<丸喜視点>第4話 傘
「ありがとうね。雨が急に降ってきて困ってたんだよ」
「ア、ハイ」
「あーもう、ほんとどうしよう。雨、降りやみそうにないし帰れるかな…」
そう言って、彼女―――樹原さんは僕の手渡したタオルで髪の水を拭きとっていた。
僕は結果的に、樹原さんに傘を差しだし部室へ雨宿りするかと誘ってしまった。
断られると確信していたが、僕の確信はあっけなく敗れて、樹原さんはなんと僕の提案にすぐに乗ってきた。
僕一人しか入ることのない文芸部の部室に、顧問以外の久しぶりの来訪者。それも、僕の気になってる女子がいるってのは、まぁ落ち着かない。
慣れ親しんだ場所ですら、彼女がいるだけで初めて来た場所のように肩身が狭くなってしまう。
樹原さんが玄関で髪の水分を拭っている間、することもないので忙しなく部室周りをぐるぐると歩く。
「なんだかごめんね、水分って本の大敵だよね。こんなびしょ濡れの私が入ったら迷惑だったんじゃない?」
「いえ、本棚にはカーテンをつけて、水がとんでも平気なようにしてるので大丈夫です」
「へぇ、そっかぁ……」
明るい笑顔で相槌を打ってくれる彼女。好きな人に、笑顔を向けられ、話ができているなんて普段なら感涙ものだ。
でも、なんだか、僕はそんな気分にはなれなかった。
今の樹原さんは元気で、普段の彼女って感じの様子だ。
けれども、どうやってもその笑顔には違和感が拭えない。
どこか空気が重たくて、息をしづらい。それは外が雨ってだけじゃなくて。
「オシャレかな、と思っていたけどそういう意味もあるんだ。すごいね」
いつも通りの明るい表情なのに、口元はどこかひきつってるように見え、輝く瞳はどこか闇をはらんでいるような気がする。
そんな勘繰りをしてしまうのは、きっと―――彼女の涙を見てしまったから。
どれだけ、今は笑顔で涙を一ミリも感じさせない表情とは言っても、数分前の悲しみの表情が無くなるわけではない。
何かあったのは間違いない。それはわかってる。
フツーなら、涙の理由を聞いて心配して、何か力になろうとすることが正しいのだろう。
でも、『なにがあったの?』と僕は聞くことができなかった。
泣いていたのは間違いない、けれど彼女はまるでそんなことなかったかのように振舞っている。
コミニケーションをラノベで学んだ僕でもわかる。
これは言外に『さっき見たことは忘れて』と伝えているのだ。
だから、掘り返して聞いても彼女の迷惑にしかならない。
それにそもそもの話。僕には掘り返して聞く権利も彼女を激励できる言葉も持ち合わせていない。
だって、彼女にとって僕は『見かけたら挨拶するぐらいの他人』だから。
そんな踏み込んだことを聞いても、助けられるわけがない。無理な手助けはただのお節介だ。
強がりだとわかっていても、その強がりを無理やりはがすような真似は…できない。
けれど……、
このまま、樹原さんが無理やり感情を押し殺して笑顔に徹するのも、嫌だ。
これは僕のエゴだ。それは分かってる。
良くないけれど、良くない理由だけれど。
やっぱり見て見ぬ振りは嫌だった。
だから、僕は考えつく精一杯の配慮を彼女にすることにした。
彼女の強がりをできるだけ触れることなく、かつ、彼女がこれ以上感情を抑制しないような言葉。
「あの……」
「どうしたの?」
きょとん、と表情豊かに小首を傾ける樹原さん。
僕はそれを見てから、目を逸らして小さく言った。
「辛いことがあったときは―――笑わなくても良いんですよ」
樹原さんはわずかに目を見開いた…ような気がした。
遠く遠く、回って回って、遠回しに伝える。
樹原さんの返答には期待してなかった。伝わればよかった。
響いたのは沈黙。樹原さんは何も言わなかった。
想像通りだった。けれど予想外だったことが一つ。
会話中、自分のセリフで訪れた沈黙は問答無用で反省会行きになる……僕の心の脆弱さを忘れていた。
伝われさえすればいいとは考えつつも、反省点を探し……見つけてしまう。
あっ…間違った……僕、言葉選びを間違えた。
そう思った。
反省会を一度開催すれば、間違いを確信するのに時間はかからない。
この言い方じゃあ、完全に「あなたの強がりを見抜いてますよ」って言ってるものだ。
最初の強がりにできるだけ触れずっての全然できてない。
やってしまった。
そもそも、コミニケーション力をラノベで育てた僕が、現実の女の子を励ましつつ、自尊心を傷つけないダブルミーニング台詞なんて器用な真似ができるわけがなかったんだ。
やってしまったやってしまったやってしまった。
重い空気が重力に合わさって僕の視線を下へと固定する。始まるは反省会。できるだけ、配慮して…言葉を発したつもりだったが、間違った。
その長い沈黙は、僕が反省会を開催して終わるまでには十分な時間だった。
すると、
「……はじめて、言われた」
長い硬直の末、樹原さんの唇がわずかに動いた気がした。
「え?」
「いや、何でもない」
すると、樹原さんの口元は下がって、眉根も戻り、大げさぐらいに笑顔だった表情は、微笑むぐらいの表情になっていた。
「気を遣ってくれてありがとうね」
彼女が言うと、僕はこくりと頷く。
樹原さんが優しくて良かった。
僕のバットコミニケーションを優しく包むこの懐の広さといったら……これが真の陽キャってやつなのかな。
すると、樹原さんは右手に巾着袋(かっこいいやつ)を持ちつつ、申しわけなさそうな表情で言った。
「……着替えたいんだけど。ここ使わせてもらっても良いかな?」
「ど、どうぞ」
僕がそれに応じると、樹原さんは嬉しそうに眉根を上げて「ありがとう」と口にする。
「あぁ、靴下まで濡れてるや…」
樹原さんが靴下を脱いでいる時間に、僕は本棚のカーテンを引いて、水しぶきが飛んでも大丈夫なようにする。
………というか、つい、了承してしまったが、これって結構やばいことなのではないだろうか。
女の子が僕の部室で着替える。
それはつまり、樹原さんが僕の部室で全裸にな――って、待て待て、そんなお下劣な下心はよくない!
僕は心の中の悪しき自身の下心を締め殺す。
しかし、僕も男だ。
いくら締め殺そうとも下心が出てくる。
なので、僕はどうにかして気を逸らす方向にシフトチェンジした。
あー今の状態ってラノベの女子の下着屋イベント、もしくは体育倉庫イベントっぽくないないだろうか。
雨の中の密室で二人きりってのは体育倉庫っぽいし。その密室で僕は外に出るけど、女の子が着替えるって言うのは下着屋っぽいよね……
若干の現実逃避も挟んでいれば、なんとなく自分を俯瞰視できて、冷静さが戻ってくる感じがあった。
僕は樹原さんが靴下を脱いだタイミングで、玄関へと向かう。
しかしそう考えれば、僕はそこまでドキドキする必要もないのかもしれない。
ラノベの展開的には下着屋の場合、知人から隠れるために、同じ試着室に入ったり、体育館だったら、扉に鍵をかけられたりするわけだけど……
ここは内からでも鍵を開けられるし、文芸部に現れる知人なんていない。
僕が外に出れば、頑強な防音扉が、試着室から聞こえる服を脱ぐ小さい音なんて外に決して出さないだろう。
そこまでドキドキすることもない。
僕は完全なる論法で自身の精神を冷や水をぶっかけ、冷静さを完全に取り戻した。
「……じゃあ、外に出ますね」
「え、出なくてもいいよ」
あっけらからん、と彼女は言った。
「え?」
僕は思わず間抜けに口を開け、体が止まる。
そのまま、彼女の言葉の意味を理解しようと脳内コンピュータを回すも、結論は同じ。
出なくていい……だと?
衝撃の発言に固まっていると、樹原さんはなんとなしに言う。
「外は雨降ってるし寒いでしょ? キミも濡れちゃうかも、だし……私が服を着てるときに見ないでいてくれたら、それでいいから」
そ、それでいいのか……?
まさかのお色気イベント発生に、冷や水をかけた僕の心が、全力でエンジンをかける音を脳髄に響かせてくる。
「じゃあ、着替えるから……」
「あっ、ハイ」
振り返ったまま固まっていると、樹原さんが頬を朱に染め、照れくさそうに言った。
僕は素早く視線を他に移すと、鳴りやまない心臓が外の雨の音よりも大きくなっていた。
視界を他に移し、しばらくすると、するする、とすん、ふぁさ…と音が後ろから聞こえてくる。
音の正体を無意識に推測してしまうこの空間。
無理やり邪の心を静め、どこか後ろを見れる鏡ないかと自然に動いていた瞳を黙らせるために、目を瞑った。
これで大丈夫と思いきや、視界を遮れば、他の感覚が鋭敏になるものだ。
普段よりもねっとりした空気が肌に触れ、衣服の落ちる音が耳に入って、後ろの光景を否が応でも想像してしまう。
あっ、今の音はズボンか…? だとすると、もしかして今、僕の後ろに下着姿の樹原さんがいるのか…?
下劣な思考が頭に溢れて止まらない。
「何も聞かないんだね、キミは」
「―――っ!」
急に樹原さんの声が聞こえて、身体がびくりと反応する。
やばい、なんだって。聞いてなかった。
「えぇと」
「………普通は気になるんじゃないんかなって思ってさ」
聞くのを忘れて困っていると、樹原さんがそう言ってくれた。
気になる…? この状況で普通の人なら気になることと言えば……あっ、まさか。
もしかして、僕が樹原さんの着替えに聞き耳を立てていることに勘づいている⁉︎
それで『普通は気になるじゃないかな? 女子の着替えなんてさ』と、遠回しな探りを入れてきている?
まずい、その通り過ぎる。
このままでは、なすすべもなく僕の本心は彼女に見透かされてしまうだろう。
それはダメだ。着替えに興味津々なんて知られたら、間違いなく嫌われる。
どうにか、言い訳を考えないとっ……!
「えっと、その安心してください樹原さん」
「安心?」
「そうです。確かに僕、樹原さんの着替えにめちゃくちゃ興味はあります」
「うぇっ?!」
樹原さんは素っ頓狂な悲鳴をあげるも、僕の耳には入らなかった。
それよりも、弁解に夢中だった。
「着替えシーンなんて、もうあれです大好物です。ヒロインの水着見開き絵はもうそれは隅々まで目を凝らして、じっくりと見ますが、それはあくまでフィクションの媒体での話……とりあえず、僕はリアルとラノベの境界線はしっかり線引きしています。なので、安心してください! 樹原さんの不快になるようなことはしません」
よし、言い切ったぞ。
僕は樹原さんに安心して貰おうとした言葉を言い切るも、何故か樹原さんからの返答がない。
あれ、なんか間違った?と思うのも束の間、困惑する樹原さんの声が聞こえてきた。
「えっと……その、着替えの話はしてなくて」
「え」
僕は固まる。
今世紀最大にバットコミニケーションだった。
流石のバットコミニケーション。真の陽キャですら包み込めない危険球を放ってしまった。
「あの……本当にごめんなさい。この場で良かったら全然、土下座します」
僕が無駄のない所作で、土下座の態勢に入ると、背後から噴き出すような音がした。
「あはははははっ」
すると、それを境に樹原さんは笑い出した。
僕はもう何がどうなってるのか、わからなかった。
「……なんか、私緊張してるのがバカらしくなってきたよ」
樹原さんが小さく何か言ったが、雨の後にかき消され耳に入ってこなかった。
何を言ったのか、気になっていたところで、樹原さんが言った。
「別に気にしないでいいよ。私が聞いたのはね、私が泣いてた理由を聞かないんだなって、こと」
僕は樹原さんに背中越しに返答した。
「えっと……樹原さんは話したいんですか?」
「それは………いいや、話したくないかな」
「なら、それでいいですよ。話したくないことを無理矢理、聞きたいとは思わないですから」
「…………そっか」
僕が言うと、樹原さんはなんだか間を開けて一言。
また、静かな空気が流れる。でも、不思議とさっきよりも息苦しくはなかった。
しばらく無言が続くと、
「もうこっち見ても大丈夫だよ」
「あぁ、はい…」
あぁ、もう終わっ……じゃなくて、やっと、終わった。心臓がいくらあっても足りないとはまさにこのことだ。
目を開き、身体の力が抜ける。
うん、でもそっか。終わったのか。少し残念感もあるけど、バックも後ろに置いてるし、取らないと帰れないからね。
僕は抜けた体に力を入れて、後ろを――……
「なんで、こっち見ないの?」
「え……あっ、いやぁ。あの……」
振り向けなかった。
なんか……気まずくて後ろを振り向けない。
樹原さんは戸惑いを声に含ませ、僕に言う。
「もう着替え終わってるから、大丈夫だよ?」
「そ、そうですよ…ねぇ」
そうなんです。振り向いてもいいんです。
けど、なんか恥ずかしいんです。
だって樹原さんが後ろで着替えて、今着替え終わったって、なんか、生々しさが新鮮すぎる……じゃん。
しかし、ずっとこのままでは変な空気になる。
僕は羞恥を押し殺し、ギギギと壊れ掛けのロボットみたいにクビを動かして振り向いた。
後ろに居た樹原さんは少し照れくさそうに頬をかいていた。
「ちょっと……なんか、そんな反応されると、こっちまで恥ずかしくなっちゃうよ」
すると、そこにはジャージから制服に着替えた樹原さんの姿。
髪はまだしっとり濡れているのが、いつもの制服姿なのが、逆に非現実感を煽ってくる。
色々あるが、とりあえず樹原さんに恥をかかせてしまったことに対して、僕は反射的に頭を下げていた。
「ほんと、ごめんなさい」
「いや。謝らなくてもいい…けど」
彼女はそう言うと、チラリと僕の先にあるドアを見る。
僕も釣られて視線を移すと、雨の音がさっきよりもだいぶ優しかった。雷はさっきからあまり聞こえていない。
「そろそろ、帰るね。だいぶ雷も雨も落ち着いてきたし」
「わ、わかりました……キヲツケテ」
彼女はそう言うと、バックを肩にかける。
「また……雨宿りしに来ても良いですから」
僕が言うと、
「うん、ありがとう」
そう言って、樹原さんは微笑んだ。
樹原さんは今日会った中で、一番自然な笑顔。
なんとなく、そんな気がした。
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