第20話 橋の伝説

翌日の摩耶はいつものクールな彼女に戻っていた。妙に甘えた表情や、ひとりを寂しがる姿は微塵もない。やはり昨日はボンボンに浮かされていたにちがいない。

 僕たちはキッチンで朝食を作って一緒に食べた。食事中に目玉焼きに何をかけるか大論争が起こり、摩耶はマヨネーズが一番いいと言い張って聞かなかった。彼女と結婚する人は大変だなとパンの耳をかじりながらそう思った。 

 僕と摩耶は交互に洗面所に入り、身支度を整える。まさか朝になるまで彼女の家にいるとは思っていなかったから、洗面用具も持ってきていない。

 それに気づいた摩耶は僕に新しい歯ブラシを渡した。他人の家に外泊した居心地の悪さから、素早く歯を磨き軽くタオルで顔を拭いた。風呂にも入っていないし、一刻も早く家に帰らなければならない。ひととおり身支度が済んでようやく家に帰れるかなと思ったとき、「出かけましょう」と摩耶が言った。出かける? どこへ? 

「いや、あのさ、家に帰ってないし、そろそろまずいんじゃないかな。シャワー浴びてないから臭うと思う」

 摩耶は顔を近づけてきて、子犬のようにくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。

「大丈夫。臭わないから」

 いや、そういう問題じゃないんだと言いたかったけど、僕の負けだ。あと少しだけ摩耶に付き合うことにした。どこへ行くのかと摩耶に尋ねると、

「昨日言ったでしょ、藤原君が私を憎んでいる理由を教えてあげるって。その場所に行くの」

 長い後ろ髪に問いたい。君は僕をどうしたいんだ。僕との関係を壊すためにその場所に行くというなら、今まで僕たちが積み上げてきた小さな関係性はどうなってしまうのだろう。摩耶は僕を傷つけたいのか。

 緑ヶ丘駅で電車を降り、僕たちは橋のほうへと歩く。日曜日だというのに歩いている人はほとんどいない。

 綱島大橋は遠くから見ると一本の巨大な塔のように見える。赤銅色の塔からは斜めに複数のケーブルが糸のように張られ、立体的な美しさがあった。この橋のちょうど真ん中が町の境になっていて僕たちの心理的境界線になっている。川は穏やかに流れ、川岸には釣り人の姿も見えた。橋の上から川まで結構な高さがあり、足が竦む思いだ。ここから落ちたらひとたまりもない。

「この橋の伝説って知ってる?」

 摩耶は突然言った。知らないと僕が言うとしたり顔で、

「それは三百年も昔のことでした。この川は度重なる氾濫を繰り返していました。橋も小さく、流されることが多かったの。そこで時の代官は、ここに大きな橋を架けることにしました。でも川は流れが早く、水深も深かったのです。そこで工事の日に人柱を埋めることにしました。ちなみに人柱というのは、難工事が予想されるときに、人を生きたまま埋めたりすることをいいます。代官は早急に人柱を決めることにし、ある一族が選ばれました。彼らは抵抗することもせず、国の礎になるならと、進んで人柱になりました。しかし一人だけ逃げた娘がいました。代官はその娘を血眼になって探しましたが、結局見つかりませんでした。工事は無事に終わり、ようやく川は安定、藤原君の町と私の町は安全に行き来できるようになったのです。めでたしめでたし」

 そんな歴史があったなんて僕は知らなかった。川は護岸工事が施され日々穏やかに流れている。僕が生まれてから氾濫が起こったなど聞いたことがない。 

「信じてない? この橋の下に慰霊碑が立っているの。行ってみようよ」

 摩耶は僕の袖を引っ張り促した。頭の整理もつかないまま、彼女の後をついていく。橋から河川敷までは長い螺旋階段が続いている。カタンカタンと二つの足音を響かせて、僕らは川へと降りていく。そこには小屋があった。

「この小屋は水車小屋だったの。今じゃただの朽ちたあばら家だけどね」

 その小屋の裏手に慰霊碑が建っていた。三百年前の橋梁工事の際に人柱となった人たちを供養するためのものらしい。僕たちは慰霊碑の裏に回った。書かれた文字は長い月日の間に薄れ、判別ができなくなっている。摩耶は虫眼鏡を取り出し、右上の大きな文字を拡大するように言った。

 そこにはかすかに「石動神社」と書かれている。彼女と同じ名前だ。摩耶は今度はもっと小さい文字を指さす。なんとそこには、「藤原」と書かれていた。それ以上の文字は読めなかったけど、確かに僕の苗字だ。

「実は私の先祖が代官だったの。で、人柱になったのが君の祖先。石動家の当主、石動頼綱は橋を建設するにあたって、藤原家を人柱にすることに決めたの。君のご先祖様はそのことに不服を申し立てなかった。むしろ喜んで受け入れたの」

 初めて聞く話しだった。荒唐無稽な話しだと思ったけど、ここに慰霊碑があるのが証拠になっていた。

「でも十四歳の娘だけは運命に抗ったの。なぜ私たち家族が死ななければならないのだと。彼女は逃げ、生き延びられた。でもその恨みは一生消えなかった。石動家を転覆させるべく、行動を起こそうとしたのだけれど、彼女にそんな力はなかった。最後は力尽き、今後三百年は恨み続けるだろうと言い残して亡くなったの」

 言葉が出ない。摩耶はうっすらと笑みを浮かべている。彼女の微笑みの意味は何だろう。

「そして今年がその三百年目に当たるの。君が私を殺したいほど憎んでいると言ったのは、必然の中の偶然だった。まさにパンドラの箱ね」

 僕はテレビの取材に舞い上がって、つい心にもないことを言っただけだ。それ以上の深い意味などあるはずがない。

「潜在意識にご先祖様の言葉がちゃんとあって、それが出てきたのかもしれない」

 摩耶は川のほとりに佇んで、静かに空を見上げた。僕が繰り返し摩耶を憎んでいないと言うと、

「でもあなたの祖先は、三百年のあいだに私たちを滅ぼすと言ったの。どうする?私たち家族を殺す?」

 と言った。

「そんなことするわけない。僕たちが憎み合う間柄だとしたら、それはとても辛い。過去が現在に生きる僕たちの未来を決めるなんてありえないと思う。もし僕が君を憎んでいるとしたら、それを断ち切りたい」

 その言葉を聞いて摩耶は、目を閉じ長い髪をかき上げ、大きく伸びをした。

「藤原君がそう言ってくれて嬉しい。実は私たちの因縁を断ち切る方法があるの。十一月三日に石動神社で慰霊祭が行われることになってるの。それに一緒に参加してもらえないかな。石動家と藤原家が共に祭礼に出るなんて今までにないことだよ。そこで私たちは二度と過ちを繰り返さないことを誓うの。どうかな」

 僕には三百年の重みというやつがどれほどのものかわからないし、石動家が背負ってきたものもわからない。藤原家はきっともうそんな過去のことなんてとうの昔に忘れている。

でもそんな一ミリ程度の小さなトゲが摩耶に刺さっているのだとしたら、取ってあげたいと思う。

「君がそう望むなら参加するよ」

「ありがとう。藤原君が一緒にいてくれたら、私たちは過去の因縁からきっと救われるよ」

 僕たちはしばらく河川敷に立ち尽くし、穏やかな川の流れを眺めていた。この橋を作るために僕たちの先祖は川に沈んだのか。僕にはそれがどれだけの無念だったかは正直なところわからない。でも死んでいった彼らをイメージすることはできる。今僕たちがこうして二人で川を眺めていることをご先祖たちはどう思うだろうか。

「藤原君と出会えたのはすごい奇跡だと思ってる。私たち、前に進めるといいね」

 僕が摩耶を殺したいほど憎んでいる理由、それは三百年前の因縁だったのだ。自分が何気なく発した言葉の重さに今更ながら驚き、怖いと思った。自分の無意識下にある、自分でも目に見えない「呪い」の感情を、一刻も早く解きたいと思った。


 家に帰ると雛乃が待っていた。そしてすぐさま彼女の部屋に連行され、どこへ行っていたのかと問い詰められた。僕は雛乃に申し訳ないと思いつつも、穏便な嘘をつく。僕は正座を崩し立ち上がろうとした。

「ねえ、お兄ちゃん。本当は石動さんのところにいたんでしょう。私知ってるんだ」

 そこまでわかってるんならと、摩耶の家に行って誕生日を祝ったことを話した。僕に疚しいところはないし、雛乃に嘘をつきつづける理由もない。話せば事情をわかってくれるだろうとも思った。けれども雛乃は、

「石動さんと会うのはやめてほしいな。お兄ちゃんが彼女と会うの、私はつらいよ。なんで摩耶ちゃんと知り合いになっちゃったの。全然接点なんてなかったのに……」

 さっきまで軽い調子で話していた雛乃だったが、摩耶の話になった途端辛そうな顔になった。そう言えば以前はにわ展で偶然彼女に会った日の夜も、雛乃は洗面所で泣いていた。

「雛乃と石動さんは、どんな関係なんだ?」

 傷口に塩を塗る言葉だとわかっていたけど、聞かずにはいられなかったのだ。聞けば何か答えてくれるだろうと、甘い考えがあったかもしれない。しかし、

「私と摩耶ちゃんの関係? 何もないとは言わないけど、今は言いたくない。これはお兄ちゃんが思ってるより、私にとってすごくきつい話なの。だから、ごめんね」

 雛乃と僕の間に高い壁が生じていた。彼女の心には僕にはわからない檻があってどこからも入れなかった。

「わかった。何も聞かないよ。でもひとつだけ。それってやっぱり三百年前の呪いと関係があるのか?」

 雛乃はきょとんとした顔で僕を見た。

「呪いって何のこと」

 抱えていたぬいぐるみを放り出して、雛乃が聞く。さっきまでの悲し気な表情とはうって変わって、疑いの目だ。橋の下での出来事を簡単に雛乃に話した。三百年前の因縁のこと、それが今まで続いていること、そして断ち切らなければならない運命のこと。

「お兄ちゃん、十一月三日に石動神社に行くってことだよね」

 僕は頷く。

「後悔しないようにね。あーあ、私疲れたよ。しばらくギアナ高地に修行に行こうかな。もしそうなっても探さないでね」

 とだけ言い雛乃は自分の部屋に戻っていった。床に倒れたままのウサギのぬいぐるみが、恨めしそうに僕を見ている。ポケットに入っていたクッキーは、思ったより苦かった。

「現実は厳しいな。人生はいつも曇り空だ」

 ベッドに横たわり、僕はそのまま何時間も寝てしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る