第26話 殺したいほど憎んでいるいするぎさん
摩耶の家に着いた時には、もう十一時になっていた。
「雨、大丈夫だった? びしょ濡れじゃない」
摩耶はタオルを差し出しながら心配そうに言った。
「うん、大丈夫。でも結構濡れちゃったかも」
彼女の家に入ると、温かい空気が僕を包み込んでホッとした。これで彼女の家に泊まるのは二度目だ。父親はまた学会とかでいなかった。こんなに不在がちで、子どもの教育は大丈夫なのだろうかと心配になる。摩耶が作ってくれたホットミルクを飲むと、冷えきった体に温かい熱が回ってきた。
コンビニで買ってきたおにぎりやパン、ヨーグルトやスイーツなどをテーブルの上に広げた。すると摩耶のお腹が鳴るのが聞こえ、恥ずかしそうに彼女は腹に手を当てた。
好きなだけ食べていいと言うと、摩耶はツナおにぎりをひとつ掴んで美味しそうに一気に食べた。彼女には遠慮という文字がないようだった。僕はコロッケパンを口に入れる。
「雛乃は友達のロボットコンテストを見に行くと言って、家を出たはずなんだけど、コンテストには行かなかったらしい」
「私のところに来たのはお昼前だった。玄関のドアを開けたら雛乃ちゃんがいたからびっくりしたの。彼女が来ることなんて久しぶりだったから」
その時の雛乃の様子を尋ねる。すると雛乃はいつもと同じか、それ以上に元気だったと言った。家を出たときと同じだ。そんな元気な雛乃が自分から失踪するだろうか。
「思い出したように日記帳を鞄から取り出して、摩耶ちゃん、これを預かっておいてくれる? と言ったの。なぜ今持ってきたのか私はわからなくて困惑してたら、これは大事なものだから、摩耶ちゃんに託したい、といつになく真剣な顔で言ったの。だから私は拒否できなくて……」
摩耶の言うことに偽りはないようだった。
「雛乃がいなくなった理由に心当たりはない?」
摩耶はふっと視線を逸らし頭を抱えながら、ひとりでぶつぶつと何かを話している。何かを言いたくて、でもどうしようか悩んでいるように見えた。僕は摩耶のどんな言葉も受け止めるつもりだった。そのことを摩耶に言うと安心したような顔になり、僕を見てこう言った。
「藤原君はいい人だね。こんな私の言葉に耳を傾けてくれる。私、君と出会ってから毎日が楽しかったんだよ。遊園地で観覧車に乗ったり、公園で遊んだり。本当に楽しかった。そして幸せだった。私のこれまでの人生は決して幸福とはいえないものだったけど、君のおかげで生きてもいいって思えることが増えたんだよ。でも、だからこそ私は何としてでも君との関係を守りたかった」
摩耶は悲しみに微笑みながら、淡々と話しを続けた。僕はほぼ無言のまま彼女の話を聞き続ける。
「君が私を憎んでいる理由、教えてあげようか」
摩耶の顔は決意に満ちていて、どうしても今日ここで言わなければならないと思っているようだった。
「それって、本当の理由?」
「そう。私と、雛乃ちゃんだけが知っている、本当の理由。聞いたら藤原君は私のことをどう思うかな」
摩耶は膝を組み、ソファーに体を凭れさせ挑発するような声で不敵に笑った。その悪魔的な笑みは何を意味しているのだろう。さっきまでの殊勝な摩耶はもういなかった。
「藤原君がいするぎさんを憎んでいる理由。それは、私が雛乃ちゃんの腎臓を奪ったからでした。ちゃんちゃん」
摩耶はおどけた調子でそう言った。わけがわからず、詳しく説明してくれるように促す。腎臓を奪ったとはどういうことなのだ。
「そのままの意味だよ。お父さんから聞いたかもしれないけど、私はずっと腎臓病で、長生きするには腎移植が必要だった。でも移植には数年、いや十年以上かかる人も多い。私の病気はかなり末期的だったんだけど、移植の順番が回ってこなかった。そんな時、病院の窓から公園で遊んでいる藤原君たちの姿が見えたの。私と同い年ぐらいの子たちが楽しそうに遊んでいる。羨ましかったなあ、それと同時に絶望した。私は絶対そこには行けないんだと。ある時、いつものように窓から君たちを見ていたら、女の子が私を見つけて手を振ったの。それが雛乃ちゃん。しばらくして彼女は私の病室に遊びに来た。そして友だちになったの」
摩耶は僕の困惑した顔を見ると嬉しそうに微笑んで、
「どうしたの藤原君、こんなところで動揺してちゃだめ。話はまだ続くんだから」
と僕の頬を両手で撫でた。蛇に睨まれた蛙のように、僕の心は竦んでしまっていた。摩耶から語り出される真実に耐えられるだろうか。
「私は雛乃ちゃんを見たとき、この人だ、と思った。この子の腎臓をもらえばいい。腎臓はふたつあるんだから、ひとつぐらいもらってもいいと思った。私は雛乃ちゃんを完全に信用させることに成功した。数年かけて私は雛乃ちゃんとの堅固な絆を作ったの。もちろん彼女のためではなく、自分のためにね。彼女は、私のために腎臓をあげてもいいと言ったの。それほど私たちの友情は深くなっていた。私の打算とも知らずにね。私は自分の計画がうまくいき、運命に打ち勝てたとを神に感謝した。でもその時は知らなかったけど、未成年は腎臓提供者になれないの」
そこまで話して摩耶は一呼吸置いた。彼女の話は本当なのだろうか、もしそうだとしたら、確かに彼女を憎む理由になるかもしれない。
「これではこのままドナーを待ちながら死んでいくことになる。信じられなかった。自分の運命を呪った。しばらく何も考えず、病室のベッドに横たわってこれからの人生を考えた。何もかも行き止まりで、楽しいことなんてない。雛乃ちゃんはそんな私を励ましてくれた。ただ利用するためだけの友だちなのにね。でも、私は思いついてしまった」
摩耶は膝を抱えながら、僕のほうをちらっと見て悲しそうに笑った。そんな彼女に深い闇を感じ、背筋が凍る思いだった。
「ある時、有名な医者の話を耳にしたの。能力はとても高いんだけど、数々の疑惑が持たれている医者。法外な値段を取っているとか、違法な治療をしているとか言われていて、まともな人は近づかない。でも藁にもすがる思いで彼に泣きつく人は結構いると聞いた」
漫画のような話で、にわかには信じられない。摩耶の話は続く。
「私は彼に密かにコンタクトを取り、腎臓移植ができないかと聞いた。すると彼は可能だと言ったの。私に光が射した瞬間だった。問題はどうやって雛乃ちゃんの腎臓を移植するかだった」
顔を上げて僕を真正面から見据えた摩耶の表情は不思議なほど美しかった。その美しさがどんな感情から来るのか、僕にはわからない。
「なぜ君は雛乃の腎臓にこだわったの」
「そんなの簡単な理由よ。彼女が元気いっぱいで幸せそうだったから憎かったの。私はこんなに苦しんで、ひとりで外にも行けないのに、彼女は何の苦しみもなく生きている。この人生の理不尽さって何? どうして私だけ辛い思いをしないといけないの? 私は雛乃ちゃんに腎臓が一つない人生を送らせてあげたかったのよ」
摩耶は嬉しそうに笑った。彼女の悪魔的な笑みに戦慄し、また摩耶を憎悪した。こんな人間だったなんて、信じたくなかった。でも事実は僕の思惑をはるかに凌駕し、襲ってきた。
「私は計画した。雛乃ちゃんを誘拐して、無理やり彼女の腎臓を私に移植することにしたの。ある日雛乃ちゃんを電話で呼び出して、そのまま例の医者の車に乗せた。彼の病院は町はずれの一軒家で人目につかない場所にあったから、誰にも見つからずに運び込めた。そして彼女を眠らせたまま、私に腎臓が移植されたの。もちろん彼女には秘密でね。まさかこの計画がうまくいくとは思わなかった。彼に払うお金は今私がアルバイトをしながら返しているわ。どう、これが真相」
聞くのもおぞましかった。今僕の目の前で話している女の子が妹の雛乃にそんなことをしていたなんて。雛乃は神隠し事件以来、精神をおかしくしてしまった。あの時の家族の苦しみは筆舌に尽くしがたかった。家から明るさが消え、毎日地獄のような日々だったのだ。雛乃はきっと、摩耶に裏切られたことを知っていたのだろう。でも摩耶のことは一言も口にしたことはない。もしかすると今でも彼女を信じているのかもしれない。そう考えると雛乃がいっそう不憫で可哀想に思えてくる。
砂時計の砂が尽きるように、僕の中から摩耶に対する好意や親愛の気持ちは全て跡形もなく消えてしまっていた。かわりに、僕の前にいるのは、得体のしれないひとりの女だ。打ちひしがれている僕を摩耶は嬉しそうに見て、
「ねえ、君が私を殺したいほど憎んでいる理由、わかった? 藤原君はすごいね、無意識のことばひとつでこんなところまで辿り着いちゃった。さすが兄の愛は偉大だね」
摩耶がそう言った瞬間、僕は摩耶の肩に掴みかかっていた。震える手で彼女を強くソファーの上にねじ伏せ、その細い首に手をかけようとした。だがすんでのところで正気に戻り、自分の行動の虚しさに気づき彼女から離れた。摩耶の瞳孔は大きく開き、恐怖と悲しみと諦めの色を見せていた。できるならここで摩耶に罰を与えたいと強く思った。彼女との思い出は全て消え、こなごなになってしまった。そのこなごなになった破片を集めて、彼女の胸に突き刺したいと思った。
「ねえ、藤原君、私を殺したくなった? そうでしょう。まったく馬鹿な兄妹よねえ、二人して私に騙されるなんて。こうしてのこのこと私に家にやってくるところを見ると、君は本当に私に好意があったんだね。どうしても私から離れられなかったんでしょ、あんなにかわいい彼女がいるのに」
聖良の名前を出したことで、僕の怒りはさらに大きくなった。そんな僕を見て、摩耶の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。なぜ泣いているのだろう、僕たちを苦しめた張本人がせめてもの罪の意識から泣いたのか。そんなことで僕たちの苦しみが癒えることはないのに。
「石動さんはひどい人だ」
摩耶は溢れ出る涙をぬぐおうともせず、僕を凝視している。そんな摩耶を見て僕も悲しくなり、ぽろぽろと涙が流れた。
「そうだよ。そんなの初めからわかってることでしょう。君は潜在意識で私を憎んでいたの。いつか必ずこうなったのよ。でもありがとう。藤原君のおかげで私は楽しかった。デートもできたし、今まで味わえなかった青春を過ごせた気がしたわ」
そんな摩耶がいたたまれなくなって、彼女から目を逸らす。摩耶はソファーの上で声もなく泣いている。彼女の表情は悲し気でありながらどこか満足そうで、僕には摩耶の真意は理解できなかった。
「私のことが憎いなら、もっと素直になってもいいんだよ」
今度は摩耶が僕の体に両手を回す。彼女の柔らかくて冷たい肌が僕に触れた。僕たちは二人とも凍えてしまいそうなほど冷えていた。こうして肌を合わせると、冷たさは伝染し、人のぬくもりなど全く感じなかった。
「憎んで憎んで、とことん憎んでほしい。そして憎むことでいつまでも私を忘れないでいてほしい。死ぬまで私を殺したいと思っててね、藤原君」
僕の胸に顔を預け、これ以上ない優しい声でそう言った。彼女を引きはがすこともできず、しばらく何も言わずにそのままにしていた。やがて僕から体を離し、
「ねえ、私もう眠りたいの。いいかな。悪いけど藤原君はこのソファーで寝てね」
大きなあくびをして、立ち上がった。
「おやすみ、藤原君。日記は明日改めて読みましょう。最後にお願いがあるんだけどいいかな」
にっこりと摩耶は微笑んだが、涙の痕が彼女の顔全体に広がっている。
「私のこと、ずっと石動さんって呼んでたけど、摩耶って呼んでくれない? 一度でいいからそう呼んでほしかったんだよね。僕は摩耶を殺したいほど憎んでいるって言ってくれない? そしたら私は満足して眠れるから」
僕は彼女をじっと見つめて、
「僕は摩耶を殺したいほど憎んでいる。おやすみ、摩耶」
と言った。その言葉を聞いた摩耶は、心から満足したように微笑んで、「おやすみ」と自分の部屋に戻っていった。ひとり残されたリビングで摩耶に触れた手をじっと見つめた。冷たく熱を持った僕の手が、悲しく震えて止まらなかった。この手がいつまで震え続けるのか、摩耶との関係がどうなるのか。そんなことを考えながら静かな夜に飲み込まれていった。
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