異変が起こった日から一週間が経過した水曜日。

 携帯のアラームは六時半になるといつものように、その身を震わせ激しく主張する。

 うらうらとした春の兆しを感じさせるこの時期は、日和ひよりが良いからか一段と睡眠の質が向上する……はずなのだが、その日は朝からめっきり気分が悪かった。

 アラームの気勢が増しても尚、遥太はその相手をすることはない。息が詰まるような閉塞感と、どっしりと重く体にのしかかるようなけんたいかんさいなまれ、それを止める余力すらなかったのだ。その苦しみは体調が悪いときに抱くものというよりかは、金縛りや霊障といった存在を思わせるものだった。

 布団は身体からじんぞうあふれ出た汗を吸収したことで湿っており、喉はひび割れそうなほどに乾燥していた。辛抱たまらなくなり、どうにかベッドから起き上がる。そしてオアシスを求めるように一階のキッチンへ向かうと、すぐさまガラスのコップに水道水を注ぎ入れた。液体をぐびぐび体内に流し込み、こうかつちゅうすうとくしんさせる。

 コップのふちを歪な刃でもてあそびながら、学校に行くかどうかを考える。額に手をやり熱を確かめると、手動式体温計はエラーを起こしたのか数値を表示してくれない。諦めて通常の体温計を取り出し、ソファーに腰掛けながら測定する。

 母親は宿直勤務でそのまま今日も仕事のため面倒はかけられない。それに今日は四十五分の短縮授業だ。行けるなら行きたい。などとうつろな目で遠くを眺めながらおもんぱかる。

 少し経ち、ピピピと鳴らすそれを脇から抜き取ると、どうやら熱はないらしい。ひとまず学校には行けそうだ。

 

 大学生の兄もまた一足早い春休みに入り、何日か家を空けている。そうなると家にいるのは人間一人と猫一匹。二つの生命が呼吸音と生活音とともにせいひつな時を刻んでいる。

 「あーん」と可愛い声を上げる飼い猫のアノにまずは朝ご飯を出してあげる。その後に遥太のご飯。ひっそり閑としたキッチンで、立ったまま食パンとチーズとゆで卵をしょくす。皿なんて用意しない。食パンも焼くのが面倒くさいのでそのまま口の中に放り込む。

 そのままごくりとみ込むと、牛乳で喉を潤す。以上これで朝食終了。

 朝食を簡単に済ました甲斐かいあって、登校時間まで随分と余裕があった。そのためゆっくりと学校に行く準備をしていると、朝の容体が嘘のように良くなっていることに気づいた。

 この調子で今日も一日を平穏に過ごそう。そんなことを思いながら腕時計に目をやると、結局いつもと変わらない時刻。そろそろ家を出なければ、学校の朝礼時間に間に合わない。玄関の上がりかまちに腰掛け、履き慣れた靴のひもをいつもより固く結ぶ。それから誰もいない家内に向かって行ってきますと告げ、外の世界に足を踏み入れた。

 冷たくも暖かみを帯びた風が体にまとわりつく。それがなんとも心地よい。春の気配が濃くなってきたことに嬉しさを見出すなんて、遥太は実にぼってきだなと感じる。

 最寄り駅までの道のりをひとり軽い足取りで進んでいく。道中、犬を連れた老年の女性やランニングをする大学生ぐらいのお兄さんを見かけたが、特に気にも留めず駅へ向かう。

 いつもと変わらない日常のひとまくし方も行く末も続く面白味のない日々。無論、いつかは終わりが来るのだ。三年生は先日の卒業式をもって新しい舞台へと羽ばたいていった。今度は遥太の番。逃げたくても逃げることのできないたくさんの選択が遥太の前に立ちはだかっていく。そのたび遥太はいずれかを選ばなければならないし、そのためにはやはり相応の努力を要するのだろう。

 そんなことを思うと少しうっくつとした気分になった。

 見慣れた街並みに思いを募らせながら駅に着くと、目的の電車を待つ。駅のホームは通常運転。あくびをする社会人や各々異なる制服を着た中高生などで溢れ、ざっとうとしていた。

 毎日乗っている電車が来ると、乗り慣れた車内に身を投じる。運が良いことに今日は端の席が空いていた。そのままその席に座り、遥太の席だと言わんばかりにくつろぐ。

 電車が乗客たちを一日の活動の本拠地へ運んでいるなか、遥太は普段はまったく気にしない数多あまたの車内ポスターに目がいった。

 英会話を学んで英語力の向上を目指すポスター。美容整形を施して圧倒的な美しさを手に入れることを提案するポスター。どれもそれらがすでに足りている人にとっては一切関係のないものなんだな、と思う。英語を母語とするネイティブスピーカーにとっては英会話なんていらないし、生まれつき完成された美貌を持ち満足している人にとってはそれらのポスターに目もくれないだろう。それでも今こうして車内ポスターとしてけいようされているのは、英会話も美容整形も、この世界の誰かしらにとっては必要とされる存在だからだ。もしこの世界の人たち全員がすでに満たされているものならば、そもそも存在し得なかったはずだ。

 なぜかそんな当たり前のことを、遥太は電車に揺られながら思い巡らすのだった。

 何十分かかけて学校がある駅に到着すると、ホームから改札まで進み、駅舎を抜け出す。この時間帯この駅で降りる人は同じ学校の生徒が多い。皆が同じ目的地へと歩み描いていく道筋を、遥太は辿たどる。

 無事学校に着くと、昇降口で靴を履き替える。

 履き替えたら教室へ向かう前に、まずはトイレで身なりを整える。

 代わり映えのない退屈な一日の始まり。

 遥太はこのときまで、誰一人とも話すことがなかった。だからこそ、この後遥太にどんな災難が待っているか想像もつかなかった。

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