僕のたいらかな日々
請太
1st. 巻頭ポエム
高みを見る。
だが、
仕方なく、その高みを見る。最上階のベランダであるとか、柵に囲われた屋上であるとか。そういうところを見ながら歩く。
あの高さから飛び降りれば、死ねるだろうか。
思うともなく思う。群青のこれは、無意識のものだった。否、死にたいという思いは指向を持ち、であるのならば意識的ではあるのだろう。だが、よく歩けない足で、日盛りの中を歩く帰路。群青はふらふらと、高みを見ながらゆくのだ。
だるい。つらい。つかれた……。
何を、と笑う自分がいる。残業をやり遂げた社会人ではない。残業どころか、会社に勤めてもいない、俺は
高みに、寄りついている。
焦げ茶色のビルだった。煉瓦造りの古いビルディングは、あちこち罅割れ、饐えた臭いがしていたが、味があると云えなくもない。剥きだしの外階段は錆だらけで、足を乗せると軋んだ。ぎいぎいと軋ませながら、群青は上る。
(六階……七階……かな)
よく数えられない。諦めて、フェンスを握る。肩で息をしていた。ただ歩くだけでもつらいのに、一気に階段を上ったから、心臓が爆発している。──ほんとうに爆発して、死んでしまえればいいのに。
(でも、死ねない)
フェンスに指を引っかけ、縋るよう立っていた。顔を突きだす。頬に金網が食いこんだ。目玉を動かし、下を見る。この高さから飛び降りたら、死ねるだろうか。死ねなかったら──生き残って、重度の障害でも負うことになったら──(それでも、あの人は懸命に介護をしてくれる。俺を捨てたりしないんだ)
可哀想だって、おもう。俺の世話をするだけの生涯なんて、酷いというものじゃない。ねえ、俺が死んだら、あの人は解放される。好きな女性ができるかもしれない。その女性と家族をつくり、幸せに生きてくれたら……。
微笑む。群青はフェンスを上る。乗りこえる刹那、大好きな人のことを思う。ふつうの人のよう歩けなくても、数を数えられなくても、思うことはじょうずにできて、少し、うれしかった。
背中に、へんな感触があった。
背中から落ちたのだろうか。
「……落ちた?」
群青は片手で、額を押さえる。ぼんやりと白く濁り、思考がうまくない。
(俺……何をしていたんだ)
今日は病院の日で、十一時半の予約時間に合わせ家を出て……。
(診察は、受けた。薬ももらった……)
それで、ええと……。
「あっ、眼が覚めてる! 教父! 教父!」
「眼が覚めている、ではなく、眼が覚めておられる、だよ」
人声に、群青は身を起こす。腹からばさりと落ちたのは、真っ白い布だった。ベッドも白木でできており、床に着く脚も白い。
(ベッドだけじゃない……)
見あげた天井も、見おろした床も、見まわした壁も。椅子も机も、その部屋にある調度のすべてが純白である。今時、病院にもこんな部屋はない。
「ここ……どこ」
独り言に、返事がかえってくる。
「アルヴァテラ国、王都の大聖堂にございます」
答えてくれた人は、老齢の男性だった。
「と云っても、判りますまい。あなたの元いらした土地からは、『異世界』と呼ばれております。あなたは、異世界より来訪くだすったのです」
「異世界……転位……って、ラノベとかでよくあるやつ」
まさか自分が、と思って、それもライトノベルによくある表現だと笑う。
「ねえねえ教父! 巫女姫さま、とっても綺麗だね! 肌が雪のように真っ白で、さらさらの黒髪に、とっても大きな黒い瞳をしているよ。それに、声が、蜂蜜のように甘いんだ」
ぼく、黒い瞳って初めて見た!とはしゃいだ声をあげるのは、十歳くらいの男の子だ。この子も──教父と呼ばれた老爺も、白い服を着ている。
自分もどうせ白い服を着せられているのだろう、と思って見おろすと。
「……裸」
慌てるほどの元気はなかったが、嫌な気持ちはした。顔を顰めると、教父が男の子に、お召し物をお持ちしなさいと云っている。元気に返事をし、部屋を出ていった男の子は、すぐに戻ってきた。果たして、純白の布を握っている。
「背をこちらにお向けください」
自分で着れます、と云えずつい背を向けてしまったのは──人に着替えをしてもらう癖が、ついていたからだ。
「……間違いなく、あなたは神託の巫女姫でいらっしゃるようですな」
「巫女姫……ってさっきから云っているけど、それ、俺のこと?」
「異世界より召喚されし巫女姫さまが、この地の邪を清めてくださると云いつたえられております」
「それが俺?」
「さようで」
「俺、男なんだけど」
「巫女姫とはあくまで呼称でございます。邪を清める能をお持ちのかたをお迎えする時、便宜上その呼称を使わせていただいております」
服を着せられる。てっきり背中から着せかけられると思ったが、教父は群青の前に服地を落とすと、首の後ろと腰の後ろで、それぞれ紐を結んだ。背中、とぼんやり思う。背中にまといつく妙な感触はつづいていて──まるでそれを見越したかのよう、着せられた服は背中の部分がぱっくりと開いていた。
「なに、この服」
教父が着ているのは立派なローブだし、男の子が着ているのも貫頭衣──というのか、頭からすっぽりと被るワンピースのようなもので、勿論背中など見えていない。
「巫女姫さまのお召し物にございます」
「ふうん……それで、俺はなにをすればいいの? 剣と魔法で魔王と戦うの?」
「そのようなこと、とんでもない! 巫女姫さまは国に無二の存在であらせられるのですぞ」
「邪を清める、とか、しないでいいの?」
「巫女姫さまは、ここにいらっしゃるだけでよろしいのです。その存在により、邪は清められ、国に安寧が齎されるのです」
「この白い部屋に、閉じこめられるってこと?」
「ご自由に外出なさってください。護衛をおつけすることだけお許しいただければ、なにをして過ごされてもかまいません」
「判った。それで、『異世界』の知識でチートして、色んなアイテムを作ったりするんだろう。俺たちの日常をやるだけで、ちやほやされる役」
「よく判りませぬが……確かに、歴代の巫女姫さまは、国に新しい技術をもたらされるかたもおられれば、秀でた魔法使いとして名を馳せた冒険者もおられます」
「帰る」
「……は」
群青は、ベッドを降りた。
背中がうそ寒い。うそものの世界は、喩えば群青が帰ろうとしている世界よりも、ずっと群青に優しいだろうということは判る。
「帰る……とは、あなた様がもといた世界にですか? なんと、かつてそのようなことを申し出られた巫女姫はおられませんぞ」
「思いだした。俺は飛び降り自殺をしようとして、ここに来た。歴代の巫女姫さまとやらも、みんな、そうやってここに来たんじゃない?」
つらくてつらくてつらい、社会から。落ちてきた世界で、巫女姫と崇め、大切に守られ、ここにいるだけで世界が救われるというのならば。社会落伍者たちは、元の世界に帰るなどという発想は持たないのかもしれない。逃げ場としてはありえないくらい──最高だ。
「巫女姫さま!!」
教父が叫ぶ。男の子は真っ青な顔をして、震えている。群青は白い部屋の白い窓を開け、飛び乗っていた。
(ああ……ここは、高い場所だったんだ)
塔のような建物の、最上階の部屋らしい。見おろすと、地面までの距離が、とても似ている。あの時と──そう思った瞬間だった。
「……、」
群青は、瞬く。正に、瞬きの間だった。
「ここは……帰ってきた、のか」
焦げ茶色のビル。軋む外階段を上って、出た屋上。張り巡らされたフェンスによじ上り、跨いだところで。
「……?」
人声がする。喚くような声は──白い衣を着た男の子ではなく、白いローブを着た老爺でもなく、ふつうの、スーツ姿の男性が発していた。
懐かしさがこみあげた。今朝、出勤するときの
ぼんやりとしている間に、周囲が騒々しくなった。サイレンの音を聞いた気もするが、それは後に、救急車に乗せられたせいで、記憶が歪んでいるのかも知れない。群青はフェンスから降ろされ、救急搬送されていた。
窓がない、とぼんやり思う。病院に到着し、群青が入れられた部屋には、外から鍵がかけられていた。灰色の壁と、テーブルに差しこまれた椅子が二脚。あとはベッドが一台きりの部屋。ベッドにはマットレスだけでシーツも布団もかかっていない。
椅子に座り、ぼんやりとしていた。医師や看護師が出入りし、声をかけてくれたようだが、よく聞こえなかった。聞こえたのは──。
「群青くん」
低くて、やわらかい。この人の声だけは、いつだって、どんな泥の中に沈んでいようと聞こえるんだ。
「葵さん……」
眼鏡をかけているせいで、いつもより眼が大きく見える。
「偉かったですね、群青くん」
「……?」
「財布にこれを入れておいてくれたでしょう? だから僕は、すぐにこの部屋に入ることができました」
「それ……俺が書いた」
緊急連絡先、と書いたメモ。「一番にこの人に連絡してください」その文面の横に、数字が並んでいる。葵の携帯番号だ。
「そう、群青くんが書いて、ずっと財布に入れていてくれたんです。とても偉い」
頭を撫でられ、ふわっとなった。もっと撫でてほしくて、葵の手首を両手で掴み、頭を下げる。
「このとおり、僕はかれの近しい者です。免許証をお見せしましたよね? 僕とかれが同居しているということも、証明できたかと思います」
「しかしね。自殺未遂者は、閉鎖病棟にて処置をすることと、ガイドラインにね」
白衣を着た医者らしき人が、腕を組み葵を睨んでいる。このお医者さん、いつからいるんだっけ。
「かれはうつ病、パニック障害の罹患があり、片岡神経科クリニックにて加療中です。主治医は文紀副院長です。治療の方向は常に主治医と話し合っています」
「そんな町医者のね、手に負えない患者だからね、こうして運ばれてくるんであってね」
失礼します、と一礼し、葵はスマートフォンを手に取る。
「もしもし、お世話になっております、
ここまで聞こえてくる大音声に、葵が丁寧に説明している。やがて、葵はスマホを医者にさしだす。医者は嫌そうに耳にあてたが──更に嫌な表情になると、すぐにスマホを葵に返した。
葵は返されたスマホで、しばらく文紀先生と喋って、通話を切った。
医者は既に部屋にいない。ぼんやりと撫でられていたら──葵は通話中も、医者と話している時も、ずっと群青の頭を撫でてくれていた──優しい瞳に見おろされる。
「帰ろうか、群青くん」
「帰って、いいの?」
「僕は、群青くんに帰ってきてほしいです」
「……っ」
なぜか、涙が出てきた。差しだされた手は、ずっと俺を撫でてくれていた手だ。大好きな葵さんの手に、群青は飛びついた。
閉塞の部屋を出ると、そこもまた閉塞だった。暗い廊下を歩き、スタッフステーションらしいガラス張りの部屋の前にさしかかる。葵さんが声をかけると、看護師が出てきた。腰の鍵束から鍵を取りだし、扉を開ける。重そうな扉は二重になっていて、そこを抜けたところで、葵は看護師に頭を下げている。
そこから先に、鍵のかかったドアはなかった。病棟を抜け、エレベーターで一階に降りる。病棟は騒がしかったが、受付のロビーは閑散としている。午後は外来の診察が終わっているせいだということを、なんとなく思いだす。総合病院は、どこもそうなのだろう。
正面玄関から外に出る。葉っぱの匂いのする風を吸うと、なぜかまた涙が出てきた。
「ごめんなさい……」
葵は、眼鏡をしている。仕事の時にしか眼鏡をかけないことを知っている。つまり、葵は会社を早退し、病院に駆けつけたのだろう。──俺があんなメモ、財布に入れていたりなんかしたから。
「めいわく、ばっか、かけて、ごめんなさい」
「鬱が酷い時ってね、死ぬ気力もないんだそうです」
二十六歳の男が泣いているだけでも気持ち悪いだろうに。葵はいっこう気にした様子はなく、群青と手をつなぎ、ゆっくり歩いてくれている。
「死ぬにもエネルギーがいりますもんね。だって群青くん、屋上まで階段を上ったんでしょう。なんとフェンスにも上れたんです。気力も体力も、ずいぶん回復したんだなあって、感動しました。だって僕、寝たきりの群青くんを知っていますから」
笑うと、目尻に皺ができる。葵は群青より、十四も年上なのだ。
「いっぱいご飯を食べて、たくさん眠って、その成果がでているんですよ。群青くん、頑張ったんだなあ、と思いました」
群青くんはえらいですね。そう云って、つないだ手と反対の手で、葵は群青の頭を撫でる。
俺が帰りたかったのは、異世界じゃない。この人のところなのだ。葵さんのところに帰ってきたんだ、と思うと、しゃくりあげて泣いていた。
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