第9話 小町
京都のお盆、五山の送り日は京都の夏の終わりを告げるといわれるが、今年は8月の下旬を迎えても、気温は一向に下がる気配を見せない。
雨も降らず、連日、節水の呼びかけが繰り返されて、京都市内でも一部計画断水に入る所も出ている。俺の所もいつそうなるか、京都の水は琵琶湖から来るので、よく滋賀県民が何かあると「琵琶湖の水を止めてやる」と言うお決まりのセリフというのがあるが、実際に琵琶湖の水位も大きく下がり、もはや冗談にならない話になっている。
俺は朝の風をきって自転車を鴨川沿いに走らせながら、容赦なく照りつける熱波を恨んだ。
京都盆地の夏は酷暑で有名だが、今年の夏は特別だった。ジリジリと照りつける太陽は物理的な痛みを伴って、まるで中華鍋の底にいる気分になってくる。まだ朝なのに一刻も早くクーラーの部屋に避難しないと耐えられない。
学校は、8月の下旬からすでに授業が始まっていた。
職員室から廊下へ出ると、朝から玄関ホールは生徒たちでごった返していた。もちろんお目当ては今朝から飾られている絵だ。
三校対抗戦優勝賞品、松下夏子の『小野小町』が、今朝から玄関正面にかけられていた。
どれどれ、俺も一つじっくりと拝見させてもらうか、と生徒たちの輪に入っていく。大会当日は優勝の騒ぎで、じっくり鑑賞する暇もなかった。現代日本画を代表する松下夏子作、『小野小町』、この貴重な絵は、昨日届いたのだ。
小野小町の絵は後ろ姿が多い。伝説の美女と言われるだけに、それをどう描くか難しいのはわかる気がする。変に描くより見せないのが花だ。この絵も例に漏れず、華やかな桜の下にたたずむ十二単の女性が、向こうを見て、わずかにその横顔を見せているだけだ。全体が朧げで、薄靄の中に向こうを向いてたたずむ姿は、ただ美しいというだけなく、命の鼓動のようなものを感じた。絵については素人の俺でさえこうなのだから、美術好きにはたまらないのだろう。生徒たちの食い入るような目は、みな真剣だった。
俺は、鳴りだした予鈴のチャイムに、「さあ、朝のホームルームだ」と声をかける。
しぶしぶ教室へ戻っていく生徒たちの中、最後まで絵から離れないのがいた。
「おい、天見! もう行け、俺より遅いと遅刻だぞ」
その声にも反応の薄い天見の頭をトントンとして、やっと我に返ったのか、天見は「うわっ」と叫んで、慌てて階段を駆けていった。
その日の終わりのホームルームが終わるなり、2組から飛び込んできた南條は、早速、天見、伊山と笑いあっている。対抗戦の活動も終わり、こいつらと騒ぐ時間は無くなったが、つながりは深くなった。
休み明けから、どうも天見の様子が空元気のような気がして気になっていたのだが、この2人がいてくれるなら大丈夫だろう。横を通りかかった俺に、伊山が声をかけてくる。
「葉山先生、先生なら知ってる? 成らずの柿の伝説」
「ああ、それ、木津川の安福寺だっけ、平重衡の話だろ。俺の国語雑学を舐めるんじゃないよ。この近辺のことは、たいていチェック済みだから」
「うっ、さすが先生、でもこの話は知らないでしょ。あの成らずの柿の木の、今年の情報!」
「お、なんだ、今年はなんかあったのか?」
立ち止まった俺に、伊山は、得意そうに親父さんから聞いてきたという話をしてくれた。
「成らずの柿」の伝説は、平家物語にも出てくる有名な話だ。
平清盛の五男、重衡が「一の谷の合戦」で源氏に敗れ、捕虜として鎌倉に送られるのだが、その時、焼き討ちにあったお寺の要求から木津川で斬首されてしまう。重衡は首を跳ねられる際に、この世の名残に柿を食べた。その後そこに柿の木が植えられたのだが、この木には重衡の無念のためか不思議と実が成らなかった。それが「成らずの柿」と呼ばれる話だ。
この話には更に続きがあって、地域の民話として残っている。
ある年、この木に柿の実が成った。人々が騒いでいると翌年、日清戦争が起こった。10年後にも実が成り今度は日露戦争が起きた。そして昭和6年にも。……日本はそこから15年に渡る第二次世界大戦に向かっていくことになる。つまり、柿の実が成ると翌年に戦争が起きるという、とんでもない言い伝えだった。しかも、言い伝えというには話が新しい。
「俺は、その柿の木、実際に見に行ったことあるんだぞ。そしたらな、なんと枝がしなるほど実が成ってて、もうひっくりかえるほど驚いたんだから。慌てて近くの人に聞いたら、毎年成ってるって言うんだ。あの話、どうなってるんだ?」
俺の話に、伊山は、ニヤリとする。
「ふふーん、先生、まだまだリサーチが甘いな。あの柿の木はさ、実は代替わりしてて、今の木になってからは実が成ってるみたいなんだ」
「なーんだ。それなら、もう『成らずの柿』じゃ、ないじゃない」
天見が、最もなことを言う。
「話はここからだって、その代替わりの時にさ、前の木を挿し木にして、育てた人がいたんだって。しかもその木には実が成らなかった。……だから、本当の成らずの柿は、まだ残っているってことになる」
驚きの表情の俺たちに向かって、伊山は人差し指を立てて、「そこで注目!」と言った。
「いいかな、ここからが本題だよ。その成らずの柿の木に、今年、柿の実が成りそうだって話を聞いたんだ。うちの父さんがさ、お客さんから教えてもらったって」
「え、それって戦争が起きるってこと?」思わず天見が声を上げる。
「うん、その木のこと知ってる人たちは、みんな騒いでるんだって」
「でも、それってやっぱり民話よね」と南條が言うと、すかさず天見が真剣な表情で返す。
「でも、もし本当なら大変なことだよ」
「そうだぞ、南條、俺も民話や言い伝えは好きでいろいろ調べたが、言い伝えの中にはなんらかの真実が含まれていることが多いっていうのは確かなことだ」
3人と、ああだ、こうだと喋っているうちに教室は俺たちだけになっていた。
「ところでさ、ソラ、トビは元気?」南條が、天見に尋ねた。
トビについては、俺はよく知っていたが(話をしたこともあるぐらいに)、天見は、友達には近所の公園にいる野良で面白い猫だと話しているようだった。確かにオスの三毛猫というだけでその存在価値は希少だ。なんといっても三万分の一というのだから。
「最近、犬や猫に新種の感染症が流行ってるって、知ってるでしょ?」
「それ、ここんとこ、よく聞くよな。夏前から流行り出してるって。ネットニュースでもよく出てるけど、動物が突然高熱になって、ばたばたと亡くなってるって」
伊山が水筒の水を飲みながら言った。
「実はさ、うちの近所の猫がね、突然亡くなっちゃったんだよ。この間まで元気だったのに。それがショックで」
南條の言葉に伊山が心配そうに俺を見る。
「先生、パンとかも大丈夫かな。パンにもダニ避けしたほうがよくないか」
天見は、トビたちのことを思ってか、口を一文字に結んで黙り込んでいた。
今年の夏の異常は、酷暑と旱魃だけにとどまらなかった。動物の感染症の流行だ。
主に小動物がかかっているようで、これまでにない新種の感染症のため治療法もまだなく、死亡率も高いようだ。ダニが媒介しているといううわさもあって、すでにどこの店でもダニ関連グッズは品切れになっていた。
水筒を飲み干してしまった伊山が、空の水筒を振り回しながら言った。
「なんだかこの夏、色々異変っていうの、そういう感じのこと多いだろ、最近はもう地球温暖化じゃなくて地球沸騰っていうんだろ、マジでぐつぐつきてるよな」
「ほんと、ニュース見てても暗い話、多いよね」
天見が心配そうに話すと南條が眉間に皺をよせて嘆く。
「ねえ知ってる、最近この感染症、人にうつるって噂まで出てるんだよ。おかげで京の観光客もさっぱりだって。うちの店でもみんな悲鳴あげてるよ」
南條は突然、窓から乗り出すようにして顔を出し、空に向かって叫んだ。
「あー、私たちの未来を、閉ざすなー! アンドレ~!」
「あ、私のオスカル様、とるなよ。こうやるんだよ」
伊山が、同じように窓からグランドに向かって叫んだ。
「わが未来を、決して閉ざさせはしない、アンドレ~!」
グランドにわずかにいた部活生が、何事かとこちらを見上げている。
それが面白かったのか、2人は嫌がる天見も巻き込んで、
「いくぞ、気持ちがスッキリするから」と、3人は窓に並んで、伊山の掛け声とともに声をあげた。
「アンドレー!!!」
3人の遠吠えは、底が抜けたような青い虚空の空に吸い込まれていく。
と、3人は一斉にしゃがんで窓の下に身を隠した。
その後ろには、ポカンとしている俺だけが残され、グランドの生徒たちの視線を一斉に浴びることに……。
その間抜けな顔を見て、3人は床の上で笑い転げていた。
次の日の放課後、天見から珍しく話があると言われ、俺は、一階の端、実習室へ向かった。
「どうした、今日は一人か」
俺の問いに天見は、持っていたスケッチブックを出して言った。
「先生、実は見てほしい、いや、会ってほしい人がいるんです」
「そのスケッチブック、トビか?」
「それが、実は……」
そう言って天見はスケッチブックを開いた。
そこには、すでに鉛筆デッサンが描かれていた。
それは着物、十二単の髪の長い人物が両手をついてお辞儀する姿だった。
「これって……まさか」
「はい、その……、小町さんです」
驚きのあまり口を開けたままの俺は、モノクロの女性が動き出し、ゆっくりと顔をあげるのを見た。
うわ、待ってくれ、伝説の美女の御尊顔、心の準備がまだできてない……。
俺が取り乱す中、絵の女性は顔をあげ、俺をまっすぐに見据えて口を開いた。
「あなたね、ソラのいう先生というのは」
俺は、教科書の中の人物に会った感動で「はい、初めまして」と、間抜けな挨拶を言うのがやっとだった。
俺の目は瞬きも忘れ、その姿に釘付けになったままだった。
長い髪は黒々と艶やかで、俺を見つめる目は切れ長で鋭い光を宿し、白塗りに小さな口もとが光って、モノクロなのに俺には鮮やかな朱色の光を放って見えた。
俺は勝手な想像で平安美女はおたふくのような下膨れを想像していたが、細面のその顔は現代でも、美しい。美しいというのは、時代を超えているのか。
「でも一体なんで……」
「昨日あの絵を間近で見てたら、もう頭から離れなくなったんです。家へ帰っても、あの絵に呼ばれているような気がして、それで、夜中に起きて描いてみたんです。そしたら、小町さん、出てきちゃって」
「我が一心に呼んだのが届いたようね。我もこうしてまたミコに巡り会えるとは思わなかったわ」
「天見が巫女?」
「あ、違うんです」
「それは我が説明しよう。我のいうミコというのは、古代より天と通ずる力を持つ者のこと。神の子の神子(みこ)。それが本来の神子の意味。我は歌で天と通じたが、ソラは、絵を通して天と通じる。どうやら自覚なしの天然タイプみたいね」
「小町さん、あなたもその神子だったんですか」俺は思わず職業的な興味で聞く。
「そう、歌で天に祈りを届けていたわ。雨乞いだったり、豊作だったり。
そんなことをしていたからか、現世の務めを終えた後も、我は、こうして時折、心がこの現世に戻ることがあったのよ。
でも大抵は心があっても、ただあるだけ、人と通じることもなく、そのうちに自然に消えてしまう。そんなことが何度かあったわ。でも、此度はこの絵に宿ってまだ間がないうちにソラと出会えた。まさに僥倖、ほんと何百年ぶりかしら、こうして心が人と交わることができるのは」
立ち上がった小町さんは、体が動くのが楽しくて仕方ないようで、やたら手足を動かして、十二単で踊り出しそうな勢いだ。
「それでその神子について、小町さんからいろいろ教えてもらったんです。私、トビのこととか自然にできていたから、これまであまり何も考えてなくって」
「このことはとても大事なことだから、先生にも知っておいてもらおう」小町さんは、俺に向かって言った。
「ソラがこうして我を絵に呼び出せる力は、神子と『使い』の契約。だから、当然、相手がソラを認めないと契約は成立しない。そして、ソラぐらいのまだ弱い力の場合、気をつけなければいけないのは、他の人間に、そのつながりを知られないようにすることよ。
まじないの基本は、人に知られてはならないもの。形のないものは、その存在が不安定だからね。人の疑念とか攻撃的な陰の気を向けられると存在そのものが危うくなって形を維持できなくなるの。つまり消えてしまう。人は、理解できないものに対して常に好意的だとは限らないということよ。もし強い攻撃的な疑念に彼女の心が晒されたら、彼女の力自体が負けて、消えるかもしれない。そこはしっかりと肝に銘じておいてほしいの」
「ちょっと待ってくれよ。俺、知っちゃてるよ。大丈夫なのか」
「そうね、あなたの場合、よほどうまく彼女の力を受け止めたってことかしら。普通は、他の意識が介入したら、その瞬間存在できずに消える、煙のようにね」
確かに天見は、これまでは誰かに見られそうになってもその瞬間消えていたと言った。
「波長がうまく同調したというところかしら。それは百%信じたからできたことなのか、はてさて、なかなかないことよ。あなたにはシンクロの才能があるのかもしれないわね。だから興味があってあなたに会ってみようと思ったのよ」
シンクロと言われても、俺には何のことかわからなかった。が、とりあえず。今、この小野小町の存在を自然と受け止めていれられてるっていうのが、いいのだろうか。
「ところで、あなたたち、何も感じない? 天と地の流れが、すごく滞ってるような、もう、気持ち悪くて仕方ないのよ。こうやって現世の端っこに立っていると、余計にそれを感じるわ。この天地の熱さは異様よ。何か心当たりはない?」
そういえば、と俺はこの夏の旱魃や動物に原因不明の病気が流行っていることを話した。天見が、「成らずの柿」の話も気になると伝えると、小町さんは、
「雨に病……、それは少し調べてみた方がいいわね。それに、その『成らずの柿』、実際に見たいわね」
小町さんは、さっきまでと打って変わって厳しい顔でそう言った。
天見が次の休みにでも小町と調べてみるというので、その結果は是非教えてほしいと約束してその日は終わった。
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