第10話 成らずの柿

 土曜、朝からリュック姿のソラは、京都の南、木津駅を出た。目的地はここから徒歩10分ほどのところだ。

 小町は、リュックの中、モスグリーンのA4版の小ぶりなスケッチブックの中だ。

 美紅から改めて詳しく教えてもらったところ、「成らずの柿」を継承しているという木は、平重衡の首洗い池からそう離れていない、神社の森にあるという。

 ソラは住宅街の細い道を抜けて木津川の方へ向かった。しばらく歩くと、大きな車通りに出る。道の向かい側には立派な赤い鳥居が見え、その後ろにこんもりと広がる神社の森が見えた。

あれが目的地だ。

 ソラは、神社の鳥居はくぐらず、社務所らしき建物の裏手に回って道を探す。美紅の話によれば、社務所の裏から神社の森に入った所だという。

 ここから行けるんじゃないかな、と、田んぼの畦道に降りていく。

 細い道は、社務所の裏を抜けてすぐに神社の森に続いていた。森は杉が高く繁り薄暗い。ソラは、枯れ葉の積もる道を進んで森に入り、周りを見回した。

 辺りは背の高い木ばかりで、普通にイメージする柿の木はありそうには思えなかった。

「美紅の話だと、森に入ってすぐの所にあるって言ってたんだけど、柿の木ってこんなとこにあるのかな。看板もあるからすぐわかるって言ってたのに……」

 その時、ソラは半分朽ちた木の札のある木を見つけた。

「これが柿の木?」

 看板には消えそうな文字で、確かに「成らずの柿」とあった。

 本当にあった。

 ソラは、木を見上げた。その木は周囲の木々に負けまいとヒョロリと上へ伸び、随分上の方に枝を伸ばしている。一見、柿の木には見えなかったが、上を見ると、高くにある枝の葉は周囲の針葉樹と違って馴染みのある柿の葉だ。

 森の端に植えられたのが、神社の森に飲み込まれる形になったのかもしれない。

「周りの木に負けなかったんだ。えらいなあ。よく、枯れずに頑張ったんだね」

 見上げた枝の葉陰に、黄緑の小さく丸い物を見つけた。

「あれって、柿の実かな? 小町さん、見て」

 ソラはスケッチブックを開いて、小町を出した。

「確かに柿ね」

 薄い黄緑の小さい実らしきものが見える。本来の柿ならこの時期もうとっくに大きくなっているところだが、この森の中だ。遅いこの時期にやっと実をつけたのだろうか。それとも、他に理由があるのか。

 枝をよく見ると、同じような実が幾つも成っている。

「本当に、この木に柿の実がなろうとしているんだ。……小町さん、本当に戦争って起こるのかな?」ソラは心配そうに小町を見る。

「そこまではわからない。でもこの木が『天の依代』であることは間違いないわね。この木からは、すごい気の力、熱量を感じるわ。

 一般的に依代って言うのは、神の宿る物っていう意味なんだけど、簡単に言うとね、天の力に通じるもの、『天界の窓』のようなものって考えたらわかるかしら。天の世界と通じているのよ。この柿の木からは、ただならぬ気の熱量を感じるわ」

「天っていうのは、神さまの世界ってこと?」

「そうね、人は、古来より自分たちの理解を超えたものをわかりやすく擬人化していたのよ。天といわれる世界は、この現世とは次元の違う世界、より高次元の世界と言っていいかしら。高次元には様々な存在がある。それらはこの現世では実体を持たないわ。人は自分たちの理解を超えたそれらに神の名を与えたのよ。そして、重要なのは、二つの世界はエネルギー的につながっていて、互いに影響しあっているということよ。そのエネルギーを気と呼んでいるわ」

「この木から何か起きるのかな」

「そこは、ちょっとわからないわね。この依代についてもう少し調べてみないと」

 辺りの雑木林をしばらく調べてみたが、それ以上何の手掛かりも見つけられなかった。

 そこでソラは、近くにある平重衡由来の首洗池へ行って見ることにする。

 池は、すぐ近く、木津川の土手のそばにあった。川幅も広く、とうとうと流れる木津川、その土手の上を電車が走って行く。土手の手前に、雑草に埋もれそうな小さな石碑と説明書きを見つけた。「平重衡首洗池・不成柿(ならずかき)」とある。その傍には、風に葉を揺らして柿の木が一本、木には大きな青い柿の実が鈴なりに成っていた。これが今の観光ガイドにある「成らずの柿」だが、こちらは今では毎年のように実が成っているという。

 ここは、その昔源氏に敗れた平重衡が、木津川の河原で処刑されたとき、その首を洗ったと伝えられる「首洗い池」だ。戦争が起きるかもしれないという不吉な話を知った後では、辺りの風景一つひとつが違って見えてしまう。

 ソラは、スケッチブックを開けて、小町さんに話しかけた。

「どう小町さん、これが今の『成らずの柿』だよ」

 しばらく木を見て小町が言った。

「ここはさっきの依代より気の熱量は少ないわね。でもこの辺り一帯は、大地からの熱量が凄いわ。ソラにもわかりやすく言うと、まあ、高熱の温泉が吹き出す所、そんな感じね。大地の深い所から、気の熱がこの辺り一帯に湧き上がっているのを感じるわ。ただ、もっと生々しいマグマのような熱量を想像してたんだけど。まだそこまでは感じないから、熱源そのものはまだ噴き出してないというところかしら。壁一つ向こうに感じるわね。でも噴き出す前でこの熱さって、ちょっと恐ろしいわね」

 ソラは小町と相談して、近くの安福寺へも足を運ぶことにする。平重衡の墓と伝えられる十三重石塔が建てられているお寺だ。

 住宅街を抜けると突然、白い土塀に守られた安福寺の前に出た。

 小さなお寺だが、一際高い瓦屋根の哀堂(あわんどう)と呼ばれる本堂が見える。平重衡の死を人々が哀れみ、その葬られた地に建てられのが由来らしい。ここは観光寺ではないので、特別な時以外はお堂までは公開されていない。が、境内へ入ることはできるようだ。

 ソラは門をくぐり、ひっそりとした境内に入った。

 正面に見える哀堂の扉が開いている。

 この暑さで、風でも通しているのか、あたりには人もいず、蝉が一匹激しく鳴いていた。

「ちょっと覗いてみようか」

 ソラは、お堂の中をそっと覗いた。清々しい畳の広間が広がり、その正面には立派な本尊、左壁に、いかにも由緒ありそうな一枚の掛け軸があった。烏帽子の男性が描かれている。

「あの掛け軸の絵、呼び出せないかな」

「確かにあれは平重衡様よ。でも、あれだけの方、あなたにはまだ難しいかもしれないわね。もう少しそばに寄ってみましょう」

 ソラは、「ちょっと失礼しまーす」と靴を脱いでお堂に上がった。

 そのまま掛け軸の前に進むと、そこに正座して膝にスケッチブックを置いた。

 誰かやって来ないかと言う不安も少し心をよぎったが、お寺だし、怒られないよね、と勝手な言い訳をして、目の前の掛け軸をよく観察する。

 ソラは心を決めると掛け軸の重衡像を見つめ、心を静めていった。

 小町の話によれば、呼び出すには相性の前に、絶対的な力の差、「格」みたいなものがあり、ソラは、神子としてはまだまだひよっこだと。

 ――やはり無理なのかな

 そんな弱気が、心の奥から湧き上がってくるのを、必死で押さえ込む。

 三校対抗戦以来、ソラは自分に対する見方が少し変わってきたように感じている。ぼんやりとしていた自分というものの輪郭が、前よりも少し形のあるものとして感じられるようになってきた気がする。これが自信と言うんだろうか、最近は、ふとした瞬間に自分がここにいていいんだと思えて、これまでためらってやらなかったことにも動くことが増えてきたのを自分でも感じる。

 先程までうるさいほど大きな声で鳴いていた境内の蝉が、いつの間にか泣き止んで、お堂の広間に、風が吹いた。

 汗ばんだうなじに風を感じたその時、ソラの手が動き出した。

 動き出せば、それはあっという間だった。描けた。

 ソラは、鉛筆をポケットに戻すと両手でスケッチブックを広げて、絵と向き合った。

 スケッチブックには、烏帽子に白い狩衣姿の、平重衡の姿があった。

 うまくいったのかな。

 ソラは、一つ息を吸うと恐る恐る声を出した。

「平重衡様ですか?」

 スケッチブックの中の重衡は、何かのスイッチがパチリと入ったかのように突如、身体を動かし、ソラを見上げてうなずいた。

「できたな、たいしたものよ」もう一枚の紙にいる小町が微笑んだ。

「重衡様、あの『成らずの柿』について教えていただけませんか。今、この世界がとても心配なんです」

 ソラは、真っ直ぐに尋ねた。

「確かに、この天地のありようは、これまでにない恐ろしいものを感じる。まろにわかることは伝えよう。

 して、こちらの方は……、もしや古に伝え聞く小野小町殿か、これは稀有な。できれば歌の話でもお聞かせいただきたいものじゃ。あ、すまぬ、『成らずの柿』のことじゃったな」

 重衡は、ソラの方を向いて居住まいを正す。

「まろも、ここを守護する役を務めて、初めて理解したことじゃがな。まずこの天と地の理(ことわり)から話さねばならぬだろう。天と地は、互いに通じ合い影響しあっておる。大切なのは、その両方がなければ、互いは存在できぬということじゃ。天あっての地、地あっての天だ。天と地、わかりやすく、天を神の世界、地を人の世界と言い換えても良いだろう。その方が、人には分かりやすいかのう。天の存在、神は人に祈られることでその存在を強くし、地にいる人は神と通じることでその恩恵を受けるのだ。

 現世であるこの地には、気脈の流れがあっての、それがところどころで天と繋がる所がある。大抵は、こうして神社や寺などとして、長く人から祀られることで、その気脈は太く成って行くのだが、今は、そのつながりも時と共に薄れ途切れていっておる。天とのつながりが途切れてしまえば、どうなるのであろう。まろもただ、祈るばかりじゃ。

 この木津の地はな、この国の気の流れの要となる所の一つ。それも特にこの国の中心をなす大きな要衝。だが、それも長い間に忘れられてな、ここを守る役目を担う者もどんどん減っておる。このお寺も、かろうじて気脈を繋ぐその一助にはなっているが、雀の涙よ。

 そうしたこの天地の道理、まろでさえ、こうしてこの地に長く居って初めてその理を知ったのだから、それも仕方ないことか」

 重衡は、悲しそうに頭を振った。

「それで、ここからがあの柿のことじゃ。神は人の祈りを得て、存在を強めると言ったがな、人の祈りには、陰陽があって、どちらかが過ぎれば、そちらに傾く。

 あの成らずの柿の木は、依代(よりしろ)として、神より与えられたものの一つ。

 神が依代としたあの柿の木は、人の祈りを集める働きを持つのじゃ、それを神は供物として得ることになる」

 依代とは、別次元の窓のようなものだと言った小町の言葉が蘇る。

「人が神に祈ると、依代の木は周囲の人の祈りを吸い上げる。そして、その祈りを集めてできた柿が依代の実じゃ。人は、その柿の実を神に供える儀式を行って感謝を表したものじゃ。

 神に陰の祈りが多く集まると、それが溜まって災い、天災となって人に返る。逆に陽が貯まると、奇跡として人に幸を多くもたらした。それは豊作であり、穏やかな気候じゃな。良い循環は良い結果を生み、その逆もまたしかり。それらはみな自然の営みの一つじゃ」

 そこで重衡は少し黙った。そして、ソラを見つめて言った。

「あの木は、そういった大切な依代の木であったが、それが明治になって完全に忘れられた。

 実は、あの木、この要の地にあまたある依代の中でも特別な役割をもつ木じゃ。

 陰陽が許容量を超えた時の、ため池のようなものじゃな。非常用の溜まりじゃ。だから、普通、祈りがきちんと神に届けられ、気の流れがうまくいっていれば、実は成らん。そこに実が成るというのは、人の気が天に行かず、滞り、溜まりすぎたということよ。天と人との交わりはどんどん薄まり、気は循環しなくなっておる。だからそれがよどみとなって溜まって当然じゃな。

 溜まった気が、陰陽どちらになるかは、その時の祈りの多さの結果に過ぎぬ。だが、信仰という天への祈りの途絶えつつあるこの世は、恨み嫉みといった陰の気が多いからな。それが行き場なく溜まり限界を超えた時、……はじけるのじゃ」

 重衡は、思い出すように遠くの空を見やった。

「因果応報じゃな。明治以降はそれが顕著で、陰の気が溜まり、何度も破裂した。それが、戦争という大きな災いになったのじゃ。

 そして、今、これまでにないほど大きな実が成ろうとしている。それも明らかに陰の気。今も、その行き場のない気が熱をもち、すでに破裂しそうなほどになってこの辺り一帯に熱をもたらしている。これほどの熱の塊はまろも初めてのこと。どうすれば、よいものか。ずっと、憂いておった。これはお主のような天と地をつなぐ神子にしかできぬことじゃ。どうかこの『お使い』を果たしておくれ。何とかお主らで、まつり……」

 突然、平重衡の姿がかき消えた。

 広間の奥から、この寺の僧侶らしき人が、お堂に入って来て、声をかけた。

「お参りの方でしょうか。申し訳ないのですが、今は一般の方には公開しておりませんのでな」

「あ、勝手にすみません」とソラは頭を下げて、あわてて御堂を出た。

 何度も頭を下げて、門を出たソラは、木津川の堤を上り、誰もいない木陰を見つけてほっとして座り込んだ。

「うわー、焦った。私、勝手に入ってたの、すっかり忘れてたよ」

「その呑気さは、あなたも少しは成長したのかしらね」小町は笑いながらそう言う。

「小町さん、さっきの天と地の話、知ってたの」

「そうね、我も神子として天と地の理はある程度理解しているつもりだけれど、あの柿の木が、特別な依代として働いていたっていうのは驚いたわ。依代はその地の神が作るものだからね」

「重衡様が陰の気が破裂するって言ってたけど、そんなこと起きたら、どうなっちゃうの?」

「行き場のなくなった陰の気が、大量にこの世に洪水のように広がる。それを浴びた人は、陰の気の熱に侵されて、きっと、あちこちで争い災いを起こす。それが大きなうねりとなって国を飲み込んだのが戦争というものよ」

「じゃあ、本当にこの日本で戦争とか起こっちゃうってこと?」

「そうね、今起きているこの地の乱れが、全てその陰の気が破裂する前兆だとしたら、この度の陰の熱量は、きっとこの国の大地の理(ことわり)を無茶苦茶にしてしまうことでしょう。戦争だけですまないかもしれない……」

 ソラは、ドロドロの真っ黒なヘドロのような陰の気が、街を洪水のように飲み込んでいくのを想像して、ゾッとする。

「特に問題なのは人口なのよ。力の大きさは、人の思いの強さと数に比例する」

「明治時代の人口ってどのくらいだったの?」

「明治末期日本の人口は約五千万、それが日清、日露戦争の頃よ。

 昭和二十年の太平洋戦争の頃は七千万人になっていたわ」

「それって無茶苦茶大変だよ。今の日本は一億二千万を超えてるよ。どうなっちゃうの?」

「単純に人口に比例させると、陰の気の災いの大きさは太平洋戦争を起こした頃の1.7倍になるわね」

 2人はしばらく言葉を失い、空を見上げた。

 ソラは、この空と大地の間を流れるという気の大きな流れを思った。

「ねえ、小町さん、重衡様が言っていた私たちにしかできない『お使い』ってどういうこと?」

「我ら神子の務めは天と地をつなぐのが役目、そして天より与えられし使命を果たすのよ。それを『お使い』と言うの。あなたがトビを『使い』とするように、我らが天の意思を伝え、その意を果たすことよ。

 重衡様が、最後に言った『まつり』と言いうのは、この大地を鎮める『祀り』を行えということだと思う」

「『祀り』って、あの夏祭りとか?」

「祀りというのは、天への祈りの儀式。多くの人の祈りを儀式にのっとって天に繋げる。そういうものなのよ」

 小町は、頭上のギラギラと照りつける太陽を見上げた。

「古来より、世が陰に満たされた時、これを穢れという形で捉えて、それを払う儀式が行われた。それが雨乞いや御霊会(ごりょうえ)といったものなの。天候が乱れれば『雨乞い』、疫病や天災を鎮めるために『御霊会』という形で天に祈り、気の流れを正そうとしてきたのよ。古代の方が、人は天と対話できたから、天の恩恵も乱れも感じて、その修正方法も自然と身につけていたといえるわね。

 重衡様の言われた祀りは、大地を鎮めること、地に満ちた陰の熱を冷ますことよ。そのためには、天の雨によって地の熱を冷ます、『雨乞いの儀式』ということになるわね。現実的にも、大地は旱魃で熱く熱を帯びているでしょ、これは霊的な熱さが、現生にまで力を及ぼし出しているせいよ。だから、霊的にも物理的にも、天の力による雨によって、この大地を冷ますことが必要ってことになるわね。

『雨乞い』にはさまざまなやり方があるけれど、規模が問題ね。今必要なのはそれこそ国中に降らせるほどのものでないと。この地に満ちた陰の熱は冷ませないわ。

 この京都では、ずっとそういった国家的な儀式、『雨乞い』や『御霊会』が行われきたの。その代表的なものが神泉苑の儀式。かつて何度も、この国の災いを防ぐために朝廷の命で行われてきたわ。今のこの災いを防ぐには、そういった多くの人を集めた儀式が必要となるのは確かね」

「儀式ってどんなことをすればいいの?」

「方法は過去の儀式に則るのが一番良いわ。神泉苑で行われた『雨乞い』の儀式が参考になるはずよ。

 そもそも歌には祈り、まじないの意味があるのを知ってる?

 我も何度も、『雨乞い』のために歌を詠んだことがあるわ、あの神泉苑でもね。神泉苑は、歴史的に霊場として有名なのよ。祀りは天の窓となる所でやらないと効果が薄いわ。だから今回も、あの神泉苑を使えるといいのだけれど。

 でもこれだけ陰の熱を大量にもった大地は、我も見たことがない。どれほどの天よりの雨が必要となるか。よほどの大きな『雨乞い』を行わないといけないわ。それはかつて、我が経験したしたものでは足りないかもしれない。

 それを、今の時代でって考えると……」

 小町は黙り込んでしまう。

 しばらく二人は言葉を無くした。

 その時、ソラの胸に、柊の言った言葉が蘇った。

 ――自分にできることを挑戦したいんだ……。自分がやりたいからやるんだ。

 ソラは、自分が今やりたいことを考えた。そして、小町を見つめ、言った。

「でも、ほっとけば破裂するんだよね」

「ええ、そうなるわね」

「なら、この『お使い』……やるしかないってことだよ、ね」

 ソラは、普段と変わらない、真っすぐな眼差しで、小町さんを見つめる。

「時の流れに長居しすぎると余計なものに目がいってしまうようね」

 小町は眩しそうにソラを見つめると、心を決めたようにして言った。

「やってみましょう。我にできることは、力の限り尽くそう」

 そこからソラと小町は、この国家プロジェクト級の「雨乞い」の儀式がどういうものか、それがどうやったらできるかを語り合った。が、そもそも神泉苑を使わせてもらえるのか。結局、その最初のハードルをどう超えればいいのか、具体的な案は浮かばなかった。二人は悩ましい思いで、夕日を見ていた。

「ところでソラ、元気か?」小町さんが聞いてきた。

「ん? 大丈夫だよ」

「ならいい。そうだ、ソラ、さっきの重衡様を呼び出せたのは、あなたに力がついてきた証拠、それも驚くほどにね。神子としてここでもう一つ上を目指して、自分の心を飛ばしてみようか」

「心を飛ばす?」

「ええ、この空に」

 ソラは、日が傾いて紫に染まり出した大空を見上げた。

 上空にうっすらと白い雲があり、それは刻一刻と形を変えながら、ゆっくり東に流れていく。

 ソラは、小町に言われるままに、自分の心を、あの高みにある雲のところまで近づけようとしてイメージしてみた。

 それだけで、ふっと心が空へ向かう感覚がして、これまでに感じたことのない解放感があった。イメージする、それだけなら誰のことも気兼ねすることなどない。そう思うとソラの心は、いろいろな縛りから解き放たれ、青空高く流れる雲にどこまでも近づこうと昇っていった。

「ソラ、その高みから下を見てご覧」

 そう言われ、ソラは遥か高みから、下へ意識をむけてみる。夕焼けに染まり出した。街と山々が小さく眼下に見える気がした。

 東西に流れる木津川があり、その堤に自分がいる。

「自分が見えたかい」

「うん、小さく見えたよ。自分って、こんなにちっちゃかったんだね。忘れてた、大空がこんなに高くて大きいことも」

「それでいい、この天と地の大きさを、感じなさい。心は小さな器の中に閉じ込めておくものではないわ。今のあなたなら、それができるはずよ、俯瞰して見ることで、その本質が見えやすくなる。どんな時もそれができるようしてごらん……」

 ソラは、自分の心を初めて外から見た気がした。せっかく溜まった自信や元気が、いつの間にか、また搾り取られていたことに気づいた。

 しばらく考えて、つぶやくように応えた。

「そうだね。ありがと、小町さん、少し元気出た」

「うん、自分の心は、自分で整えていく。それは、神子の修行と同じなのよ」

 ソラは、いつまでもこうして、夕日を見上げていたいと思った。

 その日から、ソラは、心が辛くなると大空を見上げ心を空いっぱいに広げるようにした。すると少し心が楽になるのだ。

 そうしていると、これまで当たり前で考えもしなかった疑問に突き当たるようになった。

 ――あの人の言うことは正しいのか……自分はどうすればいい……

 だが、そんなことを考えだすと怖くなって、ソラはすぐにその考えを手放してしまう。

 そんなことを考え出したら、その塊は、ウワーンと大きくなって破裂しそうに思えるのだった。

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