第3話「策士と夜の実験場」
「やれやれ、また始まったか」
ザイド・シャドウは、路地の陰から薬屋を見上げながら、嫌味な笑みを浮かべた。黒いコートの襟を立て、夜風を防ぐ。風竜共和国の首都では、風脈の影響で夜になると急激に気温が下がる。
2階の実験室から漏れる光は、まるで地竜の結晶のように不規則な輝きを放っていた。昼間は高級な調合薬を並べ、上品な佇まいを見せる薬屋「癒しの泉亭」。しかし夜になると、その窓からは得体の知れない光が漏れ、薬草の香りに混じって、何か禁忌めいた実験の匂いが漂う。看板の「癒し」の文字が、月明かりに照らされてまるで皮肉のように見えた。
(3ヶ月経っても、何も変わっていないな)
あの事故の光景が、まぶたの裏によみがえる。龍血石を使った実験。突如現れた地竜。そして、街の一角を破壊した暴走事故。全ての責任を引き受け、3000万Gの借金を背負った日のことを、ザイドは今でも鮮明に覚えている。
「......なぜここだ」
バルド・アイアンの低い声が響く。その大きな体格は、狭い路地にはそぐわない。戦槌「断罪」が、背中で月明かりを反射している。
「ちょっとした調査ですよ」ザイドは意図的に軽薄な調子で答える。「あの結晶のことで、気になることがありましてね」
裏手に回ると、搬入用の大きな門扉とその横の従業員用出入り口が見えてきた。表の豪奢な正面玄関とは違い、こちらは質素な造りだ。かつて、薬草や原材料を運び込むのに使っていた場所。
「これは......」バルドが貯蔵庫の扉を見つめる。「常時施錠のはずだが」
「ええ、その通りです」ザイドは鍵束を取り出した。「従業員専用の鍵ですよ。まぁ、返すの忘れてましたが」
扉を開けると、懐かしい香りが漂ってきた。薬草と実験器具の混ざった独特の匂い。大きな薬瓶や原材料の樽が並ぶ倉庫の中で、ザイドは一瞬、過去の記憶に囚われる。
配合を確認するメイベルの横顔。実験データを共有した日々。そして、あの婚約破棄。全てが、龍血石の不吉な輝きとともに、記憶の中で蘇る。
「この匂い......」バルドが眉を寄せる。「通常の薬品とは違うな」
「ええ」ザイドは冷淡な調子で答える。「例の地竜の結晶に似た反応です」
貯蔵棚に手を伸ばし、奥に隠された薬瓶を取り出す。暗紫色の結晶が、月明かりに照らされて不気味な輝きを放つ。底には3ヶ月前の日付が記されている。
(実験は続けていたのか。まさか、あの時の......)
2階からの物音が、思考を中断させた。実験室では何かが行われている。その音には、あの日の暴走実験を思い起こさせる不穏な響きがあった。
「バルドさん、上に......」
その時、轟音が響き渡った。続いて、女性の悲鳴が。
「チッ」
階段を駆け上がる二人。実験室のドアを開けると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
部屋の中央で、メイベル・アポセカリーが床に倒れている。実験着の袖は焦げており、手には割れた試験管が握られている。かつての婚約者の姿は、ザイドの記憶にある凛とした研究者の面影を残しながらも、明らかに何かに取り憑かれたように変わっていた。
その周りを、小型の地竜が威嚇するように徘徊していた。全身を覆う結晶は、3ヶ月前に見たものと同じ暗紫色。しかし、その輝きは明らかに不安定だった。
「待て」ザイドがバルドの動きを制する。「この個体は......あの時の」
そう、この地竜は3ヶ月前、実験が暴走した時に現れた個体。あの時は、混乱の中で逃げ出してしまったはずだが。
「う......ザイド?」
メイベルが、おぼろげな意識で目を開けた。床には紫色の液体が広がり、それは地竜の結晶と呼応するように脈打っていた。
「また、失敗......」
「はぁ......いい加減にしたらどうだ」ザイドの声は冷たい。「これじゃ、あの時と同じだぞ」
「違うの!」彼女は必死に言葉を紡ぐ。「あの時の事故は、私のせいじゃなかった。地竜は、何かに反応して......」
その時、地竜が甲高い鳴き声を上げた。結晶の輝きが急激に強まる。
「まずい!」
バルドが叫ぶ。戦槌を構えながら、彼は地面の震動を感じ取っていた。かつてテラコア鉱山での戦いで体験した、あの不吉な予兆。地竜の結晶が共鳴を始めると、必ず起こる地盤の揺れ。床に落ちた試薬が、震動で不規則に波打っている。
「この振動......」バルドの声が低く響く。「上階は保たん。すぐに避難を」
鍛冶師としての経験が、建物の限界を感じ取っていた。
「まさか、あの時と同じように......!」
ザイドの警告が終わる前に、建物全体が大きく揺れ始めた。地竜の結晶が放つ光は、3ヶ月前の悪夢を思い起こさせるほどの強さで輝いている。
「こっち!」
メイベルが、意外な力強さで二人の腕を引っ張る。彼女は、実験室の隅にある鉄扉を指さした。その扉には「緊急避難通路」の文字が刻まれている。
「地下の貯蔵庫に通じてるわ。あの時の教訓よ」
3ヶ月前の事故の後、彼女は非常口を設置していたのだ。
三人が鉄扉をくぐった直後、実験室が轟音とともに崩れ落ちた。紫色の光が夜空に放たれ、地竜の咆哮が街に響き渡る。
「また......また同じことを」
暗がりの中、メイベルの震える声が響いた。その声には、深い後悔と、何かを悟ったような響きが混ざっている。
「ザイド、あなたが背負った借金。あれは、私のせいじゃなかったの」
「ほう?」ザイドは、皮肉めいた声を出す。しかし、その瞳は真剣だった。3000万Gの借金。婚約破棄。全ては3ヶ月前のあの日に決断したことだ。
「地竜は、何かに反応していたの。龍血石の実験じゃない。もっと深い、地脈の......」
言葉が途切れる。階段を降りきった先の地下室で、三人は足を止めた。そこには、先ほどの地竜が、穴を掘って逃げた後が残されていた。その穴は、まるで何かを追いかけるように、地下深くへと続いている。
「追いましょうか」
ザイドは軽い調子で言ったが、バルドにはその声に潜む緊張が伝わった。しかし、メイベルは首を横に振る。
「待って。まずこれを見て」
彼女は、割れた試験管の破片を掲げる。月明かりに照らされた紫色の残滴が、不気味な光を放っている。
「この反応を見て。普通の龍血石なら、決して示さないはずの波長よ」
震える指で、彼女は地下の見取り図を広げた。そこには複数の地点が印されており、それは地竜の出現地点と完全に一致している。しかし、それだけではない。印の中には、3ヶ月前の事故現場も含まれていた。
「これが、私が必死で探していた証拠。3ヶ月前からずっと......」彼女は一瞬言葉を詰まらせる。「この街の地下で起きていること。それは、私たちの想像を遥かに超えた何かよ。龍血石の異常な反応も、地竜の暴走も、全ては......」
突然、地下深くから低い震動が伝わってきた。まるで、何かが目覚めたかのような振動。
ザイドとバルドは顔を見合わせる。これは、単なる事故の真相究明を超えた何かが始まろうとしている予感だった。
(続く)
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