良の言葉に桃子が反論する。

「お嬢さん、あなたが誰だか知らないけど、彼をあんまり惑わさないでね。ほら、困ってるじゃない。ねえ藤原君、私を信じるか彼女の言葉を聞いておとなしく帰るか二つにひとつ。どうする?」

 聖良のことを信じたい。でも雛乃はたったひとりの大切な妹。ここで引き下がったら兄失格だ。だから、

「聖良ごめん。この人と一緒に行くよ」

 聖良の目をしっかりと見て僕はそう言った。彼女は落胆して肩を落としたが、でも表情は崩さず笑顔のまま、

「わかった。浩介君の意思を尊重するよ。でも後悔しないでね」

 と言った。

「じゃ、行くよ」 

 聖良を残して雛乃のもとへと車を走らせた。遠ざかる聖良の表情は窺い知れない。僕は周りの女性たちを誰一人として幸せにできていない。そう考えると何だか悲しくなる。

 車の中ではけたたましいロック音楽がかかっていた。彼女の運転は下手で荒い。僕は借りてきた猫のように静かに助手席に座っている。

「ガム食べる?」

 星空桃子がくれたガムを音を立てずに噛んだ。それはコーヒー味のガムで少し苦くて甘かった。くちゃくちゃとガムを噛んでいると、少しだけ気がまぎれた。そしてガムを噛んでいる間は余計なことを話さなくてよかった。それが僕の救いになった。

 車は高速道をひた走る。どこへ連れていかれるのかわからないまま、きつく締められたシートベルトに身を任せ、騒々しい音楽に安らぎを感じた。

「あんまり喋らないんだね。結構お喋りって聞いてたんだけど」

 桃子は二個目のガムを口に放り込んでそう言った。彼女は雛乃をよく知っているようだ。なぜ知っているのかと聞くと、

「それなりに長いつきあいだからねえ。君の話もよくしているよ」

「どんな話ですか」

「それはもう、あんなことやこんなこと。お兄ちゃんの話をしている時の雛乃はいつも楽しそうだからね」

 横から割り込んでくる車にクラクションを鳴らし、桃子はスピードを上げた。

「今からどこへ行くんですか。ていうかあなたは一体……」

「今から行くのは三上先生のおうち。私は先生のところで働いている看護師。雛乃はそこにいるから。君が必ず現れるって雛乃が言うからさ、昼頃からずっと待ってたんだ。でもなかなか来ないし、不審者通報されるしさんざんだよ。でもまあ来てくれてよかった」

 桃子は左手で僕の背中を強く叩き、大きな声で笑った。三上というのは例の医者のことだ。その名前を聞いた瞬間、体全体に緊張が走った。これから会うのは雛乃だけじゃない、あのレモネードの医師とも対面しなければならない。もしかすると彼と対決するかもしれない。

 そんな僕の様子を察したのか桃子が、

「なあに、心配いらないよ。三上先生は優しいからね。君を取って食おうなんて思ってないから」

 と言った。

「雛乃はなんで家出なんてしたんでしょう」

「家出? ああ、そうだね。でもそれは本人から直接聞いた方がいいかもしれないね。案外大した理由じゃないかもよ。だいたいさ、それほど物事は深刻じゃないんだ。そうさせてるのは自分の心だよ」

 車は高速道を降り、田舎道を走っていった。窓の外には暮れかかった空が広がり、太陽の残したオレンジ色の光がアスファルトを染めていた。桃子は雛乃や三上医師の話をせず、

他愛のないお喋りを続けている。彼女のくだらない話と雑な運転が僕に落ち込む暇を与えなかったのは多少幸いだったかもしれない。三上邸に着くころには僕の気持ちもある程度弛緩していたのだ。でも、彼の家が見えたときには緩んだ気持ちが再びきつく締めあがった。

「あそこだよ」

 それは真新しいコンクリート二階建ての建物だった。まだ植えたばかりの樹木が何本か等間隔に並んでいて、門には「児童養護施設 めぶきの家」と書かれていた。ここが三上医師の家なのだろうか。病院ではなくなぜ児童養護施設なのか。

 車を降りると磯の香りがした。海岸がすぐそばにあるようだ。桃子に促されて門をくぐる。桃子がインターホンを押し、中の誰かが家のロックを解除した。

「ただいま帰りました」

 ドアを開け桃子がそう言うと、

「桃子ちゃんが帰ってきた!」

 と子どもの声がした。僕が面食らっていると、突然の闖入者の出現に建物の中は子どもたちの騒ぐ声でいっぱいになった。

「知らない人がいるー」

「だれ? だれ?」

 僕が数人の子どもに囲まれ困っていると、

「おいおい、どうしたー」

 部屋の中からエプロン姿の男が現れた。それはあの病院で見たレモネード好きの医師三上だった。彼は僕を見つけると近寄って来て、「よく来た」と笑顔で迎え入れた。

 その時、奥の方から僕のほうに歩いてくる人影が見えた。ぼくははっとした。見慣れた服装、見慣れた歩き方。間違えるはずがない。それは雛乃だった。

「やっと来たね、待ってたよ」

 雛乃がそう言うか言わないかのうちに自然に体が動き、雛乃を強く抱きしめていた。その温もりが愛おしかった。

「痛いよお兄ちゃん」

 雛乃の目は赤く、涙を堪えているようだった。彼女は笑顔を浮かべていたが、僕の腕の中で静かに震えていた。周りの子どもたちがきゃあきゃあと騒ぐけれど、何と言っているのか僕にはわからない。僕にはただ雛乃のことしか目に入っていなかった。

「無事でよかった。心配したんだぞ……」

「ごめんね。本当に来てくれると思わなかったよ」

 雛乃の温かい指が僕の頬に触れる。

「昨日からずっと探してたんだ。海にも行ったし、お寺にも行ったし。それで……」

「ありがとう、お兄ちゃん。とりあえず中に入ろう」

 暖炉のある大きな部屋に通され、僕たちはレモンティーを振舞われた。彼はレモン系の飲料が好きなんだなと甘い匂いにむせびながらそう思った。

「君にはどこかで会ったな。そうだ、山下病院の待合室だ。まさか雛乃の兄貴だとは知らなかったよ、ははは」

 この人が本当は善人なのか、それとも悪人なのかわからなかった。そして確かめるすべもない。でも表面上は、何だか悪い人ではなさそうだ。

「三上先生は児童養護施設の園長先生になったんだよ」

 雛乃がそう言うと、三上はたばこを吸いながら照れくさそうに、

「まあな。私も散々悪行に手を染めてきたからな。せめてもの罪滅ぼしさ」

 と言った。

「先生あそぼー」

 子どもたちが三上に纏わりついている。ずいぶんと子どもたちに好かれているようだ。そして彼自身も、まんざらでもない感じだ。

「病院をやめてここを作ったんだ。数年前から計画して去年ようやく完成した。医者をやめたわけではないんだが、これは私の昔からの夢だったんでね」

 三上医師はどことなく誇らしそうに、壁に触れながら言った。子どもたちに連れられて三上は隣の部屋に行ってしまった。あかあかと燃える暖炉の前で僕は雛乃とふたりっきりになる。でも何だか話しづらい雰囲気だ。ここにいる雛乃はいつもと雰囲気がどことなく違う。

「ちょっと外に出ようよ、お兄ちゃん」

 雛乃が三上医師に外に出ると言うと、「夕食までには帰ってくるんだぞ。七時な」

と隣の部屋から声がした。

 

 僕たちは海岸を歩き始めた。秋から冬へと変わろうとする空気が、僕たちの間を容赦なく通り過ぎていく。

「どうして三上先生に会いに行ったんだ?」

 僕の問いかけに雛乃は天を仰ぎながら、

「先生に会うつもりはなかったんだ。自分が好きな場所を見て回って、それで生まれ変わった気分になろうと、それだけを思ってた。でも海を見ているときに、桃子さんから連絡があって、重要な話があるっていうからここまで来ちゃった」

「でも連絡ぐらいしてくれてもよかったのに」

「連絡しようと思ったんだけど、スマホがちょうど壊れちゃったの。うんともすんとも言わなくてさ、タイミング逃しちゃった」

 そう言って僕に深く頭を下げた。

「雛乃にとって、三上先生って何なんだ?」

「私の人生を導いてくれる大切な恩人、かな。子どもだった私を変えてくれた人」

「腎臓移植に関わってるのか」

 その言葉に雛乃は観念したような顔を向けた。規則的なさざ波の音が、僕たちの足取りに重なる。海岸線は果てしなく長くて、どこまでも進んでいけそうだ。その先は闇でしかないけれど。

 僕は摩耶から聞いた話を雛乃にした。摩耶が雛乃を騙して勝手な腎移植を行ったこと、摩耶は僕たちを利用しただけだったこと……。

 しかし雛乃は僕の話に反論した。

「それは違う。摩耶ちゃんまた嘘言ったんだね」

「何が嘘なんだ?」

「摩耶ちゃんは私を騙したって言ったんだよね。それは間違い。私の腎臓を彼女にあげるって言ったのは私だから。私が摩耶ちゃんを助けたくて、無理を承知で腎臓移植を決行しようとしたの」

 雛乃から腎臓移植を提案した? 僕にはわけがわからなかった。そんな僕を見て雛乃は「私の話、聞いてくれる? 長くなるけど」

 と言った。僕が覚悟を決めて頷くと、雛乃は海に向かって話し始めた。

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