大きな青地のキャンバスが黄昏たそがれいろの絵の具で鮮やかにグラデーションされている。そこに数羽のカラスが列をなし飛び去る様子が描かれていく。

 あれからあてもなく彷徨さまよった末、遥太はひとり近所にある川沿いの土手を歩きながら物思いにふけていた。

 どういう思いでここに来たのかはわからない。

 一人になりたいとき。考え事をしたいとき。そしてゆううつなことがあったとき。いつも決まってここに来ていた。もしかしたらそれが無意識の中で働いて遥太を導いたのかもしれない。

 さざ波の立つかわは外界のエキスを吸収し、その中でキラキラと輝きよどみながらあんたんたる世界を作っている。その景色をぼんやりと見つめながら遥太は思った——なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのか。

 教師や友達は皆、遥太の存在に気づかない。

 家族の中にも遥太の存在はない。

 残照に染まる美しい外界まちは遥太の存在を抜きにして営みを続けている。

「はあー……」

 づらを渡る夕方の風はまだ冷たいけれど、そのうち春をも運んできてくれるような力を秘めていた。それが遥太の体を甘くまた優しくほうようしてくれる。いつだって自然というのは膨大なエネルギーを持っていて、自分の悩みなんてちっぽけに思えるよう奮い立たせてくれるのだ。

 しかしながら、外界の自然物というのは時に恐ろしくもある。それらはやがて自分をまるごと取り入れ、ひとつにし、静寂の中へと引き入れてしまいそうなのだ。自分を自分たらしめる世界へといざなう、そんな力をもっている。

 でも本当はそうなるほうが望ましいのではないかと遥太は思った。一方で、それを拒んでしまう自分もいた。

 そのときだった。

「……おばんかたです」

 突然、後ろから話しかけられたのだ。

「……!?」

 会話が通じるのかわからない。

 まだ振り返ってもいない。

 それにもかかわらず遥太は硬くなっていた顔をほころばせ、その場でフリーズした。自分の姿が見える人間がまだこの世界にいたのかと、思わず安心したからだ。

 どうして遥太のことが見えているのだろうかと不思議に思い、相手のほうを振り返る。

 まず目に入ったのはソイツの服装だった。

 インナーは光沢感あるベロア生地のカットソー。アウターにはカーキ色のモッズコートを着用している。そのミリタリー調がなんともカッコ良く、洗練された印象を持たせていた。ボトムスは黒スキニー。Yラインがより強調されて脚が長く見えた。足元にまで気を配っているのか、靴は黒で統一している。

 街中にいたら目を引くしゃだつかっこう。その正体は一体どんな奴なのかと視線を顔に移すと、遥太はきょうがくした。

 目鼻口の形、大きさ、位置。どれをとっても寸分の狂いなく正確。

 目の下と口の横のほくろ。主張は控えめだが、二つともそろっている。

 目線の高さが遥太とまったく同じ。すなわち身長が同じということ。

 ソイツは他人のそらでもなければ、生き別れの双子でもない。しょうしんしょうめい——中野遥太という人間そのものであった。

 この状況がにわかに受け入れられたかといえば嘘になる。が、すでに大変な目に遭っていたからか、そういうものだと遥太は受け入れるにかたくなかった。

 ただ同じ見た目をしているとはいえ、どことなくソイツは遥太よりも小綺麗で落ち着いた雰囲気があった。

 その装いを馬子にも衣装だよ、と当てこすってやりたかったが、遥太のいっちょうでも及ばなさそうな上等なものを確かにソイツは着慣れていた。

 ソイツの肌もまた遥太とは違って非常に綺麗だった。顔が同じ以上、無論肌の色素は同じなのだが、ソイツの肌は抜けるようなみずみずしさがあった。それはインフルエンサーにしばしば見られるテカテカと化粧品でいかにも綺麗に見せています、というものではない。何もいじっていないような元来肌が綺麗な人特有のサラサラとした美しさなのだ。

 なんとなくソイツは若者らしく青に侵されたことがないのではないかという気がした。温室育ちの御坊ちゃまの、青く叫ぶことを知らない、これまでけがれのないバージンの道だけを歩んできたかのようだ。

 ソイツがどうして遥太のことが見えているのか詳細な理由はわからない。けれど、同じ見た目をしているから認識できた、という理由で十分説明できるように思えた。

「なんの用だ? 世界に同じ見た目をした奴なんて二人もいらないぞ」

 三枚目の遥太が口を開く。するとソイツは

「随分と落ち着いていらっしゃいますね。まあ当然でしょうか。ここ数日間で色々とありましたから」

 と馬鹿な口ぶりで反応した。会話が通じることにひとまずあんする。

「ではボクがあなたに何をお伝えしたいか、たんてきに申し上げます。それは——」

「ちょっと待て」

 遥太は話を遮るように小さく叫んだ。ソイツはげんそうな顔をして口をつぐむ。

 そのとき、なぜか遥太はソイツが自分の中の何か重大な秘密を暴いてしまうのではないかという予感がしたのだ。

 一度呼吸を整える。

「悪い。続けてくれ」

 これから耳が痛くなるような話がなされるのだろう。どうしてか、そう確信した上で遥太は先を促す。

「……わかりました。それで簡潔に述べますとね……」

 たいぜんとソイツは返答すると、しばらく間を置くように押し黙った。そしてやっと口を開いたかと思うと

「現実見ろや。このクソガキ」

 なんて台詞を自身の身分もわきまえず言い放ったのだった。

「あなたももうお気づきでしょう。いつからでしょうか? まさか最初からとか言いませんよね」

「……なんのことだ? 伝えたいことはにごさずはっきり言ってくれ。5W1Hって知っているか? その通りにわかりやすく説明してくれ」

「はぐらかすつもりですか? こちらはすべて把握しているのですから、無駄ですよ」

 ソイツは綺麗な並びの歯を見せつけながら調子のいいことを言う。

「…………」

「……沈黙ですか? そういうところが弱いんですよ、あなたは。そうめいさが足りない。浅はかでしかない。でもそうだったんでしょう。自分にとって何か都合の悪いことを周りから指摘されるたび、最初はあーだこーだと極論を言う。どこで知ったのか、難しいをひけらかして。それで彼らをうまく言いくるめた気になっちゃって。だけど最終的に図星なことを言われると黙りこくる。せいぜいもの言えたとしてももんがたの威勢のない小言ばかり。たわいない頭でもう少しはっきりと考えたほうが良いのではないですか」

 かんなきまでにソイツは遥太をしっせきする。

「すみません。えんが入りました。とにかくボクが言いたいのはですね、これ以上ボクの世界を踏み荒らさないでいただきたい。こちらは迷惑しているんです。あなたが現実を見ずに理想の世界ばかり妄想して。おかげでボクが苦労して手に入れた世界にあなたが来てしまった。その結果、ボクは本来あなたがいるべき世界に行く運命になってしまった」

 ソイツの言葉によって忘れていた記憶の扉がこじ開けられていく。

 いや、今その事実を聞いてもさほど驚いていないということは、すでに気づいていたのだろうか。ならばいつからだろう。ソイツの言う通り最初からなのか。はたまた最近になってからなのか。気づいた上で真実を心の押し入れへ忍ばせて、必死に思い出さないようにしていたのかもしれない。この世界はとても居心地がいい。だから可能な限りずっとここで過ごしていたい。無意識にもそう思っていたのかもしれない。

おおかた、今のあなたには叶わないような出来事ばかり起こって、内心気持ち良かったのでしょう。模試の結果も返ってきたそうですし。どう思いましたか。まさかとは思いますが、自分が頑張ったわけでもないのに結果を見て喜ぶ……なんて滑稽な真似まねしていませんよね? 

 まあ何にせよ、あなたにとってはこの世界が理想的だったんですよね。あなたが想像の中で思い描いていたものがすべて実現している。そんなわけで、本当のことは忘れて残れる限りここに残り続けたいと考えたのではないですか」

 心中を見透かしたかのように言う。

 遥太はそれをひたすら受け身で聞くしかなかった。ソイツが吐く言葉はもはや独り言になっている。

「愚かですね。理想の世界ばかり憧れるなんて。そのせいであなたが本来大事にすべき世界を放棄してしまう。理想の世界なんて人間を駄目にするものです。夢もまた同じ」

 それまで黙っていた遥太も流石に今の言葉は聞き捨てならなかった。

「なんだ。お前は理想とか夢を抱くなって言いたいのか?」

 ソイツはかんはつをいれずに答える。

「そんなことは言っていませんよ。理想や夢の扱い方についての問題です。抱くのはいいんです。むしろ素晴らしいことだと思います。ボクが伝えたいのはですね、そこに執着しすぎてはいけないということです」

 あっけらかんとした口調で言うので遥太は拍子抜けしてしまう。

「ボクはあなたと同じ見た目をしているけれど、あなたとは似て非なる人間です。それもそうです。育ってきた環境が違えば吸収してきた知識の種類も違う。生きている世界がそもそも異なるのだから当たり前かもしれません」

 急に何を言い出すのだろうかと思う。

「今から話すのはボクの持論です。あなたが真に受けようが受けまいが、どちらでも構いません。あなたからしてみれば——これを自分で言うのはアレかもしれませんが——優れていると感じる存在のボクにとやかく言われるのは気に障ることしょう。何よりあなたにはあなたの考えもあるでしょうから。うまく言いくるめられた気になって無理に納得されるのはボクの本望ではないのです。

 それを承知の上で聞いてください」

 ソイツはご丁寧に前置きしてから話し始めた。遥太はそれを黙って聞き続ける。

「理想とか夢とかって本来叶えたいと思うからあるものじゃないんですか? 自分がそうありたいって少しでも願っているからこそ胸中から溢れ出てくるものなんじゃないんですか? もちろんそれが簡単に叶うとか実現できるとかは言いません。ボクにはそれを叶える力なんて持っていませんし、実現できるという保証もありません。だからあなた自身がそれを諦めたものとして納得しているなら構わないです。もうそれは仕方がないことなんだ、と甘んじて受け入れているのならボクには何も言いようがありません。

 けどそうじゃないなら、心のどこかで願っていることなら、自分に正直になるべきです。希望のほうはんな水やりをしたからって、素敵な華は咲きませんよ。それを少しでも育てたいと思うならちゃんと最後まで面倒を見るべきです。世話もせずに満足の華を結実させようなんて考えるのは愚かでしかありません。水を与えて日当たりを考慮してせんていする。そうやって毎日お世話をすることが大事なのです。その上で結果的に枯れたり害虫によってむしばまれたりしたとしても、そのときはきっとこぼれ種が次へのけいをもたらしてくれるはずです。

 そんなことを怠っているようじゃ、理想とか夢ってものは……ただの空想、ただの嘘だ。……伝わりますかね?」

 本当にその通りだな、と思う。

 遥太は自分の中に抱いた理想や夢というものを叶えたいと願っているのにもかかわらず努力を怠った。希望の萌芽の世話をろくにしなかった。

 努力をしていない以上、遥太が抱いている理想はただ頭の中で創り出した空想でしかないし、夢は名ばかりのはっきりした形をもたない嘘でしかないのだ。

 その果てには、遥太は理想や夢を断念した。

 それを致し方ないことだといさぎよく諦めているならまだ良かった。受け入れているのなら。

 しかし、実際は違う。遥太はそれらを完全に手放すことはできなかった。忘れたくても頭の片隅に叶えたいという思いが残っていた。

 その結果どうなったか。そう、この世界に来た。叶えようと努力をするのではなく可能性の世界に逃げて満たされようとした。とうげんきょうを求めたのだ。

 あまつさえ、その世界があまりにも夢見心地だったから入り浸ろうとした。想像の境地に入り込んで現実から目を背けようとした。

 まったく中野遥太というのは非常に面倒くさい人間だ。

 ため息が漏れる。

 そんな感情の中で遥太はふと、ある疑問を投げかけてみたくなった。

「理想や夢を思い描く、それってそんなにいけないことなのか?」

 理想や夢を想像することが絶対的に駄目なのか。想像することで救われることもあるのではないか。遥太はソイツの考えが知りたいと思ったのだ。

 ソイツは嫌な顔せず真剣に答えてくれた。

「絶対にいけないとは言いません。それがもし志を生育するためのやしになるのならば。ボクが批判しているのは、あなたが理想や夢の世界ばかり固執して、本来大事にすべき現実世界をないがしろにしていることです。

 どんなかんそんの土壌も丁寧に改良していけば、新芽が育っていく余地はあるんですよ。あなたの持つ土壌だっていくらでも。だけど、隣の芝生が青く見えるからといって他の土壌を羨むことを続ければ、あなたの土壌が荒れる一方です。あなたの土壌はあなたにしか管理のしようがありません。隣の芝生を見て学びを得るのはいいことですが、単にかれるだけならそんなものはそもそも見ないでください。視界に入れないでください。

 理想や夢の世界なんてただの虚構です。理想や夢に憧れて自分のものにしようと努めること自体はしゅしょうな心持ちですが、その世界ばかり想像して満足してしまうのは良くないんです」

 やはりソイツの話は耳が痛くなった。しばらく立ち直るのが困難になりそうなほどには心が折れた。

 だが、いずれも遥太にとっては必要なこと。いつかは自覚しなければならない大切なことだった。

「ボクが言いたいのはつまりそういうことです」

 ソイツは話を総括する。それから

「それを一言で伝えるなら……」

 と中途半端なところで区切ると、それまでの張り詰めた空気を払拭するように薄く笑いながら言ってみせた。

「現実見ろや。このクソガキ。……になります」

 遥太は今までのぶっちょうづらから和やかな表情になった。笑っているわけではない。それは諦念を含んでいる表情だ。もうソイツには敵わない。ありとあらゆる面で遥太はソイツに負ける。そんなことを思っている表情。ソイツは遥太より何枚もうわで、この美しい世界に似つかわしいいきな奴なのだ。

 ひたすらにカッコ良くて心惹かれる存在。

 ただ別に憧れはしない。いや、これだと誤解を与えかねないか。憧れるところはもちろんある。憧れはするけれど、ソイツになりたいとは思わない。おそらくこちらのほうが正しい。

 ソイツになりたいとは思わない、もっと言えば思ってはいけないのだ。もしソイツになることにこうでいしたら、また遥太の存在が揺るがされる羽目になるだろう。ソイツはソイツ、遥太は遥太なのだ。たぶんソイツもそういうことを願っている。

 遥太はただソイツの人物像を胸の奥深くに刻み込むだけ——

「ボクの話は以上です。もうここからはあなた自身の問題です」

 ソイツはそろそろ話を切り上げようとしている。その前に遥太はソイツに対して人間たるものこれだけは言っておかなければならないだろう。

「……悪かったよ。好き勝手お前の世界に入り浸って」

 するとソイツは笑みを浮かべ、何事もなかったように平然と答えた。

「別にいいですよ。そんなに気にしていません。それに最初のほうで十分あなたのことを罵倒できましたから」

 第一印象のときに比べて意外にもソイツは人間らしいところがあるものだと、遥太は不覚にも笑ってしまう。

「それはさておき。ボクは最終的にこれからどうするかの判断はあなたに委ねると言いました」

「……」

「ですが本当のところボクは、努力して何かになることをあなたが目指しているように感じるんです」

「……」

「もしそうなのであれば、世界は違いますけど、ぜひボクと一緒に頑張ってみませんか?」

「……」

 遥太はもう口を開くことができなかった。これは気持ちが揺らいでいたからではない。口を開こうと思っても開けなかったのだ。






 そこで遥太の夢は覚めた。

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