ナカノヨウタの変貌
正野雛鶏
一
「何かがおかしい」
春休みの近い三月のある朝、居心地の悪さを感じ目が覚めると眠気の残った声でおもむろに
最初は何かの思い違いだろうと特に気にも留めず、もう一眠りしようかと考えた。本能がまだ眠りたいと言っていたし、朝から思慮を巡らせる気にはなれなかったからだ。
だが何かの因果によるものか、気持ちは眠りたいと思っているのにもかかわらず目はすっかり冴えてしまっている。カーテンの
観念して起きることを決意する。
柔らかく包み込む掛け布団を身体から剥ぎ取り、ベッドの端から足を下ろす。そのまま頭側にまわりカーテンを開け放つと、光量の激しい朝日に目を
「やっぱり何かがおかしい」
では一体何がおかしいのだろうかと今度こそは頭を働かせてみるが、これがちっとも思い浮かんでこない。寝起きの前頭葉をどれだけ刺激しても、シグナルがうまく伝達されない。何かがおかしいという意識はあるし、途中まではその何かも出かかっている。ならばそれを妨害するシステムでも機能しているのだろうか。
ひとまず思考を放棄する。
思い出せそうなことが、思い出せないというのは非常に気持ちが悪い。だとしても脳がそれを思い出させてくれない以上、主体にはどうすることもできない。変に
気を
これでもし見た目が美女にでも変貌を遂げていたら、映画の主人公のように
少しでも表情を
背丈は今世で一七〇の大台に乗るのが厳しそうな有様。
「これが現実か……」
ただでさえ重力に負けている
何をおかしいと思ったのかは依然としてわからない。ただ鏡を見て現実を知ったことによるものか、自分が他ではない生々しい自分だと証明されたような気がしてなんだか安心した。
遥太は今日もまたいつも通りの一日が始まるのだと意気込む。そのときだった。
「よーちゃん! 遅刻するわよ!」
一階から
「これはどういう風の吹き回しだ?」
思っていることがそのまま言葉として発せられる。
今母親は、学校に遅刻するから早く準備しなさいという意の言葉を口にした。これは単にこの母親が急かしている可能性もあるが、心なしかその声色には、いつもより時間が遅いから急ぎなさいという
しかしながら、勝手にそう思っていただけで、母親の物言いもどこか
どことなく、きな臭い感じがする。
いずれにせよ時間がないとなれば、
階段を降りると食卓の上に並べられた朝食を見てまたも驚かされた。
湯気の立つ白ご飯に
「……僕は朝からこんなブルジョワに染まっていたかな」
ぽつりと言葉を漏らす。
しかし、いざその光景をそうだと意識すれば特に変だとも思えない。というか今まで通りのありふれた光景に見えてくる。
立て続けのこの違和感。やはり何かあるのだろうか。
異様な状況に再び思考を巡らせていると、朝食の良い匂いがたちまち遥太の
遥太という人間はどうやら自身の身分をわきまえ欲に忠実らしい。ごくりと喉を鳴らすと
まあこの際何が起こっていようと構わない。とりあえず今はこの状況を無視して朝食を楽しむことにする。
朝食を平らげた後、ダイニングの掛け時計を見ると、長針と短針は七時十分を伝えていた。
「母さんも急かしていることだし、そろそろ出るか」
記憶が曖昧になっている中でも、
最寄り駅までの道のりをただ進んでいく。だが、家を出てから少し進んだときのこと。道は把握しているにもかかわらず、なぜか遥太の意思ではない何かに導かれているような感覚がしたのだ。それは電車に乗ってからも続き、降車する駅はわかっているはずなのに「ここはまだ降りる駅ではない」と脳内に語りかけられているようだった。
促されるようにして学校がある駅で降りる。駅から学校までもやはり遥太の意思は作用せず、体は同じ制服を
目に入ったのは県内有数の進学校。
学校の所在地は認識していたはずなので、通っている学校も当然理解しているはず……だったが、遥太は当たり前のように高校二年生のこの時期までこの場所で学校生活を送っていたという事実が信じられないように思えた。ただこれも、そうだと言われればそのようにも感じた。
見慣れた景色のはずが未知のように感じられる。これがいわゆる、
流れるまま教室に着くと、これまた流れるまま窓際の一番後ろという主人公席ともいえる席に座る。
クラスメイトたちは四方八方に散らばっており、教室内は騒然としていた。遥太はどういうわけかその様子には
教室には友達と楽しそうに話している人もいれば、ひとり単語帳を開いて勉強している人もいる。
何気なく付近を見渡していると、教室に入る面々に見知った顔があった。遥太と同じ中学出身で、中学時代は所属する美術部のコンクール等でよく表彰されており、勉学でも成績優秀だった女子生徒だ。
背は同年代の女子と比べて高く、遥太と同程度だろうと思われた。髪は傷みのない
その彼女はクラスメイトに挨拶しながら遥太の隣の席に座った。
遥太もまた彼女に挨拶するとにっこりと
なんとなくここまで露骨なタイプの人間を見るのは久しぶりだな、といったことが頭に浮かんだ。とはいえ考えてみれば、同じ学校ましてや同級の仲間として一年間一緒だったのだから変な話である。
本鈴が鳴り、教室に荷物を抱えた担任が入ってきた。朝の挨拶を皮切りにHRが始まる。そこで担任が
「二月上旬に受けた模試の結果を返却する」
と口を開くと番号順に、採点された答案と偏差値や順位などが書かれた成績表が渡される。
「俺今回の模試めちゃ解けたから全国一位狙えるわ」
「嘘つけ。どうせ校内最下位だろ」
「それはお前な」
教室内は楽しそうな雰囲気に包まれている。
色々な声が入り混じる中、遥太の順番がまわってきた。
担任から
遥太は結果に
色々なことが脳内を
すると成績表を受け取り戻ってきた隣の席の彼女が、申し訳なさそうな顔をして遥太に話しかけてきた。
「ごめん。意図して盗み見ようと思ったわけじゃないんだけど……。結果が見えちゃって。やっぱり相変わらず中野くんは賢いね」
彼女は謝りつつ
見られたことに抵抗がないわけではないが、それ以上に褒められたことに遥太は
ただそれをそのまま口にするわけにはいかないので、とりあえず無難な返答をする。
「……えーっと。あっ、ありがとう」
下心は包み隠してあえて間の抜けたような言い方をする。策略。
「ふふ。次は私も負けないから」
彼女はくすっと笑いながらささやかな宣戦布告をすると席に着く。
「……」
そうこうしている内に一限目の英語が始まる二分前になる。急いで
チャイムが鳴り、担当教師が
間を置くことなく進んでいく授業に対し、一部内職をしている人も見受けられるが、生徒たちは多く真面目に話を聞いていたり、自分なりにテキストを進めていたりしていた。
放課後になると今朝の異変なんてものは勘違いだったかのように、遥太はすっかり環境に
友達や先生の顔と名前はしっかり把握していたし、学校や近辺の風景も確実に見覚えがあったのだ。
そうなると数日間も同じような生活をしていれば、何があったのか思い出せないほどに忘れてしまっていた。
あんなことが起こるまでは……。
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