ナカノヨウタの変貌

正野雛鶏

「何かがおかしい」


 春休みの近い三月のある朝、居心地の悪さを感じ目が覚めると眠気の残った声でおもむろにつぶやいた。枕元の携帯を開くと時刻は六時四十分を示している。

 最初は何かの思い違いだろうと特に気にも留めず、もう一眠りしようかと考えた。本能がまだ眠りたいと言っていたし、朝から思慮を巡らせる気にはなれなかったからだ。

 だが何かの因果によるものか、気持ちは眠りたいと思っているのにもかかわらず目はすっかり冴えてしまっている。カーテンのあわいからご挨拶する陽気な朝日がまぶしい。これではいくら眠ろうと励んでも全然眠れなかった。

 観念して起きることを決意する。

 柔らかく包み込む掛け布団を身体から剥ぎ取り、ベッドの端から足を下ろす。そのまま頭側にまわりカーテンを開け放つと、光量の激しい朝日に目をしばたたかせながら再度呟いた。

「やっぱり何かがおかしい」 

 では一体何がおかしいのだろうかと今度こそは頭を働かせてみるが、これがちっとも思い浮かんでこない。寝起きの前頭葉をどれだけ刺激しても、シグナルがうまく伝達されない。何かがおかしいという意識はあるし、途中まではその何かも出かかっている。ならばそれを妨害するシステムでも機能しているのだろうか。

 ひとまず思考を放棄する。

 思い出せそうなことが、思い出せないというのは非常に気持ちが悪い。だとしても脳がそれを思い出させてくれない以上、主体にはどうすることもできない。変にしいたげ、奥底へと引っ込み、二度と想起させることのできない記憶になられるほうが困りものだ。

 気をまぎらわせるように、部屋の隅にあるほこりかぶった全身鏡を見つめる。

 これでもし見た目が美女にでも変貌を遂げていたら、映画の主人公のようにれつな物語が始まるのかもしれない。そうなったら味気ない日常も魅力的になるのかもしれない。束の間、そんないささかの期待を抱いた。しかし残念なことにそこに映っているのは、のっぺりとした顔つきのまごうことなきなかようという人間である。

 しょうとくたいらんせいそうせいのような顔。そのつらにはアクネ菌による青春の象徴が叫びをあげている。その存在感ははなはだしく、自我までをも侵略する模様だ。

 少しでも表情をほがらかにしようと、ニカッと歯を出して笑ってみせる。するとリアス海岸のようないびつな刃がこちらを冷笑した。

 背丈は今世で一七〇の大台に乗るのが厳しそうな有様。たいは乱世で真っ先に壊れそうな軟弱なものである。

「これが現実か……」

 ただでさえ重力に負けているまぶたがいつも以上に垂れ下がる。

 何をおかしいと思ったのかは依然としてわからない。ただ鏡を見て現実を知ったことによるものか、自分が他ではない生々しい自分だと証明されたような気がしてなんだか安心した。

 遥太は今日もまたいつも通りの一日が始まるのだと意気込む。そのときだった。

「よーちゃん! 遅刻するわよ!」

 一階からき立てるような声が響いてくる。母親の声だと認識するも、遥太は頭に疑問符を浮かべた。

「これはどういう風の吹き回しだ?」

 思っていることがそのまま言葉として発せられる。

 今母親は、学校に遅刻するから早く準備しなさいという意の言葉を口にした。これは単にこの母親が急かしている可能性もあるが、心なしかその声色には、いつもより時間が遅いから急ぎなさいというがんがあるように感じた。けれど、これはおかしいのだ。この時間はまだ登校時間までに十分余裕があり、急ぐ必要性はないはずなのである。だから朝まだ寝ていようなんて考えがあった。

 しかしながら、勝手にそう思っていただけで、母親の物言いもどこかに落ちる。いつもより時間が遅いから急がねば、などと思う節もあるのだ。

 りつはいはん。アンチノミー。二つの事象が同時に存在することはあり得ない。

 どことなく、きな臭い感じがする。うたぐぶかくなっているだけなのかもしれないが、朝に異変を感じたのは確かだった。何かおかしなところがあっても不思議ではない。

 いずれにせよ時間がないとなれば、ゆうゆうと考え込んでいる暇はない。急いで制服に着替え、学校に行く支度をし一階のダイニングに向かった。


 階段を降りると食卓の上に並べられた朝食を見てまたも驚かされた。

 湯気の立つ白ご飯にしる、よくあぶらの乗っていそうな焼き魚に、ふっくら鮮やかな卵焼き——それは典型的な和食であった。

「……僕は朝からこんなブルジョワに染まっていたかな」

 ぽつりと言葉を漏らす。

 しかし、いざその光景をそうだと意識すれば特に変だとも思えない。というか今まで通りのありふれた光景に見えてくる。

 立て続けのこの違和感。やはり何かあるのだろうか。

 異様な状況に再び思考を巡らせていると、朝食の良い匂いがたちまち遥太のこうをくすぐった。

 遥太という人間はどうやら自身の身分をわきまえ欲に忠実らしい。ごくりと喉を鳴らすとえられず、果てには食欲が勝ってしまったのだ。

 まあこの際何が起こっていようと構わない。とりあえず今はこの状況を無視して朝食を楽しむことにする。


 朝食を平らげた後、ダイニングの掛け時計を見ると、長針と短針は七時十分を伝えていた。

「母さんも急かしていることだし、そろそろ出るか」

 せわしなく歯を磨きトイレを済ます。玄関へ向かう前に母親から弁当を受け取ると、「ありがとう。行ってきます」と告げ家を出た。

 記憶が曖昧になっている中でも、流石さすがに学校までの経路はわかっていた。まず家から十数分かけて最寄り駅まで行く。そこから在来線で一本。目的の駅で降車し、再び十数分歩いた先だ。

 最寄り駅までの道のりをただ進んでいく。だが、家を出てから少し進んだときのこと。道は把握しているにもかかわらず、なぜか遥太の意思ではない何かに導かれているような感覚がしたのだ。それは電車に乗ってからも続き、降車する駅はわかっているはずなのに「ここはまだ降りる駅ではない」と脳内に語りかけられているようだった。

 促されるようにして学校がある駅で降りる。駅から学校までもやはり遥太の意思は作用せず、体は同じ制服をまとった人々の波にゆだねられた。奇妙だなと思いつつ謎の力に引き寄せられて、八時二十分、ようやく学校に到着する。

 目に入ったのは県内有数の進学校。

 学校の所在地は認識していたはずなので、通っている学校も当然理解しているはず……だったが、遥太は当たり前のように高校二年生のこの時期までこの場所で学校生活を送っていたという事実が信じられないように思えた。ただこれも、そうだと言われればそのようにも感じた。

 見慣れた景色のはずが未知のように感じられる。これがいわゆる、未視感ジャメヴという現象だろうか。

 流れるまま教室に着くと、これまた流れるまま窓際の一番後ろという主人公席ともいえる席に座る。

 クラスメイトたちは四方八方に散らばっており、教室内は騒然としていた。遥太はどういうわけかその様子には既視感デジャヴを覚えていた。もっとも毎日見ている景色なのだから、その言葉を使うのは誤りなのかもしれないが……。

 教室には友達と楽しそうに話している人もいれば、ひとり単語帳を開いて勉強している人もいる。

 何気なく付近を見渡していると、教室に入る面々に見知った顔があった。遥太と同じ中学出身で、中学時代は所属する美術部のコンクール等でよく表彰されており、勉学でも成績優秀だった女子生徒だ。

 背は同年代の女子と比べて高く、遥太と同程度だろうと思われた。髪は傷みのないつややかな黒髪で、ミディアムといえる長さで切りそろえられている。学校指定のセーラー服が窮屈そうに着用され、細いフレームの丸眼鏡が鼻の上に小さくたたずんでいた。まさしく彼女はせいとか真面目といった印象だ。

 その彼女はクラスメイトに挨拶しながら遥太の隣の席に座った。

 遥太もまた彼女に挨拶するとにっこりと微笑ほほえんで返してくれた。

 なんとなくここまで露骨なタイプの人間を見るのは久しぶりだな、といったことが頭に浮かんだ。とはいえ考えてみれば、同じ学校ましてや同級の仲間として一年間一緒だったのだから変な話である。

 本鈴が鳴り、教室に荷物を抱えた担任が入ってきた。朝の挨拶を皮切りにHRが始まる。そこで担任が

「二月上旬に受けた模試の結果を返却する」

 と口を開くと番号順に、採点された答案と偏差値や順位などが書かれた成績表が渡される。

「俺今回の模試めちゃ解けたから全国一位狙えるわ」

「嘘つけ。どうせ校内最下位だろ」

「それはお前な」

 教室内は楽しそうな雰囲気に包まれている。

 色々な声が入り混じる中、遥太の順番がまわってきた。

 担任から諸々もろもろを受け取る。次から次へと他の人が続いているため即座にその場を離れて席に座る。本来こういうものは一人で確認するのがセオリーなのだ。覚悟を決め、成績表に視線を落とす。と、偏差値、全国順位ともにそこそこで、ものすごく良くはないけれど決して悪くはない成績が目に入った。

 遥太は結果にとして胸をでおろす一方、自分はこんなにも成績が良かっただろうか、ということが脳裏をかすめた。何よりも驚いたのは全教科総合の校内順位が一位だということだった。

 色々なことが脳内をこうさくする。だが、途端にそんなことはどうでもいいかと遥太は思った。どうせこの違和感もまたくだんの現象なのだろう。すべての疑問はそれで解決でいいのではないか。それよりも今は結果にとうすいしていたい。余分なことは適当に片付けて気にせず結果に見惚みとれさせてくれ。ただそう思ったのだ。

 すると成績表を受け取り戻ってきた隣の席の彼女が、申し訳なさそうな顔をして遥太に話しかけてきた。

「ごめん。意図して盗み見ようと思ったわけじゃないんだけど……。結果が見えちゃって。やっぱり相変わらず中野くんは賢いね」

 彼女は謝りつつくったくのない声で遥太のことを称賛する。

 見られたことに抵抗がないわけではないが、それ以上に褒められたことに遥太はうれしくなった。自尊心が高まる。気持ちがいい。もっと褒めてほしい。

 ただそれをそのまま口にするわけにはいかないので、とりあえず無難な返答をする。

「……えーっと。あっ、ありがとう」

 下心は包み隠してあえて間の抜けたような言い方をする。策略。

「ふふ。次は私も負けないから」

 彼女はくすっと笑いながらささやかな宣戦布告をすると席に着く。

「……」

 そうこうしている内に一限目の英語が始まる二分前になる。急いでかばんから使い古された教科書と愛用の筆記用具を取り出した。


 チャイムが鳴り、担当教師がさっそうと教室に入ってくる。余談はない。その教師はテキストを片手に収めると、迷うことなく黒板にアルファベットを羅列していく。そして、ここはこういった文法が使われているだとか、入試に良く出るだとかを物の見事に伝えていった。

 間を置くことなく進んでいく授業に対し、一部内職をしている人も見受けられるが、生徒たちは多く真面目に話を聞いていたり、自分なりにテキストを進めていたりしていた。

 

 放課後になると今朝の異変なんてものは勘違いだったかのように、遥太はすっかり環境にじゅんのうしていた。

 友達や先生の顔と名前はしっかり把握していたし、学校や近辺の風景も確実に見覚えがあったのだ。

 そうなると数日間も同じような生活をしていれば、何があったのか思い出せないほどに忘れてしまっていた。

 あんなことが起こるまでは……。

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