第22話 破局

 摩耶は僕の手を引いて、小走りに社務所を出た。空は秋晴れで筋雲がきれいな線を描いていた。現実と非現実の境界が曖昧で、太陽の光に目が眩んだ。僕らは石畳の上を走り続け鬱蒼と木が茂る人気のない神社裏まで来た。

「ありがとう、藤原君。これで石動家と藤原家の因縁も終わったよ。君が私を殺したいほど憎んでいる理由もなくなったのよ。でも……実はもうひとつ、大事なことがあるの」

 酒を飲み血判をしたのに、まだ何かあるのだろうか。滝行とか断食とか大変そうなのは嫌だ。謎の洗剤を売りつけるのも勘弁してほしい。

「実は、まだ呪いは完全には解けていないの」

 摩耶は落ち着かない様子で体をもじもじとくねらせて、上目遣いに僕を見た。黄色く色づいた葉っぱがひらりと僕らの間に落ちてくる。僕はハッとした。まさか、僕を生贄にして食べるつもりなのだろうか。

「最後に、私にキスして。そうすれば呪いは完全に解けます」

 冗談かと思ったが、摩耶の目は真剣そのものだ。しかしなぜキスで呪いが解けるのだ。毒リンゴを食べたわけじゃなし、そんな安易な方法で三百年が覆されるのか。

「キスで呪いが解けるって本当なの? 人魚姫や白雪姫じゃないんだよ?」

 僕がまるっきり信じていないことに、摩耶はいかにも心外だという表情をした。そして本を取り出し反論してきた。

「本当だって。ほら見て、この本の七十六ページに書いてあるんだから」

 摩耶は古い冊子をめくり、僕にそのページを見せた。くずし字でいまいち読み取れないが、確かに「接吻をすることで呪いは解ける」と書かれていた。その本が本物なのかはわからないけど、僕に逃げ道はないようだ。

「不忍池で僕にキスしようとしたのも、その呪いがあったから?」

「そう。キスしないと呪いは進行し、大鈴も落ちてしまうかもしれない。そうなったら私の命も危なくなる。だから……お願い」

 僕のファーストキスがこんなシチュエーションになるとは思わなかった。摩耶は早くも目を瞑っている。でも彼女のためだ、仕方ない。摩耶の肩を押さえ、唇に顔を近づけキスしようとした。彼女も小刻みに震えている。あと数センチ、あと数ミリ……。しかしその時「ちょっと待って」と誰かの声がした。

 なんとそこには怒りとも悲しみともつかぬ表情をして僕達を見据える、雛乃の姿があった。

「はい、そこまでー」

 いるはずのない雛乃がここにいる。雛乃は後をつけてきたのだ。じりじり近づいてくる雛乃と、そこから動けない僕。摩耶は唇を噛んで下を見ている。

「雛乃ちゃん、誤解しないでね。私たちは何も……」

 摩耶の言葉は弱々しく、いつもの冷静さはどこにも見当たらない。摩耶は雛乃を前にすると、強さを失ってしまうようだった。その態度がとても痛い。

 僕が口を挟もうとすると雛乃は「黙ってて」と僕を制止する。そして、摩耶が嘘をついていると僕に言った。

「お兄ちゃん騙されてるよ。血判してその上キスなんて、オカルト雑誌も真っ青だね。摩耶ちゃん、バカなことはやめたほうがいいよ」

 すべて摩耶の術中にはまっていたのだと雛乃は冷徹な瞳で言った。しかしその言葉に摩耶は反論するが、言葉に力はない。

「嘘じゃない。石動家と藤原家には三百年の因縁があったの。その呪いを私たちは解こうとしていたのよ。それのどこがウソだっていうの」

 声はかすかに震えていた。摩耶が次第に追い詰められていく。

「三百年前に人柱があったのは本当だよ。だから慰霊祭も行われた。私はそこを否定してるんじゃない。でも私たちの家にまつわる因縁話は、信憑性がないんだ。私図書館で調べたんだけど、どこにもそんな記述はなかった。呪いとか全部嘘。わざわざ血判までして、挙句の果てにキスまでしようとして。そこまでお兄ちゃんが摩耶ちゃんを憎んでいる理由から目を逸らしたかったの?」

 摩耶に、何が真実なのか聞かずにはいられなかった。それが彼女を傷つけることになろうとも。摩耶は荒くなる呼吸を必死で抑えながら、消え入りそうな声で僕に向けてこう言った。

「藤原君、私は嘘をついてはいない。因縁は確かよ。呪いが解ければ私たちは過去から自由になれる」

 摩耶は混乱していた。言葉が宙を浮き、地に足がついていない。これ以上追い詰めると壊れてしまいそうだ。けれども雛乃は摩耶に対する攻撃を緩めようとせず、きつい言葉を浴びせ続けた。

「お兄ちゃんが摩耶ちゃんを憎んでいる理由を全部過去の因縁に押し付けて、それが解決すればめでたしめでたし。お兄ちゃんと対等な関係で恋人になれる、とでも思っていたの? でも本当のことを隠して付き合っても苦しいだけだよ。ねえ摩耶ちゃん、そんな悲しいことしないでよ」

 雛乃の言葉に、摩耶は俯きながらこう言った。

「二人ともよく聞いてね。私は昔おばあちゃんにこの話をよく聞かされた。私の体が悪いのもお母さんが死んじゃったのも呪いのせいだって。でもおばあちゃんは、将来私の呪いを解いてくれる男の子がきっと現れるだろうとも言っていた。それが藤原君なの。私は嘘をついたわけじゃない。それだけは信じて」

 摩耶の言葉には切実さが感じられたが、どこまでが真実なのか本当のところ僕にはわからなかった。彼女がここまで大がかりな嘘をつくとも思えないし、でも三百年前の因縁が摩耶の病気と関係するとも思えない。

「だって、お兄ちゃんが摩耶ちゃんを憎んでいる理由は……」

「雛乃ちゃん、それはまだ言わないでほしい。私の心の準備ができていないの」

 泣いている二人は、決していがみ合っている関係ではなく、僕には入れない深い絆があるようだった。それは、僕が摩耶を憎んでいる理由とも関係している。

「ごめんなさい。藤原君。こんな私のこと、嫌いになったでしょう」

 僕は言葉に迷った。正直複雑すぎて、好きとか嫌いとか考える余裕がなかったのだ。

「私は必ず誰かを犠牲にして不幸にしてしまう。だから、そんな私のこと嫌いでしょう?」

「嫌い、じゃないよ。でも君という人がよくわからないんだ。真実が何なのか、君たちが何を隠しているのか」

「私は藤原君に何でも話したい。もっと私を知ってほしいし、君のことも知りたい。でも苦しい。まだ言えないことあるけど、いつか話したい。それまで待ってくれるかな……」

 僕は軽く頷く。雛乃は無言で僕たちを見ている。「もう帰ろうか、石動さん」と言って座り込む摩耶の手を取った。彼女の指は冷え切っている。

「雛乃も、帰ろう」

 二人は涙を拭いて立ち上がる。摩耶も雛乃も、泣いてすっきりしたようだ。気が晴れないのは僕だけかもしれない。やれやれと出口のほうに向かって歩き出したその時、聖良が僕らの前に現れた。

 彼女も慰霊祭に来ていたことを忘れていた。摩耶と雛乃は突然現れた闖入者に、警戒の色を示した。何か悪いことが起こる、そんな予感が僕たちを強く支配していた。

「あ、懐かしのメンバー勢揃いだね」

 優しい表情とは裏腹に、聖良の言葉にはどこか冷酷さがあった。冷たく摩耶を見る視線が不可視光線のように胸に刺さって、彼女を竦ませる。

「雛乃ちゃん、私のこと覚えてる? 聖良だよ、中村聖良」

 聖良は雛乃の顔を見て嬉しそうに言った。雛乃は聖良の名前をすぐには思い出せずにいた。しかし何度か口に出しているうちに、次第に名前を思い出し、信じられないといった顔をした。それは決して歓迎されるべき再会ではなかったのだ。

「石動摩耶さんもこんにちは。昔何回か会ったけど、覚えてるかな」

 雛乃と摩耶は、驚きのあまり体が硬直してしまっていた。聖良はそんな二人の気持を知ってか知らずか、話を続けた。

「昔浩介君と雛乃ちゃん、それと私でよく公園で遊んでたよね。でも雛乃ちゃんが摩耶さんと遊ぶようになって、私たちの関係は終わってしまった。寂しかったなあ……私はそのままアメリカに行っちゃって、子供の頃の思い出はそれぐらいしかないの。摩耶さんがいなければずっと友達でいられたかもしれない」

 不忍池で雛乃は「公園で遊んでいた女の子は摩耶」と言ったが、それは聖良だったのだ。雛乃の嘘を聖良は無邪気に覆す。

「お兄ちゃんごめんね。不忍池で言ったことは嘘。公園で遊んでいたのは摩耶ちゃんじゃない。そこにいる聖良さんだよ。でも摩耶ちゃんはこの件に関しては悪くないよ。たぶん私に話を合わせてくれただけ。だから責めないでね。でもまさか聖良さんがお兄ちゃんの友達だって知らなかったよ。知ってたら公園の話もしなかったと思う。しくじったなあ」

と諦めたような顔をした。

「あの時は咄嗟に嘘をついちゃったんだ。お兄ちゃんに私たちの関係を知られたくなかったから、適当なことを言ったの。でもそれが聖良ちゃんに結びつくとは思わなかった。でもさ、確かに私も悪いけど、摩耶ちゃんだって嘘ついてたし、お兄ちゃんだって私の心配を無視して突っ走った。聖良ちゃんはお兄ちゃんの心の隙間に忍び込んで懐柔しようとしてるし、みんな同じくらい悪いんだよ。ここでいくら話をしてもお互いに擦り傷だらけでいいことなし。だからもう今日は終わりにしない? 解散、解散。いいでしょ、それで」

 僕も一刻も早くこの場所から立ち去りたかった。それは摩耶も雛乃も同じだろう。過ちをいくら論ったところで、何も解決などしない。家に帰って頭を整理してから雛乃に色々と聞けばいい。そうすれば解決の糸口も見えてくるだろう。

 僕がみんなに向けて帰ろうと言うと摩耶も雛乃も頷いた。しかし聖良だけは、納得していないようだった。

「でもまだ本当のことは何も話していないんじゃないかな。雛乃ちゃんと石動さんの関係とか……藤原君は知りたくないの?」

そう言って僕に微笑みを向ける。聖良の心が読めない。

 聖良は何か恐ろしい事実を告げようとしていた。それを出されたら、僕たちの築き上げた関係は一瞬で崩れてしまうのだ。僕たちはそれを怖れた。

「もういいよ、部外者の聖良ちゃんが私たちに首を突っ込まないで!!」

 と言って雛乃は神社の出口の方へ振り返らずに走っていった。追いかけようとする僕を制止したのは摩耶だ。

「聖良さん、と言ったっけ。私はあなたのことはほとんど知らないの。子供の頃私は病気がちだったし、友達もいなかった。あなたと会った記憶もほとんどない。だから憎まれるのは心外。それと藤原君と雛乃ちゃんを苦しめるのは許せない。二人は私の大切な人だから。これ以上私たちに関わるとあなたが痛い目見るよ?」

 聖良の顔をきっと睨み、摩耶は彼女の胸に鋭い言葉のナイフを突き立てた。さっきまで泣いていた摩耶は消え、火よりも強い氷の心で聖良と対峙している。

「私から全てを奪った泥棒さんがどの口で言うのかな。まったくあなたのせいで私の子ども時代はぼろぼろだよ。しかも私の伯父もあなたに殺されたようなものだし。摩耶さん、あなたは本当に何も知らないの? あなたが信じているものの正体を教えてあげましょうか」

 聖良の不敵な笑みは、彼女の心を霧で隠してしまう。どこに本心があるのか分からない。

「二人ともやめるんだ。こんな不毛な喧嘩、無意味だよ」

 僕の言葉が二人に届いたのかは分からない。でも彼女たちは表面的には冷静さを取り戻し、矛を収めた。

「ちょっと熱くなっちゃった。私は帰るね。浩介くん、また連絡してね。美味しいカフェの店紹介するね」

 聖良はそう言うと丁度やってきた高級車に乗って帰っていった。

 聖良が去り、僕と摩耶は神社に取り残された。血判したときに切った指先が今になって痛む。血が流れているときよりも、流れていない今のほうが痛みを感じるなんて皮肉だ。神社は静かさで満たされ、僕らのほかは鴉の鳴き声以外聞こえない。ここに留まっていても仕方ない、摩耶に何も言わずに帰ろうとした。

「待って、藤原君……」

 摩耶の声が途切れる。そしてドサッと何かが倒れる音がした。振り返ると摩耶が僕の足の裾を掴んだまま、石畳の上に倒れていた。

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