四
大きな青地のキャンバスが
あれからあてもなく
どういう思いでここに来たのかはわからない。
一人になりたいとき。考え事をしたいとき。そして
さざ波の立つ
教師や友達は皆、遥太の存在に気づかない。
家族の中にも遥太の存在はない。
残照に染まる美しい
「はあー……」
しかしながら、外界の自然物というのは時に恐ろしくもある。それらはやがて自分をまるごと取り入れ、ひとつにし、静寂の中へと引き入れてしまいそうなのだ。自分を自分たらしめる世界へと
でも本当はそうなるほうが望ましいのではないかと遥太は思った。一方で、それを拒んでしまう自分もいた。
そのときだった。
「……おばんかたです」
突然、後ろから話しかけられたのだ。
「……!?」
会話が通じるのかわからない。
まだ振り返ってもいない。
それにもかかわらず遥太は硬くなっていた顔をほころばせ、その場でフリーズした。自分の姿が見える人間がまだこの世界にいたのかと、思わず安心したからだ。
どうして遥太のことが見えているのだろうかと不思議に思い、相手のほうを振り返る。
まず目に入ったのはソイツの服装だった。
インナーは光沢感あるベロア生地のカットソー。アウターにはカーキ色のモッズコートを着用している。そのミリタリー調がなんともカッコ良く、洗練された印象を持たせていた。ボトムスは黒スキニー。Yラインがより強調されて脚が長く見えた。足元にまで気を配っているのか、靴は黒で統一している。
街中にいたら目を引く
目鼻口の形、大きさ、位置。どれをとっても寸分の狂いなく正確。
目の下と口の横のほくろ。主張は控えめだが、二つとも
目線の高さが遥太とまったく同じ。すなわち身長が同じということ。
ソイツは他人の
この状況がにわかに受け入れられたかといえば嘘になる。が、すでに大変な目に遭っていたからか、そういうものだと遥太は受け入れるに
ただ同じ見た目をしているとはいえ、どことなくソイツは遥太よりも小綺麗で落ち着いた雰囲気があった。
その装いを馬子にも衣装だよ、と当てこすってやりたかったが、遥太の
ソイツの肌もまた遥太とは違って非常に綺麗だった。顔が同じ以上、無論肌の色素は同じなのだが、ソイツの肌は抜けるような
なんとなくソイツは若者らしく青に侵されたことがないのではないかという気がした。温室育ちの御坊ちゃまの、青く叫ぶことを知らない、これまで
ソイツがどうして遥太のことが見えているのか詳細な理由はわからない。けれど、同じ見た目をしているから認識できた、という理由で十分説明できるように思えた。
「なんの用だ? 世界に同じ見た目をした奴なんて二人もいらないぞ」
三枚目の遥太が口を開く。するとソイツは
「随分と落ち着いていらっしゃいますね。まあ当然でしょうか。ここ数日間で色々とありましたから」
と馬鹿な口ぶりで反応した。会話が通じることにひとまず
「ではボクがあなたに何をお伝えしたいか、
「ちょっと待て」
遥太は話を遮るように小さく叫んだ。ソイツは
そのとき、なぜか遥太はソイツが自分の中の何か重大な秘密を暴いてしまうのではないかという予感がしたのだ。
一度呼吸を整える。
「悪い。続けてくれ」
これから耳が痛くなるような話がなされるのだろう。どうしてか、そう確信した上で遥太は先を促す。
「……わかりました。それで簡潔に述べますとね……」
「現実見ろや。このクソガキ」
なんて台詞を自身の身分もわきまえず言い放ったのだった。
「あなたももうお気づきでしょう。いつからでしょうか? まさか最初からとか言いませんよね」
「……なんのことだ? 伝えたいことは
「はぐらかすつもりですか? こちらはすべて把握しているのですから、無駄ですよ」
ソイツは綺麗な並びの歯を見せつけながら調子のいいことを言う。
「…………」
「……沈黙ですか? そういうところが弱いんですよ、あなたは。
「すみません。
ソイツの言葉によって忘れていた記憶の扉がこじ開けられていく。
いや、今その事実を聞いてもさほど驚いていないということは、すでに気づいていたのだろうか。ならばいつからだろう。ソイツの言う通り最初からなのか。はたまた最近になってからなのか。気づいた上で真実を心の押し入れへ忍ばせて、必死に思い出さないようにしていたのかもしれない。この世界はとても居心地がいい。だから可能な限りずっとここで過ごしていたい。無意識にもそう思っていたのかもしれない。
「
まあ何にせよ、あなたにとってはこの世界が理想的だったんですよね。あなたが想像の中で思い描いていたものがすべて実現している。そんなわけで、本当のことは忘れて残れる限りここに残り続けたいと考えたのではないですか」
心中を見透かしたかのように言う。
遥太はそれをひたすら受け身で聞くしかなかった。ソイツが吐く言葉はもはや独り言になっている。
「愚かですね。理想の世界ばかり憧れるなんて。そのせいであなたが本来大事にすべき世界を放棄してしまう。理想の世界なんて人間を駄目にするものです。夢もまた同じ」
それまで黙っていた遥太も流石に今の言葉は聞き捨てならなかった。
「なんだ。お前は理想とか夢を抱くなって言いたいのか?」
ソイツは
「そんなことは言っていませんよ。理想や夢の扱い方についての問題です。抱くのはいいんです。むしろ素晴らしいことだと思います。ボクが伝えたいのはですね、そこに執着しすぎてはいけないということです」
あっけらかんとした口調で言うので遥太は拍子抜けしてしまう。
「ボクはあなたと同じ見た目をしているけれど、あなたとは似て非なる人間です。それもそうです。育ってきた環境が違えば吸収してきた知識の種類も違う。生きている世界がそもそも異なるのだから当たり前かもしれません」
急に何を言い出すのだろうかと思う。
「今から話すのはボクの持論です。あなたが真に受けようが受けまいが、どちらでも構いません。あなたからしてみれば——これを自分で言うのはアレかもしれませんが——優れていると感じる存在のボクにとやかく言われるのは気に障ることしょう。何よりあなたにはあなたの考えもあるでしょうから。うまく言いくるめられた気になって無理に納得されるのはボクの本望ではないのです。
それを承知の上で聞いてください」
ソイツはご丁寧に前置きしてから話し始めた。遥太はそれを黙って聞き続ける。
「理想とか夢とかって本来叶えたいと思うからあるものじゃないんですか? 自分がそうありたいって少しでも願っているからこそ胸中から溢れ出てくるものなんじゃないんですか? もちろんそれが簡単に叶うとか実現できるとかは言いません。ボクにはそれを叶える力なんて持っていませんし、実現できるという保証もありません。だからあなた自身がそれを諦めたものとして納得しているなら構わないです。もうそれは仕方がないことなんだ、と甘んじて受け入れているのならボクには何も言いようがありません。
けどそうじゃないなら、心のどこかで願っていることなら、自分に正直になるべきです。希望の
そんなことを怠っているようじゃ、理想とか夢ってものは……ただの空想、ただの嘘だ。……伝わりますかね?」
本当にその通りだな、と思う。
遥太は自分の中に抱いた理想や夢というものを叶えたいと願っているのにもかかわらず努力を怠った。希望の萌芽の世話をろくにしなかった。
努力をしていない以上、遥太が抱いている理想はただ頭の中で創り出した空想でしかないし、夢は名ばかりのはっきりした形をもたない嘘でしかないのだ。
その果てには、遥太は理想や夢を断念した。
それを致し方ないことだと
しかし、実際は違う。遥太はそれらを完全に手放すことはできなかった。忘れたくても頭の片隅に叶えたいという思いが残っていた。
その結果どうなったか。そう、この世界に来た。叶えようと努力をするのではなく可能性の世界に逃げて満たされようとした。
あまつさえ、その世界があまりにも夢見心地だったから入り浸ろうとした。想像の境地に入り込んで現実から目を背けようとした。
まったく中野遥太というのは非常に面倒くさい人間だ。
ため息が漏れる。
そんな感情の中で遥太はふと、ある疑問を投げかけてみたくなった。
「理想や夢を思い描く、それってそんなにいけないことなのか?」
理想や夢を想像することが絶対的に駄目なのか。想像することで救われることもあるのではないか。遥太はソイツの考えが知りたいと思ったのだ。
ソイツは嫌な顔せず真剣に答えてくれた。
「絶対にいけないとは言いません。それがもし志を生育するための
どんな
理想や夢の世界なんてただの虚構です。理想や夢に憧れて自分のものにしようと努めること自体は
やはりソイツの話は耳が痛くなった。しばらく立ち直るのが困難になりそうなほどには心が折れた。
だが、いずれも遥太にとっては必要なこと。いつかは自覚しなければならない大切なことだった。
「ボクが言いたいのはつまりそういうことです」
ソイツは話を総括する。それから
「それを一言で伝えるなら……」
と中途半端なところで区切ると、それまでの張り詰めた空気を払拭するように薄く笑いながら言ってみせた。
「現実見ろや。このクソガキ。……になります」
遥太は今までの
ひたすらにカッコ良くて心惹かれる存在。
ただ別に憧れはしない。いや、これだと誤解を与えかねないか。憧れるところはもちろんある。憧れはするけれど、ソイツになりたいとは思わない。おそらくこちらのほうが正しい。
ソイツになりたいとは思わない、もっと言えば思ってはいけないのだ。もしソイツになることに
遥太はただソイツの人物像を胸の奥深くに刻み込むだけ——
「ボクの話は以上です。もうここからはあなた自身の問題です」
ソイツはそろそろ話を切り上げようとしている。その前に遥太はソイツに対して人間たるものこれだけは言っておかなければならないだろう。
「……悪かったよ。好き勝手お前の世界に入り浸って」
するとソイツは笑みを浮かべ、何事もなかったように平然と答えた。
「別にいいですよ。そんなに気にしていません。それに最初のほうで十分あなたのことを罵倒できましたから」
第一印象のときに比べて意外にもソイツは人間らしいところがあるものだと、遥太は不覚にも笑ってしまう。
「それはさておき。ボクは最終的にこれからどうするかの判断はあなたに委ねると言いました」
「……」
「ですが本当のところボクは、努力して何かになることをあなたが目指しているように感じるんです」
「……」
「もしそうなのであれば、世界は違いますけど、ぜひボクと一緒に頑張ってみませんか?」
「……」
遥太はもう口を開くことができなかった。これは気持ちが揺らいでいたからではない。口を開こうと思っても開けなかったのだ。
そこで遥太の夢は覚めた。
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