第23話 病室
病院のベッドに横たわる摩耶を静かに見つめた。寝息は規則正しく、落ち着いている。病院の診断では、極度の緊張と疲労が重なって倒れたのだという。大きな病気ではなくてひとまずほっとした。
摩耶が倒れてから、急いで救急車を呼んだ。救急隊員に事情を聞かれ、そのまま車に乗り病院に来た。たとえ友人であっても救急車に乗れないことがあると聞いたことある。それなのになぜか許可された。
摩耶が処置室から出てくるまでの間、僕は待合室でぼんやりと天井の継ぎ目を数えていた。何だか今日一日の出来事が夢のようで、次々と溢れてくるさまざまな思いを処理しきれずにオーバーヒートしていた。
しばらくして摩耶は病衣を着せられ、ストレッチャーに乗って病室へ移送された。
それから一時間ほど経った。彼女はすぐに目を覚ますのだろうと思っていたけど、ぐっすり眠っているようで起きそうにない。目覚めるまで病室にいようと思っていたが、ずっと付き添っているのも変だし、今日は帰ることにした。
眠る彼女に「またね」と言う。こんなに関係がこじれて、僕たちは再び笑顔で会えるのだろうか。そんなことを考えて病室を出たところで、進行方向から歩いてくる摩耶の父親と鉢合わせになった。摩耶の父は僕を見るなり、
「あの時の高校生か。こんなところで何してるんだ? お見舞いにでも来てくれたのか」
とぶっきらぼうに言った。摩耶が神社内で倒れたことをかいつまんで話す。僕たちのいざこざの件は、聞かれるまで言わないことにした。話を聞き終えた摩耶の父は、しばらく考え込んだあと、
「それじゃ、お前さんが摩耶の恩人てわけか! ありがとうよ。なに、もう帰るのか。もうちょっとゆっくりしていけよ、ほら最高級メロンも買ってきたんだ」
と彼は僕の全身を叩いたり撫でたりして、再び部屋の中へと連れ戻した。摩耶は相変わらず、すうすうと寝ている。寝息は安らかだが、その顔は青白く、生気が感じられない。その姿はまるで童話のお姫様のように、外見上は穏やかだが、現実の重さから切り離された、どこか儚い印象を与えていた。まるでこのままずっと目を覚まさないのではないかという不安が胸に広がった。
「今日慰霊祭があったんだろ、こいつ今日は何だか朝から張り切ってて、普段言わないような冗談なんかも言ってさ、でも元気ならいいかなぐらいに思ってたんだ。だから倒れたって話を聞いたときはしまった、と思ったよ。俺がちゃんと摩耶を見てやればよかったんだ。こいつは無理するとすぐに熱を出したりするからな。前も遊園地にバイトに行った日に、何だか興奮してて夜に高熱を出したんだ。わかってたのにな、父親失格さ」
父親は摩耶の髪を優しく撫でた。親子だけが共有する静かなやり取り。僕はその傍で二人の様子をただ傍観しているしかない。
「よしメロン食うか」
父親は箱の中からメロンを取り出し、大雑把にナイフで八等分にした。病人のために持ってきたメロンを、見舞いの二人で食べてしまってもいいのだろうか。
「なあに大丈夫。摩耶は食欲旺盛だからな。このメロンの匂いを嗅げば、目を覚ますだろう」
紙皿とフォークにメロンを乗せ、父親は僕にメロンを差し出した。見た目からしていかにもおいしそうなメロンだ。遠慮しようか迷ったけど、ありがたくいただくことにした。メロンを口に入れると、なめらかな果肉が口の中いっぱいに広がった。確かにこれはおいしい。さすがに高級品だ。眠っている摩耶に罪悪感を感じつつも、食欲には抗えず無言でフォークを動かし続けた。
「深刻ぶってもしょうがないんだ。ここで俺が感情的になっても摩耶は目を覚まさないし、それなら普段通りにしていたほうがましだ」
メロンを食べ終え、父親はたばこを吸おうとした。しかし当然禁煙で、彼はかわりに濃いブラックコーヒーを飲むことにしたようだった。
「お前さんも何か飲むだろ」
「それじゃ、つぶつぶコーンクリームお願いします」
「なん、だと。ここはおしるこ飲みますっていう場面だろ……。ま、豆乳って言わないだけましか」
なぜそうなるのかは謎だが、父親はなぜかおしるこ推しだった。でも自分では絶対に飲みたくないらしい。僕は最後まで抵抗し、つぶつぶコーンクリームを勝ち取った。今日はこれが飲みたかったのだ。しかしメロンを食べた後の飲み物としては、ちょっと失敗だった気もする。
「お前さん、摩耶と親しくしてくれてるのか」
「普通に友だちとして仲良くしています」
「そうか。ありがとうな。摩耶は友だちが少ないから心配しているんだが、お前さんみたいな友人がいてくれたら安心だ。ところで、摩耶の昔の病気のことは聞いてるのか」
缶コーヒーをぐいと飲み、僕に向かってそう尋ねた。
「いいえ、ほとんど聞いたことはありません」
「そうか。摩耶は子どものころ重度の腎臓病だったんだ。その病気を治すには腎臓移植しか道はなかった。母親は死んじまったし、本当は俺の腎臓を半分あげればよかったんだが、実は俺も若いころから慢性腎臓病で生体腎移植ができなかったんだ。それでドナーからの提供を待つしかなかったんだが、なかなか提供者が現れなかった。しばらくは透析の日々が続いた。長い日々だったよ。摩耶の幼少期は、ほとんど窓の中にあったんだ」
父親は摩耶に楽しい子供時代を過ごさせてあげられなかったことを、心から悔やんでいるようだった。その顔には、苦悩と愛情が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
「でも摩耶が十一歳のとき、ようやく腎臓移植を受けられたんだ。本当に提供者には感謝している。それから摩耶は学校にもきちんと通えるようになったし、少ないながらも友だちがいたようだ。一番の友だちは、お互いに日記を書いている子だって言ってたな。でも腎臓はよくなったが、なかなか自分の体調をコントロールするのが難しいみたいだった。だから今日みたいなことが起こる」
摩耶とはいろいろな話をしたけど、一度たりとも移植の話を聞いたことがない。確かに自分の病気のことなんて話したくないものだ。もし僕が過去に病気を持っていたとしても、誰にも言わないかもしれない。そう考えると、ずっと秘密を持ち続けた摩耶の心の中は、どれだけ苦しかったかわからない。
「ところで、摩耶は手間がかかるだろう」
父親はいたずらな目をして僕に聞いた。正直何と答えるのが最適解かわからない。
「そうですね。普通の女の子とは違うかもしれません」
今日の神社での出来事が頭に浮かんだ。あんなことをする女の子は普通いない。摩耶に振り回された日々を思い出す。大変だったけど、決してつまらない毎日ではなかった。むしろ平々凡々な僕の人生に突如現れた刺激物と言った感じで、楽しかった。
「なあ、お前さん。ずっとなんて言わないから、もうしばらく摩耶と友だちでいてくれないか。一度君のことを話したことがあった。観覧車に乗ったんだと言っていて、見たことのない楽しそうな顔をしていた。お前さんは摩耶にうんざりしているかもしれない。でもそれでもいい。もう少し、摩耶がひとりで歩けるようになるまで一緒にいてくれ」
僕の考えていることを見透かしたようなお願いだった。さすがに父親だけあって、娘の置かれている状況がわかっているのだ。正しい答えがわからないまま、
「そうですね。摩耶さんといると結構楽しいんです。だから友だち付き合いはやめないと思います。安心してください」
と言った。これは僕の本心だろうか、それともいつもの人に合わせたその場しのぎだろうか。どちらにせよ摩耶ともう少し関係を続けようとその時決めた。その言葉に父親は安心したのか、僕におしるこを買ってくれた。家に持って帰って雛乃に飲んでもらおうと考えていたが、父親はちらちらと、僕がいつおしるこのフタを開けるのか気になって見ていた。急かされているような気分になり「ままよ」と一気におしるこを飲んだ。あまったるくて、でも体が温まった。
「摩耶のことは心配するな。数日休めば大丈夫だ。起きたらお前さんが心配していたと伝えておくよ」
父親はまた遠慮なく僕の背中を叩いて、がははと笑った。
リビングにいる雛乃に「ただいま」と声をかけると、「あ、お兄ちゃんおかえり」と普段と変わらない返事が返ってきた。雛乃はポテトチップを食べながら、お笑い番組を楽しそうに観ている。神社であんなことがあったのに、正常に戻ったのか。
ポテトチップを鷲掴みで食べる雛乃に影は感じられない。でも僕の方は一向に見ようとしていない。結局正直に話すことにした。
摩耶が倒れて病院に運ばれたと聞いても、雛乃は「ふーん」と答えるだけで、できるだけ関心を摩耶に向けないようにしているように見えた。
「お兄ちゃん、これからも摩耶ちゃんの傍にいるつもりなの?」
摩耶の父親にこれからもしばらく摩耶の近くにいると約束をしたのだ。そのことを雛乃に話すと、おもむろにテレビのリモコンをつかみ電源を切った。そしてすっくと立ち上がり、
「そうかー。そこまで固い決意なら、私から他に言うことはないよ。頑張ってね」
と僕に困ったような笑顔を見せた。そして冷蔵庫から出したオレンジジュースを一気に飲み、そのまま部屋に戻っていった。
雛乃が消したテレビをもう一度つけ、動物のドキュメンタリーを見るともなしに見た。テレビではサバンナの肉食獣がガゼルを追いかけ、仕留めている。草食動物は逃げ場がなくて可哀想だ。僕のしていることは間違っているのだろうか、正しい道はどこにあるのだろう。僕は流されるままに生きる草食動物か、それとも主体的に生きる人間か。答えははるか遠くにあり、まだ先は見えない。
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