七章 もう一人のポーカーフェイス
第31話
タイムは長いこと迷っていたが、県外の公立高校を受験することに決めた。サッカー部をはじめ部活動が盛んで、タイムが志望する大学への推薦枠が多いからだ。
川添に相談した時は驚かれたが、”絶対合格するぞ”と力強く背中を押してくれた。
母に打ち明けた時も”タイムがどんな道を選んでも応援するよ”と、賛成してくれた。
「頑張ってるな」
12月に入った日曜日。自室で勉強机に向かっていたら父が現れた。
「あれ? 鷹野さんに会うんじゃなかったっけ?」
「もうすぐ行くとこだ」
匡時は部屋に入り、タイムの手元をのぞきこんだ。
机には国語、数学などの主要な五教科の教科書やワークブックが広げられている。隅にはスポーツ科学に関する本が一冊。
匡時は興味深そうに目を細めると、一際分厚い本を手に取った。
「もうすぐ期末テスト?」
「うん」
だが、それは受験勉強とも期末テストとも関係ない。タイムの将来の夢のために購入したものだ。分厚くてオールカラーなだけあって値段が張った。だが、母は快く買ってくれた。
「タイムも先生になりたいのか……」
「うん。やっぱりスポーツが好きだし、何かを教えるのが好きだから」
タイムの将来の夢は学校の先生。日中は体育教師として、授業後は部活の顧問としてスポーツにふれたい。
ずっとサッカー漬けの生活で、小学生まではサッカークラブに通っていた。
練習がつらかったり実力が伴わなくて悩んだこともあったが、続けてよかったと思っている。チームメイトとはクラスメイトとよりも強い結びつきができた。
できることが増える度に仲間と喜び合えるのが嬉しい。努力を重ね続ければ必ず得られるものがあると、後輩や子どもたちに教えたくなった。
『県外の高校? うそ!?』
志望校を教えたのは今のところテツだけ。彼は珍しく派手に驚いていた。
彼とはサッカーを通じて友情が深まった。時々挑発するような態度を取られるが、一番の親友だ。
『サッカーは続けるんだろ? 俺も続けるから全国大会で会おうぜ』
そう言ったテツの顔はいつもの笑顔を浮かべていた。彼の憎たらしい笑顔が懐かしい、と思うようになる日は近い。離れたら心にぽっかりと穴が開きそうだった。
『あ、でも……。アルトと離れ離れになっていいのか~?』
テツは幼なじみの名前を出すと、ニヤリと口の端を上げた。
本当は彼女にも教えたいが話しかけないようにしている。
マフラーを返そうか迷っているのか、彼女は物言いたげな顔をしている時がある。
タイムが白いネックウォーマーを身につけるようになると、彼女は赤いマフラーで登下校するようになった。
『ミカゲはアルトのこと狙ってるみたいじゃん? 親友だとか幼なじみだ、とか言い張ってるけど本当のとこはどうだか……』
『テツもでしょ』
その瞬間、彼は真顔になった。怖いくらいの無の表情。
反対にタイムは余裕の笑みを浮かべた。
『俺が悔しがるとこ見たかった? ごめんだけど……。あの程度じゃなんとも思わないよ』
テツやミカゲがアルトのことを好いてるのはすぐに分かった。
ミカゲはともかく、あのテツがアルトに想いを寄せているなんて他の者は夢にも思わないだろう。タイムくらい長年そばにいればなんとなく察することができる。
彼は悔しそうに短髪をかきむしり、ぶすっとした表情で口をとがらせた。
『……やっぱタイムも好きなのかよ』
『テツには内緒』
『んだよ……。ちなみに俺はフラれた。友だちにしか思われてなかった』
正直、彼が誰かを好きになるのは意外だった。女子にワーキャー言われているのは何度も見てきたが、彼は興味なさそうに無視していたからだ。
『いいじゃん、アルトが友だちって認識してる人は少ないよ』
それでもテツは不満そうだ。タイムに恨めし気な視線を突き刺すと鼻をならした。
『お前が動かないなら俺はまた告るぞ?』
『ミカゲと決着つけないとじゃない?』
さらっと受け流したら横腹に一発、軽いのをお見舞いされた。
匡時が鷹野と神社で待ち合わせしている、というのでタイムもついていった。合格祈願をしたいからだ。
「最近よく会うんだね。事件とか?」
「ん~……。守秘義務」
境内に続く階段の途中で、匡時は曖昧な笑みを浮かべた。
父と別れ、タイムは拝殿へ向かった。境内では蘭花と、彼女と同じ歳くらいの青年が竹ぼうきで落ち葉を掃いている。
蘭花のことはタイムが一方的に知ってるだけかと思いきや、アルト経由で知られているらしい。彼女に向かって会釈すると、"ようこそお参りくださいました"と笑顔を返された。
拝殿に近づき、タイムは口元まで上げた白いネックウォーマーを下げた。
お賽銭を転がすと二回頭を下げ、二回柏手を打った。開け放たれた拝殿からは畳の香りが漂ってくる。懐かしくなるような、心が休まる香りだ。
最後に一礼して拝殿に背を向けたら甲高い悲鳴が響き渡った。
「タイム君……!」
「逃げろ!」
振り向くと、先程まで境内にいなかった人物が真後ろにいた。
その向こうでは蘭花が口元を手で覆い、青年が竹ぼうきを逆さに持って構えている。
さらに後ろの鳥居には、アルトが息切れしながら上がってきていた。
アルトはテスト勉強の合間に散歩をしていた。
神社の前を通りかかり、匡時に言われた言葉を思い出す。
それを克服したいのと、タイムとまた自然に話せるようになりたくて参拝しようと思い立った。こういうことは神頼みするしかない。
神社の長い階段は、体力のないアルトにはキツい。
ぜーはー言いながら登りきると足がパンパンになり、膝に手をついた。
その瞬間に悲鳴と怒号が重なり合った。
「タイム君……!」
「逃げろ!」
顔を上げると、蘭花と剣介がそれぞれ竹ぼうきを持っていた。
その先にはタイム。まさかここで会うなんて。
しかし、運命を感じている場合ではない。彼の前には異様な雰囲気をまとった男が立っていた。
薄汚れたパーカーに色がまだらなジーンズ。伸ばした手の先には鈍く光る銀色。
(ナイフ……!)
呼吸が荒くなり、鼓動を打つスピードが速くなる。
怪しい男はナイフを振り払うと、タイムに向かって足を踏み出した。
その瞬間、アルトは目をカッと開いた。
「アルトちゃんダメ!」
「危ない……!」
後ろで蘭花が叫ぶのが聞こえた。剣介が草履で足を滑らせたのも。
「タイム!」
男が振り返り、風のように走ってきたアルトに一瞬だけ動きを止めた。
アルトは走ってきた勢いのまま飛び上がると、男の顔面に蹴りをくらわした。
「タイムから離れて!」
腹の底から出た声に”まただ”、と関係ないことを考えていた。彼が絡むと普段からは考えられない行動をとってしまう。
彼女は後方に着地し、暴れたマフラーを整えた。
「このガキ……!」
男はアルトの飛び蹴りで地面に倒れ込んだ。癇に障ったのか顔をゆがめ、立ち上がろうと後ろ手をつく。
アルトはナイフを持った手を蹴り上げ、鋭い視線で男を圧倒する。ナイフは飛んでいき、男は怯んで手を押さえた。
自分ではない誰かが乗り移っているとしか思えなかった。そうでなければこんな俊敏な動きは取れない。
その瞬間、拝殿から黒い何かが飛んできた。アルトに向かってまっすぐ。
咄嗟に腕を上げ、掴むとそれは刀だった。ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
濃紺の刀は鞘に花の模様が彫られていた。
(確か……)
「玲嵐!」
蘭花の声に驚いた。こんなところになぜ、人の血を吸った刀が。
初めて見た本物の玲嵐は憎むべき相手なのに、美しさに目を奪われる。
目の前の男は抵抗する気を削がれたどころか、瞳に恐怖を浮かべている。”やめろ……”と震える声を発し、後ずさった。
「彼から離れなさい……」
アルトは柄と鞘をそれぞれ掴んだ。
こんな口調で言葉を発したことはない。らしくない口調がひとりでに口から飛び出した。
柄を握りしめ、鞘を放り捨てようとしたが刀が抜けない。
(落ち着けってこと……?)
なぜか玲嵐に諭された気がした。乱菊が彫られた艶やかな鞘が、流れ星のように輝きを放ったように見えた。
「この野郎! 神聖な場所でなんてことを!」
男がアルトと刀に怯んだ隙に剣介が竹ぼうきを振り上げた。そういえば彼は剣道道場の次男坊だと蘭花が教えてくれたことがある。彼は男を竹ぼうきでつつき回した。
「何が起きたんだい!?」
「タイム、無事か!? あっ……」
血相を変えて現れたのは鷹野と匡時。その後ろからは足を必死に動かす菖蒲も。
アルトは玲嵐を両手で胸に抱えた。警察や大人の男がいればもう大丈夫だろう。ホッとしたいせいか力が抜け、その場にへたりこんでしまった。手足が震えている。
「アルト……。ありがとう」
久しぶりに話したタイムの顔はひどく優しくて、アルトは視界がにじむのを感じた。
あの日以来、泣いていない。自分の涙は彼のためにしか流せないのかもしれない。
タイムはそばにしゃがむと手を差し出した。
「タイム! 乱菊から離れなさい!」
その時、匡時の鋭い声が空気を切り裂いた。アルトは中途半端に伸ばした手を空中で止める。
彼によく思われていないのは知っていた。だが、先祖の名前で呼ばれたのは心外だった。
「あれは……誰?」
蘭花がアルトのことを見て、剣介に寄りかかった。腰が抜けたようだ。隣の彼も信じられない表情で目をこすっている。
「袴姿で……刀を握った女の人が見える」
「なんですかあれ……」
鷹野も半笑いでアルトを指さす。
アルトはこの場にいる全員の視線を集めていることに気づき、自分の姿を見下ろした。
その時、洋服を着た自分にダブるように和服が見えた。
まるでタイムと、タイムによく似た男がタブった時のように。
(私は……)
アルトは震える手で玲嵐を持ち上げると、その名が勝手に喉の奥から絞り出された。
「こっ……ろしや……ら、ん……ぎ……く……」
視界がぐるぐると回る。ひどいめまいだ。何も見たくない、感じたくない。アルトは嗚咽をもらして目を覆った。
タイムの危機に豹変し、彼を守るためなら後先考えない。
あの時もそうだ。春に刃物を持った大学生が中学校に侵入した時も。自分の行動は夫の仇を取るために刀を抜いた乱菊と同じだ。自分の本性に肝が冷える。
その時、体を優しく包まれた。玲嵐ごと。
「乱菊じゃない、琵琶だよ」
タイムが耳元でささやいた。そっと抱きしめられ、顔を上げると目が合った。彼の表情はいつもの穏やかさに切なさが入り混じり、こちらの胸が苦しくなってくる。
しかし。それよりも、だ。
「なんで知ってるの……?」
アルトですらつい最近知ったばかりの名前。乱菊の本名は麗音家しか知らないはず。
「君にまた会えるのを百年以上待ってた……。もう、誰にも邪魔させない」
意味深な言葉を並べたタイムに手を掴まれ、玲嵐を持ったまま神社から連れ出された。
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