第25話 雛乃の失踪
その日雛乃は友だちのロボットコンテストを見に行くと言って、朝早くから念入りに支度をしていた。化粧を薄く施し、髪は念入りにドライヤーでセットし、リュックの中も何度もチェックしていた。
「お兄ちゃん、今日は私の後をついてこないでね。私が行くところいつもお兄ちゃんがいるから、ブラコン兄妹って言われるんだよ」
雛乃はリュックにありったけのお菓子を詰め込んでチャックを閉じた。遠足の日みたいに雛乃ははしゃいでいる。
「デート、じゃないよな」
疑いのまなざしを彼女に向けると、怖気がすると言って僕を気持ち悪そうに白眼視した。
「よしんば。よしんばデートだとしても! お兄ちゃんに私を責める資格があるだろうか。いや、ない。昨日どこへ行ってたのか正直に言いたまえ、藤原浩介君」
僕は白旗をあげ、雛乃の幸福を生温かく見守る兄に徹することにした。
「あんまり遅くなるなよ」
兄らしい言葉を妹に投げる。すると、雛乃は急に真顔になって、
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
と言った。その表情に微妙な曇りを感じたけど、とりたてて気にはしなかった。雛乃のことだから大丈夫だろうと、彼女を信用しきっていたのだ。
雛乃は歌を歌いながら元気よく家を出て行った。ついていきたいのはやまやまだけど、それをしたら完全に嫌われそうだから家でおとなしくしていることにした。
特にすることがなく、リビングでテレビを見ていた。カルガモの親子のお引越しのニュースが長々と続いている。今日も世界は平和だ。天気予報によると今日の天気は下り坂でしばらくはぐずついた空模様になるらしい。雛乃は傘を持って行ったかな。
両親は今日も出かけているし、自分で昼ご飯を作るしかなかった。棚からパスタを取り出して茹で始める。カフェで聖良が食べていたシーフードパスタは美味しそうだった。なぜか彼女の服装や表情より、あのパスタに乗っかっていた大きな海老の形を鮮明に覚えているのはちょっと変だろうか。唇を押さえ、彼女とのキスを思い出す。これから僕たちはきっともっと幸せに過ごしていける。そう思うと自分が変わっていくのを感じた。
昼過ぎ、ベッドに横になり彼女とのやりとりを思い返した。何気ない会話のひとつひとつが愛おしく感じる。聖良の町まで距離があるのがもどかしく、今すぐにでも会いに行きたいと思う。毎日会えればそれだけで幸福だ。きっと彼女もそう思ってくれているだろう。
ロボットコンテストは終わったのだろうか。雛乃にメッセージを送るが、未読になっている。雨がぽつぽつと降り始めていた。
コンビニにチョコレートとコーラを買いに行き、そのままそぞろ歩いた。傘から覗く厚い灰色に覆われた空が憂鬱な気持ちにさせ、僕を押しつぶそうとしていた。あぜ道は車の通りもなく、ただただ静かで、耳鳴りだけが奇妙なノイズを奏でている。国道では迷子の猫がお腹をすかせてさまよっていた。近づくと猫は逃げてしまう。差し伸べた手の置きどころがなくて、すっかり冷たくなった風に耳を澄ます。何だか嫌な予感がした。スマホには何のメッセージもない。
時計の進みが遅く感じる。漫画も楽しめず途中で投げ出してしまった。どうしてこんなに胸が騒ぐのだろう。
夜になっても雛乃は帰らない。両親も雛乃から連絡がないことに微かな不安を口にしていた。夕食の時間になり、僕たちはしばらく雛乃を待っていたけど、いつになっても帰ってこないから、先に食べることにした。皿に盛られた料理が、雛乃の不在を鮮明にしていた。夕食はみな言葉少なで、張り詰めた空気が部屋中に漂っていた。
僕たち家族はその時、口には出さなかったけれど、五年前に雛乃が神隠しに遭った事件のことを思い出していた。十日ほど雛乃が消え、寺の境内に忽然と現れた事件。衣服の汚れもなく、雛乃自身も身ぎれいで、まるで時間をスキップしてそこにいるような感じを受けた。雛乃はその間の記憶がないようだった。何事もなかったことに僕たちは安堵したけれど、その後が大変だった。雛乃の目は光が消え、落ち込むことが多くなった。
彼女の精神は氷山がゆっくりと海に埋没していくように、次第に瓦解していった。長いトンネルの日々だった。僕たち家族は雛乃を根気強く支えた。できるだけ空気のいい場所や、心が明るくなる場所に連れて行き、雛乃の目の輝きが戻るのを待った。そして神隠し事件から半年が経ったある日、彼女は目を覚ますと今までのことがウソのように、突然正常に戻ったのだった。しかしその時から雛乃は、甘えん坊でお兄ちゃん子だったそれまでの殻を脱ぎ捨て、今の彼女へと変貌した。十歳も成長したかのように、急激に雛乃は大人の精神を手に入れていった。雛乃の成長を喜びつつも、子ども時代の面影を喪ったことを心の底から悲しいと思っていた。
もう夜九時を過ぎてしまった。スマホでメッセージを確認するけど、雛乃からは何も来ていないし既読もつかない。両親は雛乃を探しに行くと言って家を出て行った。捜索願を出す決心はまだついていないようだった。
優作とメグに雛乃を知らないかと聞いてみる。すると、ロボットコンテストに出場した中に、メグの友だちがいるという。メグはすぐにその友人に連絡をとった。数分後、メグから返事が来る。それによると、友人はロボットコンテスト終了後に雛乃と会う約束をしていたらしいが、どこにも姿はなく、メッセージをしても返事がなかったという。
「浩介、大丈夫だ。絶対帰ってくる」
電話はそこで切れた。部屋に戻って一旦冷静になることにした。雛乃の部屋に入り、今日雛乃が行こうとしていた場所とか、いなくなった理由などがわかる手がかりがないかと探してみた。そして、あの一冊の日記帳に辿り着いたのだった。もしかするとあの日記の中にヒントがあるかもしれない。そう思い部屋の中を探してみる。机の上やベッドの下、本棚の中までくまなく探したけど、どこにも見当たらない。
日記はどこに行ってしまったのだろう。もしかして雛乃は覚悟の上で家を出たのか。それで大事な日記も持って行ったのか。そう思うと何だか絶望的な気持ちになった。
そんなとき摩耶の顔が咄嗟に浮かんだ。そう言えば、彼女の部屋にも雛乃と同じ日記帳があったのだ。もしかすると何かを知っているかもしれない。
摩耶に電話をかける。彼女と話すのはあの神社以来のことだ。電話が三コール目の呼び出し音を鳴らしたとき、「もしもし」と摩耶の声がした。
「藤原君、久しぶり。倒れたとき助けてくれてありがとう。ずっとお礼を言おうと思っていたんだけど、なかなか電話しづらくて。ずっと病院に付き添ってくれたってお父さんから聞いたわ。本当にありがとう。だけど私の分のメロンも全部食べちゃったんでしょ、ひどいじゃない。私がメロン好きって知っててやったの?」
摩耶はしばらく話せなかった鬱憤が溜まっていたのか、まくしたてるように淀みなく一方的に話す。それにしても僕はメロンを全部食べてない。多分摩耶の親父さんが勢いで食べたのを僕のせいにしているのだろう。まったくひどい人だ。
気を取り直して僕は雛乃が帰ってきていないことを摩耶に告げた。知っていることはないかと摩耶に聞くと、明らかに口調に動揺の色が見えた。絶対何か隠している。
しばらくの沈黙の後、摩耶はためらいながらもこう答えた。
「実は今日のお昼ごろ、雛乃ちゃんがうちに来たの。そして私に日記を託していったわ。
私はどうして日記を、って聞いたんだけど、とりあえず預かってくれと言っていた。だからなんで雛乃ちゃんが日記を持ってきたのかわからない」
なるほど、雛乃の部屋に日記がないのはそういう理由だったのか。ならば摩耶に会ってその中身を確認しなければならないだろう。
「石動さん、その雛乃の日記を見せてもらってもいいかな」
「えっ、日記を? それは……。私たちの約束だから」
日記が二人にとって大切なものであり、秘密が書かれていることは僕にもわかった。きっと他人には見られたくないことが書いてあるのだろう。でも今は緊急事態だ。もし雛乃に最悪なことが起こったら悔やみきれない。だからどうしても摩耶に日記を見せてもらわないといけないのだ。
「雛乃がわざわざ石動さんに託したってことは、何か重要なことが書かれているってことだよな。少しでいいから、見せてくれないか」
心を込めて摩耶に頼んだ。すると再びの沈黙の後に、
「わかった。用意しておくね」
と決意したような声で摩耶が言った。
「じゃあ、すぐにそっちに向かうよ」
「うん、待ってる。気をつけて来てね」
両親に「雛乃を探してきます。友だちの家に泊まるから心配しないで」とメールをして、摩耶の家に向かった。雨はもう本降りになってしまっている。
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