第8話 8月6日 三校対抗戦
8月6日、ついに三校対抗戦、大会当日を迎えた。
体育館の真ん中に畳が敷き詰められ、試合会場が作られている。周囲のフロアは、すでに3校の応援生徒や保護者で埋まっている。この大きな体育館にも空調はあるけれど、全く効いている気がしない暑さだ。
俺たちは、指定された観覧席の一角に座って広い会場を見渡していた。既に館内は熱気に満ちている。鴨川の応援席からは井澤が、やたら張り切って声を上げているのがよく聞こえた。どうやら集まった生徒たちから祭り上げられ、応援団長をかってでたらしい。
体育館、前方にある本部席には役員や校長先生が並び、その真ん中に、大きな盾と今回の賞品、一枚の日本画が飾られていた。
「今年の賞品は是非手に入れたいよね。あれ、有名な京都の画家、松下夏子の『小野小町』だよ。あの人の作品がうちに来たらさ、もうすごいよね」
岡崎の言葉に、日野が辛辣に返す。
「なんでも甲子社の理事長が、寄付したらしいよ。どうせ自分とこが勝つとでも思ってじゃないの」
「でも、あれ、いい絵ですよね」
天見が、じっと遠くの絵を見つめながら言った。
絵は、小野小町と思われる、横顔を見せる女性の姿が大きく描かれていた。
「あの絵、今日は、私らが持って帰ろうな、みんな!」
日野の言葉に、みんながうなずいた。
「そういえば天見、お前の得意札って小野小町だったな」
俺の言葉に、天見はニコリとして頷く。
「そうですよ。だから今日はあの絵、すごく欲しいって思うんです」
「お前がそこまではっきりと言うなんて珍しいな」
「うちの町には小野小町が亡くなったって言う伝説があるんです。だからかな、小さい頃から小野小町って私にとって、お姫様なんですよね」
『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』
小野小町の伝説は全国各地にあるが、京都の井手町にも、年老いた小町が亡くなった場所だという話が残っている。こういうネタは国語科の必須だからよく調べたりするのだ。
岡崎がみんなに、自分の得意札を作るように言ったときから、天見の得意札は小野小町だった。ちなみに伊山は、伊勢大輔の『いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂いぬるかな』が「私の推し」だと言っていた。大らかな華やかさが、あいつらしい歌だ。
大会は、3校での団体リーグ戦。団体、個人の勝利数で優勝が決まる。体育館中央で1試合ずつ進められ、全3試合が行われる。
第1試合は、鴨川対上賀茂だ。両校5名が並んで向かい合い、礼を交わすと、いよいよ始まる。
上賀茂はエースと言われる生徒会長の藤宮が大将を務めるチームで、お揃いの赤いTシャツに挨拶もきちんと揃った大きな声、見るからに礼儀がいい。美術についても真面目に道を追求する生徒が多いと岡崎が言っていた。気合は入っているが、自由気ままなうちの鴨高生たちとはまた違う。
鴨川は、大将、岡崎、副将、柊、三将、日野、四将に伊山、そして五将に天見という布陣だ。
一番手前に見える天見は、札を丁寧に並べ終えると、緊張の顔つきで、ゆっくりと深呼吸をしている。天見の相手は堀部という2年生だ。長い髪をお団子にまとめ、落ち着いた様子で札の位置を覚えている。
試合開始の合図と共に、周りから応援の掛け声が飛んだ。
みんな、落ち着いていけ。
始まりの序歌(札にない歌)が読まれだすと、それまでの声援が静かになって、会場は固唾を飲んで次の第一声に耳を澄ます。
『わたの原 やそしまかけて こぎいでぬと』
畳をバンと叩く音がして札が飛ぶ。
やった、かろうじて天見が払った。ラッキーだ、最初の札は天見の陣の札だった。覚えていたのがきたようだ。
その後も、天見はよく戦った。
しかし、わずかに相手が上だった。上賀茂の選手は全員、歌をしっかり把握しているのがわかった。試合が進むにつれてそれが差となり、天見は負けた。6枚差だった。
岡崎は相手の大将をしっかり押し切り、いち早く勝ちを決めていた。柊も、いつものように静かに淡々と札を取り、勝った。ここまではある程度予想できた。
終盤までもつれたのは日野と伊山だった。
どちらもぎりぎりの競り合いになった。
まず、終始大きな声で、札を払う動作もひときわ大きな伊山が、残り札、わずかになった時に賭けに出た。
両陣にあった「1文字決まりの札」の時、大きな声と共に相手陣を派手に払った。攻撃型を得意とする伊山らしい狙いだったが、それがお手つきとなって負けた。
最後まで競り合った日野は、ラスト2枚のところで相手を制し、団体初戦の勝利を決めてくれた。決まった瞬間、会場全体に大きな歓声をあがり、鴨高応援席が大きく沸いた。
歓声の中、選手たちは揃って礼を行い、第1試合が終わった。
席に戻ってチームが喜びあう中、天見と伊山は次こそ勝とうと2人して肩を叩きあっていた。
伊山は悔しそうな顔で、
「ちょっと焦った。ヨシツネで行ったんだけど、次は、冷静なオスカルで行くよ」
伊山は、やっぱり一番のお気に入りの宝塚キャラに戻すという。
「私なんか緊張で、体が硬くなってた。次は最後だもんね、絶対怖がらず、動いていくよ」
2人は気持ちをすでに切り替えているようだ。
よし、みんないい顔だ。次の甲子社戦で決まる。応援するこっちまで、すでに汗びっしょりだった
◇◇◇◇◇
丁度その1時間ほど前、カバンの中には、密かに家からついて来ていたパンがいた。
こういう人混みなので当然ながら留守番の予定だったパンは、家のケージなら、もう簡単に開けて出ることができた。パンにしてみれば、ちょっとみんなの応援に来たかっただけ、こっそりとカバンに潜り込んでいたのだ。
会場に着くと、持ち前の好奇心でカバンを抜け出し、会場の天井裏をうろうろと探検していたパンは、学生たちが集まる部屋を見つけた。
換気口の隙間から覗くと、どうも鴨高とは違う。
話声を聞いていると、どうやらそれは、甲子社の生徒たちの控室のようだった。
敵はどんな奴らだと思って、話を聞いていたパンは、とんでもないことを聞いてしまう。
「なんとか今日に間に合った。これが、うちの会社で特別に開発してもらったものだ。
まず、この骨伝導イヤホンをつけてもらう。小さいから片耳の中に入れとけば、問題ないと思う。そうすると、こっちの装置で、読み手の発声を捉えてAIが素早く、その下の句を伝える仕組みだ。
ただ、これはあくまでも万一のためだ。機械に頼るとかえってパフォーマンスが落ちる者もいると思うから、まあうまく使ってくれ」
真ん中で、ちょっときざな男が、そう話していた。
パンは、これはすぐみんなに知らせなきゃと、慌ててソラたちを探したが、広い天井裏をうろうろしている間に、第1試合、鴨高の試合が始まってしまった。
鴨高の試合が終わって、やっと伝えられると、パンは、ソラたちのそばへ行こうとした。
その時、悲鳴が上がった。
「きゃー、ネズミ!」
あたりの人たちが、何事かとそちらを見る。一人の女生徒が指差すところに、一匹のネズミがいた。そこには、パンダ柄の大きなネズミだ。あたりの観客席はたちまち大騒ぎとなってしまった。
みんなが一斉に集まってきたため、パンは素早く物陰に隠れる。かくれんぼなら、お手のものだった。でも、ソラに話ができない。天井裏に上がったパンは、しばらく下へ降りることができなくなってしまった。
「あれ、なんかあっち騒がしいね」
天見が体育館出口の方を見た。何だかネズミがいたと騒いでる。
「こんな立派な建物でもネズミが出たりするんだ。うちとあんまり変わらないわね」
「おいおい、いくら何でもうちのぼろ校舎と比べたらあかんだろ」
岡崎の言葉に、日野が突っ込む。
俺はふとパンのことを思い浮かべたが、まさかここに来ているとは思っていなかった。
◇◇◇◇◇
やがて、第2試合、開始の時間が来た。
第2試合は、甲子社対上賀茂だ。鴨高メンバーは、自分達の席から対戦を見ていた。
その時、みんなと観戦していたソラは、頭の中では1試合目で感じた感覚のことをずっと考えていた。
試合中に何度か、札が読まれる時に心の中で風を感じたような気がしたのだ。
ソラは、試合が始まったあの時、これまでに経験したことのない緊張と集中力が研ぎすまされた感覚の中にいた。
並べられた札の配置を覚えようと懸命に札を見ていた時、周りの音が消え、札の中に他と違う札があるのを感じたのだ。その札から風が吹いてくるような感覚があって、意識をその札に向けると、その札が自分を主張しているような気がした。そんな札が複数、自分の陣に2枚、相手の陣に2枚あるのがわかった。そして、その札を読み手が読みだすと、その感覚がさらに強くなった、「自分はここだ」とその札が主張しているような感覚だ。
札から風を感じる。何かこういうの、昔あったような、とソラは懸命に思い出そうとずっと考えていたのだ。
それがなんであったか、やっと今思い出した。
――あの感じ、坊主めくりだ……。
ソラが小学校2年の時、百人一首を使った「坊主めくり」が流行ったことがあった。その時の担任の先生に教えてもらって、一時期、学校でよくやったのだ。
そのとき、ソラはなぜか、次の札が坊主の札だとわかる時があった。
「坊主めくり」は坊主札をめくると手持ち札を全部吐き出さねばならない。負けず嫌いだったソラは、坊主の札がとにかく来てほしくなくて、「来ないで、来ないで」と一生懸命念じていた。すると、次めくる札が坊主だとわかることが何度かあったのだ。めくる前にそれが坊主だとわかった途端、まだ幼かったソラは泣き出した。周りの子たちは訳が分からず、めくって見ると実際坊主札が現れたので、男子から「坊主のソラ」とからかわれたことがあった。
まあ、すぐにその男子は、ソラの回し蹴りの洗礼を受けることになったのだけれど。(ソラは、小学校低学年までは、口よりも手や足が先に出てしまうところがあった。今はさすがに抑えているが)
あのときは、なぜそれがわかるのか、自分でも不思議だった。さっきの試合で感じたのは、それと同じ感覚だった。
ソラは持っていた練習用の百人一首を出してみる。
絵札の方をくっていき、さっき特別に感じた札を思い出して確かめてみた。すると、その読み札はやはり坊主の札だった。しかし坊主以外も混じっている。それは歌の勉強をしてきた今ならわかる、六歌仙と言われる名人の歌だった。
――なんでこの札たちが特別なんだろ……。
目の前にそれら4枚を並べて考える。
今、練習用の札を見ても特に何も感じることはなかった。
さっきと今は何が違う? 試合の特別な緊張という自分の心、そして、札は試合用の札は特にいい物だった。
――あれって、もしかしたら歌の作者に、何か感じてたのかな。自分との相性みたいなのもあるんだろうけど……。
小さい頃は、とにかく坊主札がきて欲しくなくて、一心に念じた。それでその作者のものを感じることができたのだろうか。
改めて自分の力について考えてみる。
絵に呼び出せるのは、動物か魂のこもった作品、その中でも自分との相性があうものに限られる。この力って、魂のこもった芸術作品と心を通じさせることができるのだとしたら、和歌にも、そういうのがあるかもしれない。魂のこもった名歌と言われるものの中で、自分と相性のいい歌を感じることができたなら……。練習用の札は量産品だが、丁寧に作られた試合用の札なら、作者の魂をわずかなりとも感じとることができるのではないか。それができたら、試合で使える……。
ソラは、じっとその坊主札を見つめていた。
「おい、ソラ、やばいな。上賀茂が、こんなにあっさりとやられるなんて」
美紅の声に、ソラは我に返った。
中央の試合場を見て驚きの声をもらす。試合が予想を超える早さで終わろうとしていたのだ。
◇◇◇◇◇
俺は、思わず唸り声を漏らしていた。
4対0、試合は甲子社が圧倒して終わった。
上賀茂は大将の藤宮がなんとか引き分けに持ち込むのがやっとだった。他は一人ひとりが大差をつけた甲子社の圧勝だ。まさか、うちがやっと競り勝った相手が、こんなにあっさりと負けるとは。甲子社の強さに、鴨高のメンバーは重い空気に包まれていた。
甲子社は、先ほどの試合、大将の周坊会長から、道里、俵、佐藤、中村という順で、どのメンバーもうちの経験者岡崎と遜色ない動き出しの速さだった。読み始めて数文字で、全員が動き出す。隙が見当たらない。鴨高が勝利のために必要な3勝するには、岡崎と柊で確実に2勝して、1試合目のように残り3人のうちの誰かが1勝する、これしかなかった。しかし、岡崎や柊でも、さっきのあの強さを見れば厳しいかもしれない。
そこで岡崎を中心にみんなで作戦会議をやり直し、確実に2勝取ることを優先して、順序を大きく変えることにした。
作戦は大将に伊山、二将、岡崎、三将に天見、四将、柊、五将、日野。最終戦はこの布陣で臨むことになった。
まもなく第三試合、鴨川対甲子社の試合が始まろうとしていた。
鴨高の5人は円陣を組んだ。日野が、みんなを見渡して言う。
「みんな、ここまで本当によくやってくれた。最後だ。ここまで頑張ってきた全てを出し切ろう」
「おー!」
声を合わせると、会場の真ん中に整列して座る。会場からの声援が一際大きくなった。
選手たちは、それぞれに呼吸を整え、目の前に座った対戦相手を見つめる。
前に並んだ相手を見て、俺はやられた、と思わずつぶやいた。
鴨高の面々も明らかに動揺しているのがわかった。鴨高が大将を外そうとしたように、相手も大きくオーダーを変えていたのだ。
大将、伊山の相手は、中村ダニエルだった。今日は派手なバンダナを額に巻いて、やたらニコニコとして余裕の表情だ。伊山は、自分の頬を叩いて気合を入れ直している。二将、岡崎は、周坊会長とだ。ここは実質の大将戦となった。三将、天見の前には、副会長の俵だ。うっすらと笑いを浮かべた顔で、鴨高のメンバーを見ている。その口が何かを言うのがわかった。それが聞こえたのだろう、天見の表情が急に強ばった。天見にとっては前回負けた相手だけに、よけいに分が悪い。天見は大きく深呼吸をして、心を静めようとしていた。四将、柊の相手は佐藤波瑠だった。佐藤は無表情にうつむいたままで、その眼鏡の奥の表情は読めなかった。五将、日野の前には、派手な青い髪の道里あんりが、涼しげな表情で正座していた。
両校の礼が終わると、選手は、25枚の札を3段に並べ始める。
みんな、落ち着け。俺は、ただ一心にみんながその力を出し切れるよう願った。
◇◇◇◇◇
どの札が来ているか、ソラはドキドキしながら札を確かめ、並べていく。
感じる札はあるか、一枚一枚しっかりと心を澄ますんだ。きっと心に感じる札があるはず。だが、あせればあせるほど、心には何も響かなかった。
対戦相手の俵から、いきなり「あなたたちの考えることぐらい、読めるっていうの」と言われたことで、ソラは動揺していた。そこから、なかなか心を落ち着けることができない。
なんとか深い呼吸を繰り返す。
そうだ、いつも絵を描いて呼び出す時のように、そう思って心を一点に絞っていく……と、やっと周りの応援する声や歓声が遠のいてきた。
心の波が静かになり鏡面のようになってずっと先まで見通せる、その時がきた。
すると……、あった。まず心にとまったのは、自陣に2枚、いや3枚もあった。
相手陣は離れているので少し分かりにくいが、ある。二方向に気配を感じた。
なんとか心を澄ませ、どの札か意識を絞っていく。
だが、あと少しのところで、暗記の時間が終わってしまった。相手陣のどの札に気配を感じたのか、絞りきれないまま開始の礼をする。すぐに、序歌が読まれだした。
『波津(なにはづ)に……』
体育館全体の緊張がジリジリと高まっていく。次だ。
『あらしふく 三室の山のもみぢ葉は……』
「し」の音が聞こえるやいなや、バンバンッと、軽い音が響き、札が飛んだ。
やられた。「たつたのにしきなりけり」とひらがなが書かれた取り札を手に、俵はニヤリとして席に戻る。やっぱり、相手はよく札をわかっている。ソラも手を動かしたが、札は素早く向こう側に飛んでいた。
続く札も、立て続けに相手に取られ、前半はそのまま相手に圧倒されて、あっという間に差をつけられてしまう。相手が10枚減らしたとき、ソラは、わずかに3枚だけだった。いきなり大きな差がついた。特別な札を探して手間取ったため、札の場所を覚えきれていなかった。
だが、ソラはもう一度深く息を吸って、そのまま息を止め、心が落ち着くのを待つ。そして「自分はもともとこんなものだ」ありのままの力でいい、そう念じながらゆっくりと息を吐いていった。
頭の中を単純に、過ぎてしまったことはもう考えるな。耳に全身の集中力を集めて、動き出しにかけよう。
緊張と不安で心が持っていかれそうになるところを、目を閉じ、読み手に意識を集中しなおした。
読み手が次の歌を読もうと札をとったその時、読み手の持つ札から、特別な風を感じた。しかも、それと呼応するように、相手陣の一枚の札が、ソラには風でつながっているように感じた。
あの札だ。ここは、この感覚に賭ける。
ソラは読まれる前から、相手陣のその札を、じっと見つめる。そして、読み手が、「な」の文字を発声した刹那、ソラは思い切って飛び出した。
『なげけとて 月やは物を おもはする』
相手陣深く全身で飛びこんで、札を払う。
やった、取った。
ソラは、その札を手に、震えるよう心持ちで席に戻る。
――ありがとう、西行さん。来たぞ、坊主札。
相手陣の札を取ったら1枚自陣から渡す。ソラは、自陣の中からあえて気配を感じる札を渡した。
目の前、一番そばにあった自分の札を取られ、俵は驚きで固まっていた。なめていた相手にいきなり足元をすくわれ、何が起きたかわからないといった顔だ。この歌の決まり字は「なげけ」の3文字。「な」で始まる歌だけでも8首ある。それを1文字目から動いたのだ。会場も、その動き出しのあまりの速さに、驚きの歓声が起きている。
「やるな、ソラ! 私も行くぞ。わが心は自由だ!」
美紅の、よく通る声が横から聞こえる。すっかりオスカル調だ。ソラには心強い声だった。ソラは、すでに次に備え、目の前に集中していた。呼吸を整え、改めて心を静かにピンとはる。
次の札も、ソラが取った。今渡したばかりの札が来たのだ。またも相手陣から奪うことになる。
この神がかかった立て続けの2枚で、俵は大きく心を乱した。なぜ取られたのか、わからなかったからだ。会場も大きくどよめいてちょっとした騒ぎになった。
ソラは、そこから集中力を発揮して挽回、時折出てくるソラの常識離れの動きは強烈に効いた。俵は額から流れる汗を拭う余裕もなくし、集中力を取り戻そうと焦っていた。だが、一旦崩れたリズムはなかなか取り戻せず、その間に、ソラは着実に札を取っていき、終盤、ついに残り7枚ずつの同点に追いついた。
会場もこの2人の戦いに注目が集まり、大きく盛り上がる。
試合はそこから一進一退で進んだ。俵が取れば、ソラも取る。やはり、地力は、相手が上だ。
だが、札が少なくなれば、札の配置もわかりやすく、ソラでも把握しやすくなってくる。持ち前のソラの集中力が、この終盤にきて存分に発揮されていた。
後は動き出しと、どちらの陣の札が読まれるか、時の運が勝敗の分かれ目になった。
そして、ついに互いに1枚を残すだけの運命戦にまでもつれこんだ。
ソラは、手の汗を膝で拭い、ゆっくりと深呼吸をする。
気づくと他の対戦は皆終わって、残るは中央のソラたちだけになっていた。
この時、勝敗は2勝2敗の対。全てがこの一戦にかかっていた。
会場の全視線が、ソラたちに集まる。
これが最後の札になる、運命戦。
ソラの前の札は、入道前太政大臣、
『花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり』
相手の札は小野小町、
『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』
2文字目まで、出だしが同じだ。しかも、どちらも坊主札ではなかった。
ソラは、応援の声で、2勝2敗、この札に勝敗がかかっているというのがわかった。
そのとたん、焦ったソラは、それまでの集中力を乱してしまう。
「もし、負けたらどうしよう……」そんな気持ちが、意識の上にあがってきて、それまで感じていた心の風が遠のき、会場のざわめきが押し寄せてきた。
――何も聞こえない……
一瞬焦ったが、ソラは目を閉じて、心を決めた。
俵は、両手で自陣の札を覆うように防御している。読み手が札を持った。
その瞬間、相手陣の小町の札が、「私よ」と言ったように思えた。
読み手が息を吸って「は」と発するかどうかの刹那、その動き出しは絶妙のタイミングで、俵の予想を超えていた。ソラは、一瞬の隙をついて相手が防御する手の下を掻い潜り払った。
読み手の朗々とした声が響き渡る。
『花の色は……』
ソラが勝った。
会場がどっと爆発するような大歓声に包まれた。
呆然とした俵の目の前の畳に、ソラは突っ伏していた。
日野先輩や美紅たち、みんなが駆け寄って来て、ソラはようやく立ち上がる。ソラに美紅が抱きつき、5人は、みんなで喜び合った。
◇◇◇◇◇
俺は、勝利の瞬間、声を上げて立ち上がっていた。
試合結果は、全ての対戦が僅差の勝負だった。
エースの岡崎は、相手周坊会長と熱戦を繰り広げた。動きだしは相手が早い場面が多くあったものの、その正確さと札を取る技はさすがで、最後は経験の差で何とか勝ちきった。相手、周坊会長は、畳を叩いて悔しがっていた。
しかし、頼みとしていた柊、日野が、立て続けに負けてしまう。
柊の相手、佐藤は、とにかく機械のように速い反応を見せ、前半圧倒的な差をつけた。ところが終盤に信じられないようなミスを連発して、あっという間に柊が追いついていく。だが、それもわずかに遅く、僅差での負けとなった。
日野・道里戦は、お互い一歩も譲らない、取っては取られの大接戦となった。が、最後まで正確で手堅い相手にわずかに分があり、日野が負けた。この段階で、1勝2敗、勝敗の行方は残る2人、天見と伊山にかかっていた。
この試合で、番狂わせを起こしたのは天見だけではなかった。
大将戦、伊山対中村戦だ。相手はその派手なパフォーマンスで伊山と同等をいった。だから、この2人の戦いが一番うるさく、会場を沸かした。伊山は例の如く、オスカルになりきっていたので、取った時に思わず決めポーズまでし始めたのだ。それに対抗して、相手の中村も同じように派手なポーズをやり返し始める。この2人だけは、なんとも畳の上の格闘技というより、畳の上の劇場という感じだった。しかも、それが本部に最も近いところでの対戦だ。俺は、いつ注意を受けるのかと冷や冷やだった。
伊山は、スピードと勝負感で対等に戦っていた。この試合、彼女には、オスカルと運が味方したみたいだ。引きが良く、ここぞと言う時、自分サイドの札が続いて、そこへ被せるようにオスカルの決めのポーズだ、それが勢いとなって波に乗った。
あと1枚で勝利という時、彼女の得意とする札、伊勢大輔の札「いにしへの」の札が相手陣にあった。この時、「い」で始まる札、3枚全てが残っており、うち2枚が伊山陣、そしてもう1枚、相手陣にあるのが伊勢大輔だった。が、やはり伊山は、初めからこの相手陣の札を狙っていた。読み手の口から最初の1文字、「い」が発せられた瞬間、伊山は、前の試合と同じように、再び一か八かで取りに行ったのだ。ここらが伊山の短気なところだ。だが、今回は伊山の当たりだった。伊山が勝利の雄叫びを上げた。
伊山が勝ち、そして、最後に天見が決めるという予想外の大穴二つが、見事、鴨高に勝利をもたらした。
両校が一礼をして、試合は終わった。
鴨川高校の、大会優勝が決まったのだ。
表彰式で、甲子社の理事長から、日野が、優勝盾と、賞品の小野小町の絵を受け取った。
日野が盾を高く掲げると、会場が大きな拍手で包まれ、選手たちは嬉しそうに手を振って応える。
式後、日頃冷静な岡崎が泣いていた。柊も嬉しそうだった。伊山は、やっぱりオスカル様が一番だと、熱く語っていた。天見は、みんなが嬉しそうなのをにこにこして見ていた。
俺は、その後の、打ち上げに焼肉を奢らされて、今月はまたまたピンチになったが、まあ大満足の大きな誤算だ、嬉しい悲鳴になった。
こうして、今年の三校対抗戦は、我が校の歴史的な勝利、11年ぶりの優勝で幕を閉じた。
ちなみに、パンは閉会式後にみんなのところにやってきて、メンバーの歓待を受けた後、陰で天見からこっぴどく叱られていた。
後日、天見がパンの話を教えてくれるのだが、甲子社が機械を使う不正をしていたという話を聞いて、俺も大いに憤慨した。が、試合終盤、みんなが試合に夢中になっている最中に、パンは甲子社の待機席に行って、陰に置かれていた例の機械のコードをかじり切ってやったという。それで、後半、佐藤のように機械に頼っていた選手が乱れたようだった。
ということは、勝利の神様はパンだったのかもしれない。
最後に天見は、「そんな相手に勝った自分たちは、やっぱ最高です」と、笑って報告してくれた。
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