第24話 恋
翌朝、スマホに二件のメッセージが来ていた。一つは聖良からで、週末に会いたいと書いてあった。もう一つは摩耶からで、今朝目を覚ましたことと、僕に対する感謝の言葉が書かれていた。僕が「気にしなくていいよ、ゆっくり休んで」とメッセージすると、「藤原君に悪いことした。ごめんね」と返事が来た。僕は「大丈夫」のスタンプを送り、摩耶とのやり取りは終わった。
聖良には何とメッセージしたらいいか迷った。神社での彼女の態度が恐ろしく思えたのだ。普段優しい聖良が、あんな風に相手を厳しく糾弾するなんて信じられなかった。でも会わないわけにはいかない。土曜日なら会えると返事をしたら、すぐに「じゃあ、九時にカフェ・リュミエールに集合ね」と返ってきた。できれば聖良にも摩耶にも会わずに週末を過ごしたかったけど、そうはいかないようだ。
土曜日、聖良に会うため、彼女が指定するカフェに行く。カフェ・リュミエールは路地裏の小さな喫茶店で、僕は店の前のベンチで聖良を待った。僕の脳裏に浮かぶ、優しい聖良とそうでない聖良。どっちが本物なのだろう。少し荒れた爪をいじりながら、彼女のことを思った。
聖良が来たのは待ち合わせ五分前で、下を向いていたから彼女が来たことに気づかず、「わっ」と声をかけられた時には、驚きでベンチから落ちそうになってしまった。
「ポケットの中には何があるのかな? チューインガム? それともビスケット?」
聖良はいつもと同じように優しい笑顔を僕に向けた。太陽を背にした彼女は、きらきらと輝いているように見える。しかしすぐに違和感に気が付く。この一週間でかなり痩せてしまっていたのだ。そのことを聞けず、店に入ろうとだけ言った。
店に入り、席に座ると彼女が痩せてしまったことがはっきりとわかった。僕が口ごもっていると、
「実は神社で摩耶さんと言い争ったあと、神経衰弱になっちゃって。ご飯も喉を通らないし、体重が四キロも減ったんだよ。あの時すごい無理をしちゃったからね。慣れないことをするもんじゃないよ」
聖良は二の腕の肉を摘んで力なく笑い、アイスコーヒーの紙袋を折ったり丸めたりして、自分の感情をうまく処理できないもどかしさを感じているようだった。
「浩介君もびっくりしたでしょ。私、怖かったかな。まさかああいう感情が出てくるとは自分でも思わなかったんだよ。後でどっと疲れたけどね。にはは」
その時の聖良は、笑おうとしてうまく笑えていなかった。眉は下がっているのに口元はこわばり、全体的なバランスを欠いていた。でも、そんな彼女の姿を見たら聖良へのわだかまりが、急激に溶けていくのを感じた。完璧万能な女の子だと思っていたけど、僕たちと同じ世界に住むひとりの女子高校生だとわかり、彼女を身近に感じたのだった。
「どうしたの、にやにやして」
「いや、何でもないんだ。聖良、今日は君に会えてよかった。心に花が咲いたみたいだよ。君はいつも僕を明るくしてくれる」
頬杖をついて聖良が僕を見つめている。こんなに多くの人がいるカフェで、どうして僕たちはふたりきりなんだろう。静かに世界は回り出し、時間は全て僕らのもので、誰にも入り込む隙間がなかった。
「上手に言うようになったねぇ。誰で練習したのかな」
「練習なんてしてない。ただ自分の思った通りに言っただけだよ」
「ほんとう? 私だけに言ってるなら嬉しいけど、他の女の子にも同じこと言ってたりしないよね?」
聖良は上目遣いで僕を見つめながら、冗談めかして笑う。でも、その笑顔の裏には不安が潜んでいるように感じた。
「他の子に言うわけないよ。聖良は特別だからさ」
笑顔で返すが、彼女の目はじっと僕を見つめたままだ。信じたい気持ちと、どこかで試しているような表情が混ざり合っている。
「そう……。なら、いいんだけどね。」
聖良は小さく息を吐き、少しだけ視線をそらした。
「浩介君、開けなくてもいい箱は開けなくていいんだよ。パンドラの箱に入ってるのはだいたいミミックだし、最後に希望なんてないのかもしれないよ。君は知ってか知らずかどんどん箱を開けていった。それでみんな苦しんでしまった。人生には見て見ぬふりが一番いい選択肢ってこともあると思うんだよね」
「僕は間違った箱を開けたんだろうか」
「どうかな。ねえ、私はミミック? それとも宝石箱?」
答えは決まっている。
「聖良は宝石箱だよ。断じてミミックなんかじゃない」
僕が即答したことに聖良は驚いている。
「本当にそう思ってる? なら、そろそろ聞かせてもらおうかな」
そう言って聖良は目を閉じた。
「告白の返事を聞かせてください」
彼女は僕の返事を待っている。ここで逃げるわけにはいかなかった。またいい加減な返事をすることもできない。覚悟を決めなければならない。聖良にわからないように大きく息を吸い、呼吸を整えて、
「聖良、僕は君が好きだ」
と言った。聖良は僕をじっと見つめる。そしてその目からは涙がこぼれ落ちた。なぜ涙を流すのか僕には理由がわからない。
聖良は目元を指でなぞり、涙の跡をぬぐった。表情は安心したようにゆるやかに微笑んでいる。しかしぬぐってもぬぐっても、涙はこぼれてくる。くしゃくしゃになった顔をさらにくしゃくしゃにして「あはは」としゃくり上げ鼻をすすりながら、聖良は僕に何度も
「嬉しいよ、浩介君。よーし、今日はたくさん食べるぞー」
彼女はマルゲリータピザとシーフードピザとレアチーズケーキと生ハムサラダと(以下略)を張り切って注文した。聖良は堰を切ったように、感情と言葉があふれてくるようだった。運ばれてきたピザをきれいに等分し僕の皿に分けて、聖良はフォークで美味しそうに口に入れた。きっとこれからいろいろな顔を僕に見せてくれるのだろうと思うと、胸がドキドキした。彼女の特別な顔を見られるのは、僕だけに与えられた特権なのだ。
「聖良お嬢様、食べ方がはしたないですぞ」
「私はそんなお嬢様じゃないよ。知っての通り、小柴姓になるまでは普通の生活をしていたし、むしろ貧乏生活だったんだから。シンデレラも窮屈ね」
サラダをわしゃわしゃと食べながら言った。レタスの水滴が聖良の唇から垂れて、子どもみたいで可愛かった。僕はペーパーナプキンで彼女の唇をぬぐう。突然のことに聖良は驚いて、顔を隠しながら僕の肩をうれしそうに何度も押してきた。
カフェでいろいろな話をしていたら、数時間経ってしまった。僕たちはまだ話し足りないぐらいで、店を出てからショッピングモールに行き、それでもまだ足りなくて植物園に足を運んだ。植物園に着いたころにはもう日は傾いていて、色づき始めた紅葉の森を夕日が赤々と照らしていた。温室にはアメリカやメキシコの植物が数多くあり、聖良は海外生活を懐かしんでいるようだった。サボテン館ではソンブレロと呼ばれるメキシコ帽子を被り二人で写真を撮った。
温室を出た頃、園内はライトアップされ、木々と光のコントラストに思わず息を飲んだ。
「きれいだね」
と聖良が言い、僕のほうに体を寄せてくる。触れた部分が熱を帯びて、高ぶる気持ちを抑えるのに必死だ。彼女に限りない愛おしさを感じ、聖良の手をぎゅっと握った。周りのカップルがそうするように芝生の上に二人で座り、しばらく飽きることなくイルミネーションを見ていた。これが僕と聖良のいちばん幸せな記憶。
帰り際に僕らは初めてのキスをした。どちらからということもなく、自然な流れでそうなったのだ。聖良の唇はかすかに震えていたけど、僕たちはお互いに温かなぬくもりに触れた気がした。新月に照らされた僕たちは、密かに愛を育む蝶のように、かすかな灯りを頼りにひらひらと迷いながらも道を探そうとしていた。夜風が優しく頬を撫で、遠くで聞こえる街の喧騒が、二人だけの空間を包み込んでいるようだった。頭上を飛ぶヘリコプターが、ばたばたと僕らを探そうと躍起になっている。見つかってなるものか。できるだけ今日は二人でいさせてほしい。この幸福が未来まで続くように強く祈り、聖良の手を握った。
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