朝のHRが終わって、一限目の化学が始まった頃。

 授業で使うプリントが廊下側の列から順に、担当の教師によってその列の人数分渡される。それを受け取った最前の席の人は一枚取ってから残りを後ろにまわす。後ろの人もまた同じように続けていく。いつものルーティーン。

 盛りの過ぎた中年の男性教師は手の乾燥がひどいからか、紙をめくるのに手こずっている様子だった。

 ようやく遥太のいる窓際の列にプリントが渡されると、順々にバトンをつないでいく要領で後ろにまわされる。

 だが、その順調なリレーは眼前の席で足止めを食らった。遥太にプリントが回ってこないのだ。

 一瞬どういうことなのかと戸惑ってしまったが、すぐさまプリントが一枚足りなかったのだと理解した。そのため

「先生、一枚プリントが足りません」

 と何も言ってこない前の席の人をいぶかしげに思いながら、声をあげる。ところが、その言葉に返事はなかった。

 聞こえなかったのだと考え、椅子から立ち上がると、今度はもう少し大きな声で先程と同じ台詞せりふを口にする。けれど、これにも反応はない。

「演習プリントだ。分かる奴はどんどん問題を解いていっていいぞ。理系は受験で化学必須だからな」

 教師はチョークを持ちながらそう口を開くだけである。

「……?」

 ここまで言っても尚、遥太の声は彼の耳に届いていないようだった。……これはまさかアレだろうか。

 この教師はがっしりとした体つきで同年代と比べれば健康そうな見た目をしているが、年齢のことを考慮すればあり得ない話ではない。手の乾燥のこともある。つまり、何が言いたいのかというと、彼は難聴というやつになってしまったのである。耳が遠くなるほど体の機能が衰えてしまったのだ。

 なんて茶番劇を頭の中で繰り広げながら、すでに授業を始めている教師の元に近づく。

 まあ一番後ろの席ということもある。教室内は騒がしくないとはいえ、普通に気づいていないだけだろう。このときはそう思った。

「先生、僕の分のプリントがありません」

 教卓の前で再びプリントがないむねを伝える。遥太は当たり前のように「ああ、悪いな」といった言葉を期待した。そうなることが至極当然だと信じてやまなかった。

 それに反し、返ってきた言葉は異なるものだった。

あお、ここの答え何かわかるかー?」

 出席番号一番の青木が問題に答えるよう指名される。一体どういうことだろうか。

「先生のお手製印刷物を一枚いただけませんか?」

 結果は変わらない。

 この教師はとりわけ性格の悪い人でもなければ、遥太のことを嫌っているわけでもない。むしろ気前が良く、誰にでも公平無私な態度で接してくるような人である。

 このとてつもなく不穏にさせる心持ちは何だろうか。なんだかよく分からないが、世界の道理に反する事態でも起こっているような気がする。

 そしてその違和感の矛先はこの教師に限ったものではなかった。遥太のクラスそのものがどこかおかしいのである。

 普通であればクラスの前に立っていたら誰かしらの視線を感じてもいいはずなのに、それが一切ないのだ。これでは咳をしても一人どころか、そもそも咳をしていること自体誰も認識できないだろう。

 この違和感の正体はいやおうなしにある一つの結論を導き出した。それは——今自分は誰からも見えていないのではないか。

 遥太はファンタジーやスピリチュアルといったものにさして興味はない。宇宙人や幽霊、妖怪などといったもうりょうの存在を信じてもいない。それでも、ここまで状況証拠を突きつけられると疑いたくなくてもあり得ない話ではないな、と考えてしまうのだ。

 このことが嘘かまことかを判断するのは難しいことではない。一つ冗談を言えばいいのだ。

 遥太は意を決して、クラスの後ろまで届くボリュームで声を上げた。

「みんな、僕のことが見えなくなっちゃったのかな!?」

 教室内は相も変わらず平静としたまま。

 その言葉に笑い声が湧き上がることはない。それは決してこの学校の生徒が真面目故のものではなかった。

 いくら冗談がつまらないとしても、突然変なことを言い出したら、何かしらのアクションが起こっていいだろう。しかし、皆は前でやかましく振る舞う遥太をいちべつすることさえなく、化学の授業をする教師とにらめっこしているのだ。もう一度確認する。

「みんな、つまらない芝居はよしてくれ。誰か僕のことが見えているなら、なんか言ってくれよ」

 誰も何も反応しない。

 教師の前でかぶさるように授業の妨害をしても「見えないからそこを退いてくれ」という声はない。

 熱心に授業をする教師の肩に触れてみせても「授業中に肩をむな」など文句を言われることはない。

 そこに広がっている景色は変わらず、真面目に授業が展開されているだけ。

 違和感は認めざるを得ない異変へと変容する。

 流石に遥太も焦っていた。誰からも見えていなければ、声も聞こえていないし、触れても気づいてもらえない。そんな事実にただしゅうしょうろうばいするほかなかった。

「これはちょっとやばいよな」

 そのとき、図らずも教卓の上に出席簿が置かれていることに気づいた。

 「しめた!」と思い、遥太は出席簿を開く。名前があるかを確かめるためだ。

 単に姿が見えなくなっただけならまだ救いようがある。どうか名前があってくれと切に願いながら、出席番号一番の青木から順に名前欄を指で辿る。

 遥太の名前は、苗字が「中野」だから本来なら真ん中あたりにくる。それでも今はもったいぶるように一つひとつ見落とすことなく見ていった。

 だが、願いもむなしく何度見てもそこに中野遥太という文字列は見つからなかった。なにがし番目かの、いつもなら前後に来るはずの二人の名が、遥太を飛ばして並んでいることの意味を脳が処理するには、いくぶんかの時間を要した。

 天をあおぐ。他の人から見えていないことも考えものだが、存在すら認識されていないとはどうしたらいいのだろう。しばらく遥太は成すすべなくその場で立ちすくんでいた。

 断念して教室を出る。それに対して教師は注意をしなければ、クラスメイトは見向きもしない。

 何が原因なのかは見当もつかなかった。てんぺんが起こったのか。異世界に飛ばされたのか。あるいはすっかり忘れていた先週の異変と何か関係があるのかもしれない。ただ今の遥太には知る由もなかった。

「ここでくじけるのは早いよな……」

 八方塞がりかとも思われたが、まだ遥太には確認すべきことがあった。どれぐらいこの異常事態が作用しているかということだ。もしかしたらこの学校の誰かには遥太の存在が認識できるかもしれない。その上で駄目だったときは、そのときまた策を講じよう。とりあえず今はそのいちの望みにかけて、他のクラスへと足を運ぶ。


 まずは手っ取り早く隣のクラス。「失礼します」と言いながらドアを開ける。すると、低俗な話題を好むことで有名な再任用のおじいちゃん教員が古典の授業をしていた。

「この時代は婚姻届なんてないから、正式な結婚をするには男が初夜から三晩連続で女のもとに通って、まぐわい、すなわちs(ry」

「女子もいる前でなんてことを言うんだ。早く退職しろ」

 その教員の遠慮のなさに思わず口走ってしまうが、遥太の声は誰の耳にも届いていなかった。

 品性の欠けた授業をニヤニヤと笑いながら聞いている人もいれば、顔をしかめ、教員に対し眼差まなざしを向けている人もいる。

「失礼しました」

 教室をあとにし、他のクラスも同じように見ていく。

 四組は移動教室なのか誰もいない。五組は数学の授業をしていた。単元は微分法の応用で、教師が黒板につたない増減表やグラフを書きながらようようと説明している。生徒はそれを熱心に聞いていたり、勝手に市販の問題集を解いていたりなど様々だ。

 ただこちらもまた悲しいことに反応はない。

「また不発か……」

 次へまた次へと確認していくが、いずれもろうに終わった。そしてついに二年の教室が属するフロアの最果てまで来ると、一組から八組すべて全滅だとわかる。

 それでも遥太は諦めなかった。

「他学年なら何か違うかもしれないしな……」

 三年生はもう学校には来ていないため、渡り廊下を通りべつむねの一年生の教室に向かう。

 渡り廊下の先はちょうど部活の後輩がいるクラスだ。祈るようにゆっくりとドアを開けて入る。だが案の定といったところか、遥太に視線が注がれることはない。教室内をぶらぶらと散策したり、後輩をせっぷんしそうな距離で見つめたりしてみても、無意味だった。

 一年生もまた全クラス確認していったが、どのクラスでも結果は同じだった。

 一応、職員室にも行った。躊躇ためらいもせずドアを開け、ずかずかと中に入る。普通であれば、何かを言われて当然の立ち振る舞いだ。

 しかし、遥太は誰にもとがめられることはなかった。

「もう校内の人間には期待できないな……」

 一度自分のクラスに戻り、鞄を回収する。それから昇降口で靴に履き替え、学校を抜け出した。

 この異変は遥太をおとしいれるための学校そうの計略ではないだろうか。ならば学校外も確かめなければならないのではないか。

 なぜかそんな馬鹿ばかげた発想に至ったのだ。


 うれいのない広大な青が、平坦な土地に据えた家々や樹林、田畑などを際限なく包んでいる。いつもであれば特に興味を抱かない景色。今日はなんだか綺麗に見えた。

 遥太は車窓の外を眺めながら電車にゆらゆら揺られていた。

 まもなく学校は昼休憩を終えて五限目に入る時刻。遥太はあれから学校近辺を一心不乱に歩き続けた。徒歩圏内をはるかにりょうした範囲を昼も食べずにひたすら歩きながら、遥太のことが見える人間がいないかを確かめ続けた。声が聞こえるだけでもいい。何かしら反応をしてくれるだけでも救われる。だが、どれだけ祈ったところでそんな人が現れることはない。歩くたび可能性を失い、学校の最寄り駅から電車に乗る頃にはすっかりしょうすいしきっていた。ぼんやりと外の景色を見て自己までも失いそうになる。

 今から行くのは最後の場所。遥太がこれまで避け続けてきた場所。ここだけは遥太の存在が見えていてほしいと願ってやまない場所——中野遥太の家。家族に会うために行く。遥太との付き合いが一番長い存在に会うために行くのだ。

 家の最寄り駅がアナウンスされ、車内の案内表示器に文字が流れていく。まだ駅に到着していないのにもかかわらず遥太は立ち上がりドアの前で待機する。

 電車が目的地で停車すると、ドアが開きかけているところに体を滑り込ませた。一刻も早く確認したい。その衝動に駆られたのだ。

 人の波にもされることなく急ぎ足で改札まで進み、すでに手に持っている交通系ICをかざす。

 駅舎を駆け抜け、無心で家までの道筋を突っ走る。数時間前は悠長に歩いていた道だ。

 小学校の頃の友人宅を曲がると、道なりに同じ系統の家々が立ち並ぶ。その一角が遥太の家。もうすぐ家に着く。家に着いたら汗だらだらの遥太を見ながら「どうしたの。汗だくで。まだ学校があるんじゃないの?」と心配そうな顔つきで母親が出迎えてくれる。そうであってほしい。

 家の前。外観からでは実情はわからない。ただ今日は宿直明けの勤務ということもあり、流石に母親ももう仕事から帰っているだろう。

 ごくりとまっていた唾を呑む。それからドアのロックを解除した。

「ただいま」

 不安色が混じる声で一言。返事は聞こえない。

 玄関で靴を脱ぎ、リビングに続くドアの前で立ち止まる。母親は基本的にリビングで過ごす。

 まずは少し開けて中を確認すると、母親は窓辺でひとり静かに本を読んでいた。緊張が走る。しばらくしゅんじゅんし、ついに覚悟を決めるとドアを全開にした。

 すると視線が本から離れこちらを向く。そのとき遥太は母親が自分の存在に気づいてくれたのかと思い晴れ晴れしい気持ちになった。だが、それは一瞬のこと。視線は遥太に向けられたものではなかった。

「みゃー」

 二階から下りてきた猫のアノがひょうひょうと開けられたドアの隙間から入っていく。母親はその様子を見ていたのだ。

「母さん……」

「どうしたの。アノ。撫でてほしいの?」

「母さん!」

「本当甘えん坊さんなんだから」

 いくら呼んでも返事はない。

 急いで遥太はリビングの隅にあるキャビネットの中を物色する。いつもならここに遥太の保険証があるのだ。

「ない……」

 けれど、いくら探しても見つからない。母親と兄の保険証はある。遥太のものだけがなかった。

 今度は和室の押し入れの中。上段は母親の布団や他シーズンの寝具が入っており、下段は収納スペースになっている。収納スペースには母子手帳や幼い頃に大切にしていたおもちゃなどが保管してある。思い出の空間だ。

 勝手に押し入れの中を物色している様子は母親の目にどう映っているのだろう。特にこちらをうかがう気配はないので、うまく母親の目には留まらないように作用しているのだろうか。実際にはこんなにも和室内が物で散乱しているのに……。

 結果的にその押し入れの中に遥太の母子手帳はなかった。また遥太が愛着をもっていたおもちゃたちには兄の名前が書いてあった。

 家の中にある遥太自身を特定する物はすべて、そもそも存在していないか、別の人の私物に置き換わっていたのだ。

 遥太が存在しているというあかしはもはやどこにもない。

 これが悪夢なのだとしたら、バクでも誰でも今すぐに消化してほしいと思った。

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