2nd. 闘う、うつ病

 眼が開かない。

 昨夜もよく眠れなかった。吐気で眼が覚め、そこから眠れなくなるのが群青の夜だった。同じベッドで眠る葵を起こさぬよう、慎重に寝室を抜けだし、バスルームでぼんやりやり過ごす。ゲームでもできれば気が逸れ、時間も潰れていいのだが、頭を使うことが酷く億劫で、数分も続けられず、疲れてやめてしまう。

 そうして眠れぬ夜を過ごすせいで、朝はまともに起きることができない。だが出勤する葵の見送りだけは絶対にしたかった。どんなに俺がよく眠っていても、必ず起こしてと葵には云ってある。

 翌朝も、約束に違わず、葵は群青を起こしてくれた。眼が開かない。だが群青はよろよろとベッドを降りると、壁に手をつきながら玄関まで歩んだ。

「朝ご飯はひとりで食べられると云っていたから、用意しませんでしたよ」

「うん……大丈夫」

 有難う、と云うと葵は笑って両手を広げた。

 群青は一歩踏みこむ。すると葵は群青の両脇に手を入れ、ぐっと抱えあげた。

「うーん……42.1キロ」

「昨日測ったら、42.7キロあった」

 こうして毎朝、葵は群青を抱きあげ、体重測定をするのだ。

「消えた0.6キロはどこに……あ、群青くん、昨夜も夜中眼が覚めた?」

「……葵さん、僕のせいで起こされなかった?」

「ぐっすり朝まで快眠でしたよ」

「ならよかった」

 ぐら、と目眩がする。葵は群青を抱えたまま、寝室へと歩む。

 まだ5月なのに、エアコンを入れて。ベッドに群青をおろすと、毛布でくるりとくるむ。

「ごめんなさい……」

「群青くんは、謝ることを一つもしていませんよ」

 ならば謝るようなことを云おう。ひねくれた物云いでもすれば、あんたは俺を捨てるだろうか──捨てるわけがないことが、切ない。

「時間、大丈夫? 駅までダッシュできる歳じゃないでしょ」

「辛辣だなあ。まだまだ、駅までくらい走れますよ」

 葵は群青よりも14歳上である。出会った時から5年が経過し、ついに四十路に踏みこんでしまった。

「……気をつけてね」

「群青くんもね」

「俺は家にいるだけだし」

「生きててね、群青くん」

 うつむき、うん、とうなずく。生きるということは、群青にはとても難しい。だけれど、葵が生きてと云うから、俺は生きている。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 葵を吸い出し、ぱたんと閉まったドアを暫く見つめて。群青は毛布にもぐる。右腕を伸ばす。葵が寝ていたところは、まだ仄かに温かい。毛布を被ったままそこまで躄り、まるくなる。

 また電気代をむだに使って、とぼんやり思ううちに、眠っていた。エアコンの効いた部屋で、ふわふわの毛布にくるまれ、好きな人の体温の残るシーツにうずまって眠るのは、ぜいたくだ。そうして惰眠を貪り、ふっと眼が覚めた時には、いくらか気分も回復していた。

(ごはん……食べないと)

 『生きる』のが目標だ。ベッドから降り、よろよろとキッチンへ向かう。食パンを袋から取りだしてみたが、とても一枚は食べれそうにない。半分に切り、さらに半分に切る。焼いたりバターを塗ったりするのはかったるかったので、そのまま噛みついた。

 片手に食パンを持ち、もう片方の手でスマートフォンを操作する。推している配信者が動画をあげているのを発見し、視聴する。食事は嫌いだった。食事だけに集中するとろくに食べれないため、本を読みながらだったり、こうして動画を観ながらだったり、所謂『ながら食い』をする。そうすれば幾らかは腹に入った。

「……薬」

 食前に飲む薬を忘れていた。まあいいか、と食後の薬とともに一緒くたに飲む。薬は朝、昼、夜、寝る前と分け、プラスティックの容器に葵さんが入れてくれている。飲み忘れがないように、と始めた習慣は、吐気を始めとする身体症状が出てきてから。それまでは所謂頓服薬──症状が出た時だけ飲む生活だったから、今の為体は悲しい。悪化の一途を辿る群青の病いは、『精神疾患』である。パニック障害から引き起こされたうつ病と診断された群青の目標は、生きること。葵さんと約束したから、今日も俺は生きる。

 薬を飲むときに使ったコップを、シンクに置く。さっきパンを切るときに使った包丁も放置していた。体が怠く、横になりたかったけれど、両足を踏んばる。コップを、洗ってみることにした。スポンジに洗剤をつけ、洗い、流す。放置していた包丁も、そろりと取る。包丁とか、はさみとか、刃物を握るのは少し怖い。ぼんやり死にたいと思っているから、つい自傷してしまわないかと怯えるのだ。その怖い気持ちを我慢し、包丁もそろそろと洗う。水切りカゴにコップと包丁を置き、息を吐く。いつもは葵さんが洗ってくれるまでシンクに放置している。今日は頑張って洗ってみた。これで、少しでも葵さんの手間が省けるのならうれしい。そう思い、群青は手をのばす。布巾掛けから布巾を取り、濡らし絞って、シンクを拭く。パン屑を拭き取り、濡れたところを拭う。もうちょっと、頑張れる。端っこの方まできれいに拭こう──。

「あ」

 シンクの端を、腕をのばし拭いていた。腕を伸ばすだけじゃ届かず、指先で布巾を押しだしていた。その布巾が──落下した。シンクの横には冷蔵庫が置いてある。布巾は、シンクと冷蔵庫の間に落ちてしまったのだ。

(どうしよう……)

 シンクと冷蔵庫の間は狭く、群青の腕は入らない。しゃがみこんで覗いてみたが、暗くてどこに布巾が落ちているのかも判らない。どうしよう。ぼんやりする。しんどい。失敗した。台拭きすらできないなんて、能なしというレベルじゃない。なんで生きているんだろう。──ぼんやりする。

 しゃがんでいる体勢が、しんどくなってきた。群青は冷蔵庫の前にごろりと体を倒す。右肩を下にし、横向きになって。膝を曲げ、まるくなる。布巾を、拾わなければ。どうやって。どうやればいいのか判らない。さすが社会落伍者だ。人並みの生活すらできないゴミだ。ゴミ。ゴミが。髪の毛や埃が見えた。床に頭をつけていた。夜に葵さんが掃除をしてくれるけれど、ほら、今日も俺が汚している。布巾を。布巾は、とれない。どうしよう。ぼんやりする。怠い。体の周りに靄がまとわりついて、その靄がじっとりと重たい、ような感触がする。眼を閉じる。少し、うとうとした。

 寒くて眼が覚めた。眼を開けるとゴミと冷蔵庫の短すぎる足が見えて、ああ、失敗したのだと思いだした。布巾、どうしよう。鼻を啜る。寒い。ぼんやりする。背中が痒い。服の中に髪の毛が入ったのだろうか。とても痒い。でも、掻くという動作をするのも億劫だった。また眠ってしまおうか。眠ればつらいことが暈けるのだ。今から未来へ、ショートカットできるのだ。葵さんのいない今から、葵さんの帰ってくる未来まで。──そうして、群青は冷蔵庫の前でまるくなったまま、うとうとと眠り、起きては失敗を悔い、またうとうとと眠って過ごした。

 がちゃがちゃ、と鍵の音がした。葵さんが帰ってきた。起きて、出迎えなければ。でも、体が重たくて起きあがれない。出迎えもできない。やっぱりゴミだ。

「群青くん? わあ、どうしたんだろう」

「捨てる?」

 スーツ姿の葵さんが、膝を折る。床に転がったゴミのまえに、膝をつき手をのばしてくれる。

「葵さん、つぎのゴミの日、俺を捨てる?」

「捨てませんよ」

「俺、ビニール袋の中に入って、自分でゴミ捨て場に行く」

「それは、すぐ拾いにいかないといけませんね」

 葵さんの両手が伸びてきて、ゆっくりと抱きあげられる。それでもぐらぐらと目眩がした。

「ふふ」

「なに」

「段ボール箱に入った、捨て猫ならぬ捨て群青を想像したら、可愛くて」

「ダンボールじゃない、ゴミ袋に入って捨てられるんだ」

 よいしょ、と群青を抱えあげると、こたつまで運搬してくれる。

「群青くん、冷たくなっていますよ。いつからこうしてるんですか?」

「朝……薬飲んだあと……」

「朝は薬を飲んだんですね。えらい」

「でも、昼と夜は飲んでない」

「朝からずっと、あそこで寝ていたの?」

「ふきんを……」

「布巾?」

「シンクと、冷蔵庫の間に落として……俺、拭くのもできなくて、ゴミで……」

 群青はこたつの中にもぐりこむ。もともと一人暮らしだった葵さんのこたつは小さくて、体を折り曲げまるくなる。

「ああ、ここに落っことしたんですね」

 葵の声が聞こえる。顔だけだし、そちらを見る。葵は冷蔵庫を動かし、腕を伸ばすと布巾を救出していた。

「ごめんなさい、面倒かけて」

「どうして? こんな時こそ、僕の出番なんです」

 髪の毛と埃にまみれた布巾を、葵は水道で洗っている。その時、かれの顔がぱっと輝く。

「群青くん! 食器を洗ってくれたんですね!」

「でも、台拭き、失敗して……」

「すごい、コップも、包丁も、洗えているじゃないですか。台拭きも、僕の手間を減らそうとしてくれたんですね、有難う」

「却って手間を増やして、ごめんなさい」

「群青くんが謝ることは、一つもない」

 朗らかに云って、葵は布巾を布巾掛けにかける。

 それからこたつにもぐった群青の傍に座ると、頭をよしよしと撫でてくれた。

「ご飯は食べれそうですか? サラダ巻きを買ってきたんです」

「サラダ巻き……」

「一緒に食べましょう」

「うん」

 もう一つ、群青の頭を撫でて。葵は玄関に引き返している。せめて買い物袋の中みを冷蔵庫に入れるとか、それくらいのことすらもやれないのかと自分に幻滅する。それでも、こたつから出て、ご飯を食べるために座りなおすだけでも、群青にとっては大仕事なのだ。

「はい、葵くんのお箸」

「……箸すら取りにいかないで、ごめんなさい」

「起きあがって、ご飯を食べようとしている葵くんは、えらい」

「えらくなんかない……」

 葵はにこにこと笑い、さあ食べましょうと包みをひらいている。群青は、箸をのばす。頑張って食べたら、葵さんはまた褒めてくれるのだ。食べて、薬を飲む。それだけで褒めてくれる人がいる。

 不幸と幸福が釣り合うものであるのならば、まったくそうだと思う。

 病気になったことが不幸ならば、葵さんに出会えたことが幸福だ。否、それならば天秤は幸福の方に傾いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る