華陰山の隠者 ~東晋の桓温(かんおん)、ひとりの隠者と出会う~

四谷軒

灞上(はじょう)にて

 西暦三五四年二月、東晋の桓温かんおん、北伐を開始――。

 それは、蜀漢の諸葛亮が五丈原にて没した西暦二三四年より、百二十年経ったあとであり、日本から遣隋使が大陸に訪れる西暦六〇〇年から、二百五十年ほど前のことである。 


「北をつ」


 東晋の征西大将軍・桓温は四万の軍を興し、前秦の都、長安攻略を目指した。

 対する前秦は、ていという民族の国で、まだ建国したばかり。

 やがて華北を統一する大国家となるが、それを苻堅ふけんはまだ登極していない。


「攻めよ、攻めよ、どこまでも攻めよ」


 桓温は男盛りの四十二歳、いまだ小国である前秦を容赦無く攻め立てた。

 すでに成蜀(当時、蜀に自立していた王朝)を平らげた桓温は、当然ながら西から東からと前秦を翻弄し、桓温率いる本隊は、前秦を藍田、白鹿原にて破り、四月、ついに灞上はじょうに達した。

 㶚上というのは、長安の東にあり、㶚水はすいという河川を挟んで、その長安と指呼の間にある地である。


「見よ、わが軍を。我の威光を」


 桓温は得意だった。

 東晋の宮中にて、競争相手である殷浩いんこうを蹴落とし、こうして北伐に出て、前秦の軍を打ち破った。

 その前秦の都、長安はもう目と鼻の先だ。

 これはもう、北伐は成ったと言っても過言ではあるまい。

 そうほくそ笑む桓温に、弟の桓沖かんちゅうが言上に来た。


「兄者、このあたりの者たちが」


 桓沖が言うには、付近の住民が牛をいて酒を持参し、桓温ら東晋軍を歓迎したいと申し出ているという。

 実際に彼らを見に行った桓沖は、ある老人が「生きてふたたび、この目で官軍を目にしようとは」と感涙にむせんでいる姿を目撃した。

 東晋――つまり晋はかつてこの地を支配していた(史上「西晋」と呼ばれる)。老人からすると、軍と言えた。

 桓沖は謹直な性格をしており、この老人を見て、長安周辺も東晋になびいていると思った。

 ところが。


「……そうか」


「兄者?」


 桓温は不機嫌だった。

 長安は目の前であり、付近の住民は歓呼している。

 これに何の不満があるのかと桓沖は思ったが、こういう時の兄には何も言わない方がいいと判じ、幕営から出ようとした。

 その時に。


「華陰山の隠者?」


 幕僚のひとりが、そういう客が来た、と一人の男を連れて来ていた。



 その隠者は、くさかった。

 まだ三十歳前であるとおぼしき男だったが、かなりくさくて、しかも頭にしらみがいるらしく、時折頭に手をやっては、しらみを潰していた。

 東晋の勢族である桓温にとっては、それはかなり下品なおこないで、耐えがたいことであったが、会うことにした。


「かような、野の聖賢が会いに来る。これは、使える」


 つまり、桓温にとっては、自身の北伐によって、この地の在野の人材も会いに来たという「宣伝」になると判じたのだ。

 実際にその隠者が賢者かどうかなど、この際問題ではない。

 そういう出来事があったということは、桓温に箔がつく。

 そしてまた、桓温は「今後」のことに使えると見ていた……。



「見よ、隠者どの」


 桓温は隠者のにおいやしらみなど、まるで無いもののように振る舞い、みずから東晋の陣中を案内し、歩きながら、自分がいかにこの北伐のために尽力してきたかを──つまりはおのれの「手柄」を語った。


「──かように、かようにじゃ、隠者どの」


 本陣に戻りながら、桓温は力説した。

 前秦の軍を二度にわたって破り、自分は今、この長安の東面、㶚水のほとり──㶚上に陣している。

 これを知った付近の住民たちは、続々と牛や酒を献じに来ている。

 もはや北伐は成功していると言っていいだろう。


「……そのように、見えますな」


 隠者のそのいらえは、桓温のかんさわった。

 見えるとはなんだ、見えるとは。

 まるで──じつが伴っていない、みたいな言いようではないか。

 そこで桓温はふと、この隠者を試してみたくなった。


「時に、隠者どの」


「なんでござろう」


 においと蓬髪、そして髭に隠れてはいるが、精悍な顔つきの隠者はじっと見つめてきた。

 つよい視線だ。

 ひょっとしたら、この隠者は本当に賢者ではないのかと思う桓温である。

 しかしその疑問も、次なる問いでわかるであろう。


「我に精兵十万あり(実際は四万だが、東晋に残してきた兵も入れていると思われる)、こうして㶚上まで進撃し、民もなびいている……されど」


 そう、桓温には不満があった。

 ここまで。

 ここまで攻め入ってきたのに。


「なにゆえ……なにゆえ、豪族たちは我になびかないのか。今こそ我の威光にひれ伏し、ともに長安を攻めるべきであるのに」


 それが桓温の不満だった。

 庶民の支持はありがたい。

 しかし、彼らは兵にならない。

 そして、今でこそ牛や酒を持ってきているが、そのうち、米や麦をよこせと言い出すだろう。

 そうではなくて、兵や食糧を持っている豪族たちは、なんでこの桓温の下に集わないのか。

 兵や食を差し出さないのか。


「……ふむ」


 隠者はいかにもつまらぬという目をして、そしておもむろに髪の中に手を突っ込み、引っ張り出したしらみを潰した。

 桓温はしかめ面をした。

 こいつはやはり駄目か。

 名ばかりの隠者で、その実、何の問答もできない、金品や食糧めあてのか。

 そう思った時、隠者は立ち上がった。


「それはな、桓将軍」


「な、なんだ」


 立ち上がるとその精悍な風貌とあいまって、威厳を感じさせる隠者である。

 隠者は下を指差す。


「それはな……おぬしがこの㶚上に陣をかまえ、長安をだ。それはおぬし自身が、よう知っておることであろう?」


 桓温は硬直した。

 図星を指されて、硬直した。

 そうだった。

 桓温は心の中でつぶやく。

 思った以上に前秦はしぶとく、堅い。

 二回は勝てたものの、三回目も勝てる保証はない。

 兵糧の方も、実は不安がある。

 桓温としては、この地に麦が実るを待っているのだが、最近、前秦の龍驤将軍りゅうじょうしょうぐんを名乗る者が、麦畑の様子を見に来ているらしい。

 このままでは勝てない。

 勝てたとしても、長安を保てない。

 せっかく、殷浩の北伐が失敗したのに乗じたのに、その殷浩と同じく失敗するのはいただけない。

 そのためにも――。


「豪族どもの兵と糧食。それを得て長安を攻略し確保するつもりが……これでは駄目だ。これでは、帰るしかない」


 そう桓温はひとりごちたが、隠者は何も言わなかった。

 すでに、答えているということなのだろう。


「長安を攻めないからだ」


 ――と。

 桓温は歯噛みして、押し黙った。

 実は、隠者にここまでの才知を期待していなかった。

 東晋に取り入ろうとする、阿諛追従の輩だろうと思った。

 であれば、今は退くべきという占いなり何なりをしたことにして、撤退のきっかけにしようと思っていた。

 それを逆に、苦境と心中を喝破され、桓温としては、押し黙るほか、なかった。



 気がつくと、桓温は隠者がすでにいなくなっていることに気がついた。


「かれは」


「帰る、と言い置いて、行きましたが」


 桓沖がそうこたえると、桓温はすぐにあの者を追え、と命じた。


「あのような者、江東(東晋のこと)にはいない。わが陣中に迎え入れるのだ」


 急ぎ桓沖は馬を飛ばして隠者を追った。

 追ったものの、隠者はとうに姿をくらましたのか、追いつけなかった。

 桓沖が追跡を続行するか、やめるか考えあぐんだ時。

 前方に身なりのいい若者の姿が見えた。


「もし、そこのお方」


「私ですか」


 若者は丁寧に一礼して、桓沖に答えた。

 これには桓沖も一礼を返し、それから丁寧に説明した。

 華陰山の隠者を知らないか、と。


「いえ、知りません」


「そうか」


 残念だと桓沖はうなだれ、そして去って行った。

 それを見送った若者は、近くの藪に声をかけた。


「行きましたよ」


「すまん」


 藪から、隠者が現れた。

 隠者と若者は知り合いではない。

 たまたま行き合っただけだ。

 それでも、隠者が黙っていてくれと言うと、若者はわかったとうなずいた。

 何か、通じるものがあった。


「あの方は晋(東晋のこと)の将軍でしょう。あなたをお迎えするつもりだったのでは。なぜ逃げるのです」


「いやいや、あの者らは晋に帰るつもりだ。このまま長安を落とすというのなら、手を貸そうと思ったが」


 もうすでに、桓温の頭には、帰ることとそれに向けての道程が出来上がっている。

 まだ前秦と戦うこともあるだろうが、基本は撤退であり、そのことに変わりはないだろう。


「つまりは、それがしの出番はない」


 だから帰ると隠者は言い、華陰山への道を探した。

 若者は、あちらでしょうと指し示した。


「これは、ありがたい」


 ずっと山にいたから、道がわからなくて困ると隠者が愚痴をこぼしているところを、

若者が声をかけた。


「隠者どの」


「なんじゃ」


「ここで会ったのも何かの縁。ご尊名を教えてくれないだろうか」


「ああ」


 隠者は、頭を掻いて、しらみをひとつ潰した。

 そういえば桓温は名を聞いてこなかった。

 つまりは、隠者自身ではなく、隠者という属性を持った者の訪問を受けた、ということなのだろう。

 桓温は「隠者の訪問」という出来事を利用して、何をしたかったのか。

 それを考えることは、悪くない。

 帰る道中の、暇つぶしにはなる。

 だがその前に。


「王猛という」


「そうですか。私は……」


 そこで隠者──王猛は手を振って、若者の発言をさえぎった。


「いや、いい。そなたはそれがしを匿ったり、道を教えてくれた。しかし、それがしはそなたに何もしていない。だから、名乗ることはない」


 王猛は、若者が人品いやしからぬ様子を見て、ただものではないと見抜いた。

 だとすれば、もしかしたら東晋にねらわれる立場なのかもしれない。

 桓温がふたたび人を寄越していて、その者の耳に入ったりしたら。


「これはお気遣いを」


「いや、いい。いいと言うたから、もういい。さ、それがしはもう帰る。そなたも帰られよ」


「では」


 若者はおごそかに一礼して、去って行った。

 王猛もまた、華陰山へ帰った。


 その後、桓温は王猛に車馬を送ったり、官職を与えたりしたが、結局、王猛は華陰山から出ず、桓温も東晋へと帰って行った。

 この時、桓温は何をおいても王猛を東晋へ連れて帰るべきだったかもしれない。

 やがて王猛は――前秦の宰相となり、あの時の若者――前秦の龍驤将軍・符堅に仕え、共に前秦の帝位を奪い、やがて華北を統一し、名臣として名を馳せることになるのだから。


【了】


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