3rd. 按分

 足音。コンクリの階段をのぼってくる。時計を見る。葵さんかな。葵さんならいいな。期待をこめ、玄関に続くドアを注視する。がちゃがちゃと、鍵を開ける音。葵さんだ!

 群青はこたつから抜けだす。立つときちょっと目眩がしたが、踏んばって。ドアを開け、玄関に飛びこむと、葵が靴を脱いでいた。

「おかえりなさい、葵さん」

「はい、ただいま、群青くん」

 靴を脱ぎ、玄関にあがった葵は、群青の両脇の下に手を入れ、抱えあげる。

「42.6キロ」

「すごい、昼に測ったとき42.6だった」

「ふふふ、僕は100グラム単位で群青くんの体重が判りますから」

 抱えていた群青をおろし、葵は壁にたてかけていたショッパーを手に取った。

「今日は、群青くん元気にしてましたか?」

「ふつうぐらい」

「では、ちゃんと生きた群青くんにプレゼントです」

「ちゃんとは生きていない……だらだら寝てただけ」

 今日もゴミ人間の一日だったと、とめどなく反省点を挙げる群青に、葵がショッパーを手渡してくる。

 大きさや形で、中みを見ずとも判った。ショッパーに書かれたロゴにも見覚えがある。口を閉じていたテープを剥がすと、果たして洋服が入っていた。

「なにこれ」

「着てみませんか?」

 葵は群青の肩を抱き、狭い玄関を歩む。居室に着くと、群青は入っていた洋服を広げてみた。

 濃紺の生地はパイル地で、肌触りが良い。これから来る夏に着るのにぴったりの、半袖のシャツと、膝丈のズボンのルームウエアだった。

「コッカースパニエル」

「はい?」

「この犬」

 シャツの胸に大きくプリントされているのは、犬だった。長く垂れた耳は薄茶で、もこもこの毛皮に覆われているわりに、すっきりとした体格をしている。

「さすが群青くん、一目で判るんですね」

「誰でも判る」

「僕は知りませんでしたよ。でもね」

 葵は朗らかに笑う。

「群青くんは犬が大好きだから、きっとこの服を着てくれる、という下心はありました」

「僕なんかにこんな……ブランドものの服なんて、もったいない」

「コッカースパニエル、嫌いですか?」

「犬は好きだけど……」

 じゃあ着ましょう、と葵は群青が着ている服に手をかける。

「はい、ばんざいして」

 云われるがままばんざいをすると、すぽんと服を脱がされる。

 シャツを着て、ズボンを履く。新品の服の匂いがして、少し背中がかゆくなる。

「絶対群青くんに似合うと思ったんです」

「幻滅した?」

「惚れなおしました」

「これ、ぶかぶかだけど」

「たくさん食べて、ぴったりにしてくださいね──という意味もあるのですが」

 シャツやズボンをひっぱり、整えながら葵は云う。

「群青くん、ぴったりサイズ苦手でしょう」

「……首が苦しい」

 群青は、シャツの首回りをひっぱる。

「ああ、やっぱり。ウエストはどうですか?」

「ウエストはぶかぶか。でもぶかぶかの方がいい」

「それなら、上は僕が着ます」

 葵はジャケットとワイシャツを脱ぐと、群青が脱いだシャツを着る。

「どうですか?」

「似合ってる」

 思わず笑いが溢れた。大きく犬のプリントされたシャツを着るには、ちょっと、かなり、葵さんはおじさんだ。

「こんなおそろいもいいものです」

「?」

 葵は自分の着ているシャツと、葵が履いているズボンを指す。

「ふたりで上下を半分こして着るの、いいと思いませんか」

「犬好きの俺にシャツを買ってきたんじゃないの?」

「あっ、そうでした。迂闊にも僕が犬のシャツを着ていますね」

「俺の好きな犬のシャツを、俺の大好きな群青さんが着ているから、最高だと思う」

 パイル地のズボンは肌に気持ちいい。葵さんもパイル地好きならいいと、思う。

「……なに、それ」

 両手を広げ、腰を落とした体勢の葵に訊くと。

「ハグ待ちです」

 真顔で答えられ、また笑った。

 笑いながら、群青は葵の腕のなかに飛びこむ。

 タオル地のシャツが顔にあたって気持ちいい。新品の服の匂いの向こう側に、今日一日働いた葵さんの匂いがする。

「僕の買ってきた服を着る群青くんはいいですね。また買ってこよう」

「……食べ物も、着る物も、なんでもかんでも、葵さん頼みになってる」

「なにか不都合が?」

「26歳の男が、情けないなあって」

「40歳のおじさんが、14も年下の男の子を囲っていることこそえげつないのでは」

「囲ってるって」

 また、笑いが溢れる。

「俺こそいつも疑問なんだって。どうして俺みたいな社会落伍者のゴミクズの傍に、葵さんみたいな真っ当に生きている人がいてくれるのか」

「僕こそいつも答えてますよ。僕は群青くんの顔が大好きなんです。イケメン配信者として有名だったと聞いて、納得したものです」

「その話しはやめて」

「では僕の所見を。長い睫毛に囲われた大きな眼は、だけど鼻や口との配置がバランスが絶妙に整っている。真っ白な肌に、顔自体が小さくて、そこらのアイドルなどよりよほど綺麗な顔だと思っています。──もっとも、おじさんは最近のアイドルなどよく知りませんが」

「知ってたら逆に怖い」

「それから、きみの声についても語りたい。甘くてやわらかい、その声で名前を読みあげられるとなると、スパチャも弾みます。ヴァイオリンの演奏だけでなく、きみの声で寝落ちるリスナーも多かったのでは」

「もういいって」

 腹を押さえて笑うと、葵もにこにこと笑い返す。

「群青くんがたくさん笑ってくれてうれしい」

「俺なんて単純だ。葵さんが帰ってきて、一気に元気になった」

 タオル地の気持ちよい服は、葵が買ってくれたもの。生地の気持ちよさもだけど、葵が買ってきてくれた、というところが重要なのだ。思い入れのある服に、もうなってしまった。このズボンを履いて、明日を生きる。明後日を。その次の日をずっと。

「葵さんが思うより、はるかに、俺、服を買ってもらってうれしい」

 他人から『貰う』ということが、恐怖だった時がある。

「うれしいって思えることが、うれしい」

「うん」

 葵が頭を撫でてくれる。今日も今日とて、社会落伍者のゴミは、そのくせ生きてのびてしまったけれど。葵が微笑んでくれるたび、まだ生きていてもいいのかと、生きていたいと、思ってしまって。それは少し苦しくて、いっそつらい時もあるけれど。夜のご飯を食べよう。夜の薬を飲もう。生きて、ゆこう。そんな風に、群青は思う。

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